高田義裕の人生論

今日の格言

私達は自分の力で生きているのでは決して無く、生かされて初めて生きているのである。その証拠にあなたは呼吸を自分の意識の内に行っているだろうか。いや決して、私達は呼吸を無意識のうちに行っているのである。またあなたは、自分で自分の心臓を動かしているだろうか。もし自分の意志で動かしているなら、自分で好き勝手に止めたり動かしたり自由にコントロールできるはずである。しかし実際にはどうであろうか。私達は何一つ制御出来ないのである。すなわち、自分達の体はすべてオートマチックで動いているのである。これは自分自身が自分によって生きているのでは無い事の明らかな証しなのである。

2.物事の本当の事情は外見からは、すなわち人気、評判、見た目からは決して計る事は出来ないこと。なぜなら人気や評判や見た目は多分にその時々の特殊な演出や雰囲気や気分によってすぐに化学変化する(左右される)不安定な薬物の様なものだからである。

3.すべて何かを失えば代わりに必ず何かを得、すべて何かを得ればその代わりに必ず何かを失うものなのである。例えば、名声を得れば、自由なプライベートは失われるし、金儲けを止めれば、自由な時間が得られるのである。それで究極論として、すべてを得るためにはすべてを捨てなければならず、すべてを捨てるためにはすべてを得なければならないのである。よって人間はすべてのものを得る事は出来ないから、すべてのものを捨てる事も出来ないのである。よってすべてを捨てる事とすべてを得る事は互いに等しいのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間にとって最も大事な事は口の使い方である。相手に言ってしまった事はもはや元に戻らないのであり、私達は話す前によく考えてから言葉を選んで話すべきである。

2.生まれてこのかた失敗や迷惑をかけた事が無い者がまず神に反論するがよい。私達は多かれ少なかれ罪を犯している互いに同レベルの存在であり、私は彼より少しマシだとか、あるいは、私はあなた方よりだいぶマシだとか言って罪の数を細かく数えてランク付けする事は神の見地から見れば非常に虚しくナンセンスな事であり、誰もが皆50歩100歩なのである。

3.たとえ人が不正を行っているからと言って、少しも私達は他の人を裁く手間を取る必要は全く無いという事である。なぜなら他の人々も私達も誰もが皆、一つの公正さ、すなわち、すべて最後には自分達の蒔いた業の実を刈り取るのであり、最終的にはその行っている業のままに報われるからである。これは誰にも不公平は無いからである。

4.人生とは、その全般に渡って、未定、もしくは不確実な要素であり、私達にとって[永久に分からないもの]として定義されうるものであること。

5.人生がとにかく、生きるという事が非常に難解で問題が次々と生じてくると思われる時、これはそれに比例して[生]とは、神業の所産ゆえに私達には到底扱う事は無謀であるという事である。すべては[これは~である]とはっきり固定されうるかの様な私達の大好きな理屈では決して無いのである。すべては理屈(人智)を超えた神業なのである。

6.私達は義を全うする事も出来なければ、災いや試練や挫折から自力で完全に立ち上がれるほどの勇気を全うする事もまた出来ないのである。

7.聖書の言う完全さとは、未完成に到達する為の完成の事であること。すなわちあくまでも、スタートラインに立つための完成に過ぎないこと。

8.[子供を教育する]という本質とは、[すべてを明らかにしない(教えない)]という所から始まるものであり、ある意味において[嘘をつく]事なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

私達は何一つとして永久に知る事は出来ない。例えばある農夫が水車小屋で作業していた際、ふと普段使っている水車とは何かと考えた。水車とは上流から流れてくる川の水を利用してタービンを回し、そのタービンが歯車に伝わってその歯車が回り、歯車に連動している杵が穀物を脱穀するのである。それでは上流の水は、どこから来るのか考えると、海の水が太陽熱で蒸発してそれが雲になり、雲から雨が降る事によって山地に水がもたらされるのである。すると太陽とは何かを知らなければならなくなり、太陽を構成している太陽系の仕組みも知らなければならなくなり、次は太陽系を構成させている銀河系の仕組みも知らなければならなくなり、次には銀河系を構成している宇宙の仕組みも知らなければならなくなり、宇宙とはどの様にして出来たのかと考えると、それはビッグバンから始まったという事だから、ビッグバン以前はどうなっていたのかも知らなければならなくなる。この様に最初の水車小屋から始まってどんどん突き詰めて考えていくとあらゆるすべての現象を調べなければならなくなるのである。よって私達は身近なもの一つすら厳密に言えば何も分かっていないし、知る事が出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人類はこの後、神に従う者達と神に従わない者達、すなわち羊とヤギに分類され、ハルマゲドンを迎える。そして神に従う者達に対してイエスキリストが語られた言葉。[そしてイエスの12人の弟子達は言った。主よ、それはいつ起こるのですか?世界の終末には何がありますか。するとイエスは答えた。神に従う者達はパラダイス行きの電車に乗る者に例えられます。私が選んだ義なる人達はハルマゲドン後の地球の楽園(パラダイス)に入れる電車の予約チケットを与えられます。それで彼らは自分達の家から出て、駅に向かいます。まっすぐ駅の方を向いて歩いていく人達は幸いですが、ある人達は駅に向かう際、その通りにいろんな食べ物や魅力的な商品が並んでいる店屋に目を奪われます。それで彼らはこう言います。(パラダイス行きの電車が駅に着くまではまだ時間がある。少しの間ここで買い物をして行こう。)そして彼らはいろんな食べ物や品々を食べたり飲んだり選んだりし始めた。すると時間は瞬く間に経ち、彼らの1人がハッとそれに気付いてこう言います。(皆さん、もうすぐで電車が駅に到着する時刻です。急いで駅に向かいましょう。)それを聞いた者達はハッと我に返り、急いで駅の方に向かいます。そしてもう少しで駅の門の前に来た頃に電車が到着し、彼らは慌てて改札口に向かいます。しかし、その間に電車は汽笛を鳴らし出発してしまいます。彼らはそれを見て地団駄を踏んで歯ぎしりして泣き叫びます。こう言うと12人の弟子達は尋ねます。主よ、それはどういう意味ですか?するとイエスは答えられた。たとえその義の行いゆえに永遠の命を約束された者達であっても、主人が到着するまでこの世の中で食べたり飲んだり、嫁いだり娶ったりする事に夢中になっていれば、その者達が知らないうちに主人が帰ってきて、その時分に主人が到着するのを注意深く待っていた者達は主人と一緒に奥の間へ入りますが、遅れて到着した者が来て、戸をたたいて主よ、開けてください。私達は今到着しましたから、と言っても、主人はその者達に、私はあなた方の事を知りません。不法を働く者達よ、私から離れ去れ、と言います。それであなた方は日常の事柄にかまけるのを止めて常に見張っていなさい。選ばれる者は多いのですが、実際に救われる者は少ないのです。]

高田義裕の人生論

今日の格言

万物の公理

1.すべての事が可能である事とすべての事が不可能である事は互いに等しい。

2.すべての事が存在する事とすべての事が存在しない事は互いに等しい。

3.万物の成り立ちはすべて逆である。すなわち、白い性質のものは黒いものから出ており、黒い性質のものは白いものから出ているのである。

4.一つとは最初であり、最後であるという事である。

物事が大量に流れれば流れるほど、ほんの小さな誤差や粒子もまた大きい影響を及ぼす様になること。例えば、大きな国家はほんの小さな個人の行動によって戦争にまで発展する場合があること。また、車をゆっくり走らせる分には何の影響も無かったのであるが、徐々にスピードを上げて、時速300kmにまで達すると、道の上にある微小な石がフロントガラスに物凄い速さでぶつかり、フロントガラスにヒビが入ってしまうのと同様である。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

完璧さゆえの誤謬

ある女性がいた。彼女は若い頃から真面目で貞潔な女性だった。順調に結婚もし、子供も大きくなって自分が50歳くらいになった頃、ふとしたきっかけで美しい美青年を見かけた。その時はああ素敵な男性だわ、と思ったのだが、家に帰ってある程度時間が経った頃、突然ムラムラとその美青年とのセックスを連想してしまい、自分の性的欲情が止まらなくなった。そう、突然、淑女が淫乱に目覚めたのである。そこからは毎日淫らな性的シーンを連想しながらマスターベーションに耽った。なぜなら彼女はかわいそうな人間なのである。自分の人並み以上の性的欲情を抱えながらも彼女の年齢と容姿では、もはや若くていい男は誰も相手にしてくれないからである。彼女の欲望のはけ口は、どこにも見出されなかったのである。これはフィクションでは無い。実際の事例である。彼女はそのやりきれない欲望の苦しさの故に精神科医に相談もしている。しかし精神科医にももはやどうにも打つ手は無かった。このように無自覚に清く正しく生きていても、ある日突然ちょっとした誘惑で誤った方向にのめり込んでしまう場合があるのである。要するに清さを無自覚に保っていてもいずれ誘惑が来た時、なだれのように堕落してしまうのである。これはインフルエンザにかかった事の無い人が突然インフルエンザにかかるのに似ている。インフルエンザを防ぐにはインフルエンザ予防接種を受けてインフルエンザに対して免疫力をつけておかなければならない。この事例の一番最初のパターンはいつ見出されるか。それはアダムとエバである。アダムとエバは神から創造された時からずっと真面目に貞潔に生きていた。彼らには罪や欲望という概念はなかった。要するに彼らは無垢で純真だったのである。それゆえ、ある日突然、悪魔サタンから禁断の木の実を食べるように誘惑を受けてから、エバは罪に対する免疫力が無かったので、自分の心の内でムラムラとその木の実を食べたいという欲情が激しく燃え上り、遂には彼女は禁断の木の実を食べてしまったのである。この様に見てくると、聖書の言う罪というものに対して私はエバがそんなに悪いとは思わないのである。クリスチャンにとって罪とは非常に悪いものであり、忌むべきものとして捉えられているけれども、私が考えるに、アダムとエバが罪を犯すのは時間の問題でしかなかったということである。私はこの2人がそんなに罪深い事をしたとは思わない。むしろ、神によってあまりにも純真過ぎて完壁に造られたゆえにむしろ必然的に罪に目覚めたのである。そう、ここからは私もクリスチャンゆえに言いにくい事なのだが、最大のタブーとして究極的解答で結論すれば、神にとってアダムとエバが御自身に対して罪を犯すことは神にとって必然であったのである。むしろ禁断の木の実を食べてはならないと言われた神御自身がアダムとエバが罪を犯す事を初めから御計画であったという事である。なぜなら神の御業は完全であり、完全に造られた人間が神の意図せずに罪を犯す事は決して無いからである。よって人間の犯した罪は神が意図したものと捉えるしか無いのである。私は神の御意志やお考えを全部知っているわけでは無いので、その理由はわからないが、神の御業が何の失敗も無い完璧なものである以上、人間が罪を犯したのも神の予定の中に入っていたと言わざるを得ないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

あなたは今車を運転している。それで大通りに出たいのであるが、あなたは確実に待たなければならないが、安全に確実に渡れる信号機のある道路から出るか、それとも待つ必要は無いが、渡る際に車の交通の激しい合間を縫って渡るしか無い危険のリスクのある信号機の無い道路を選ぶか、どちらにするか。答えは二つの手段を交互に使うということである。すなわち、大通りという車の交通の激しい道路に出るには安全に確実に渡れる信号機のある道路を選び、そんなに車の交通の激しくない道路に出る時には待つ必要の無い信号機のない道路から出れば良いのである。すなわち人生においても交通の激しい道路のようにハイリスクを伴う事柄に出くわしたなら、それを回避し、あまり交通の激しく無い道路のようにハイリスクを伴わない事柄に出くわしたなら、それを渡るという事である。しかし人間の人生とは賭博そのものであるから、ハイリスクを選べばハイリターンが得られるし、ローリスクを選べばローリターンしか得られないのも事実である。しかしハイリスクハイリターンの危険な人生とローリスクローリターンの平凡で普通な人生のどちらかを選ぶと言うと、大半の人間はローリスクローリターンの普通の人生を送っているのである。しかし刺激を求めてあえてハイリスクハイリターンの危険な人生の方を選んだとしても、また安全を優先しローリスクローリターンな普通の人生の方を選んだとしても、人生の渡り方はどちらにしても危険な時は危険を出来るだけ回避し、なるべく安全な道を選ぶという二つの手段を交互に使い分けるというやり方は同じなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

動機付けが正しければそれは必ず実現する。

あなたの動機付けが正しければあなたの願望は必ず実現する。例えば、あなたが人からの賞賛を浴びたい、みんなから注目されたいという利己的な理由でスターやアイドルや俳優になりたいと思って努力してもそれは実現しない。しかしあなたは心の病を抱えていて、対人恐怖症で自閉症だったとする。それであなたはこの自分が惨めに感じているこの心の病をどうにかして克服したいと願い、大変な努力をしてあえて人前に出るようにしていた。そしてその心の病である対人恐怖症で自閉症であるハンディキャップをバネにして頑張っていたらなんと自分は自分が一番苦手としていた人前に自分を晒さなければならない一躍トップのスターダムにのし上がる事が出来た。このように動機が切実でハンディキャップを乗り越えるという正しい動機であれば、あなたの願望はなんであれ、必ず実現するのである。すなわち成功した人は古今東西すべて、利己的な理由で成功したのでは決して無く、すべて自分の苦手とするハンディキャップを乗り越えるために努力した結果、成功した人達ばかりなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

濡れやすくて乾きやすい靴と濡れにくくて乾きにくい靴とはどちらの方が利便性が良いか。まず10日間連続で雨が降るとする。そして両方が必要とする靴の数を計算し、10日間の中でどちらが必要とする靴の数が少ないかを調べるのである。まず濡れやすくて乾きやすい靴をAとし、濡れにくくて乾きにくい靴をBとする。Aの場合、1日目の雨の日はずぶ濡れになった。それで2日目はまた別のAを履く。そして2日目もずぶ濡れになった。それで次は3足目のAを履いた。そして3日目もずぶ濡れになった。しかし、その間に一番最初に履いたAがすっかり乾いていた。それで次はその乾いたAを履いた。そして4日目もずぶ濡れになった。しかしその間に2日目に履いたAがすっかり乾いていた。それで5日目はそのAを履いた。そして5日目もずぶ濡れになった。しかしその間に3日目に履いたAがすっかり乾いていた。それで次はその乾いたAを履いた。そう、Aの場合は、最低3足あればたとえ毎日雨が降っても事足りるのである。次はBを見てみよう。まず1日目にBを履いた。しかしそれは濡れにくいのでずぶ濡れにはならなかった。それで2日目も同じBを履いた。すると2日目にはBはずぶ濡れになった。それで3日目には二足目のBを履いた。しかしそれは濡れにくいのでずぶ濡れにはならなかった。それで4日目も同じBを履いた。すると4日目にはBはずぶ濡れになった。それで5日目には三足目のBを履いた。しかしそれは濡れにくいのでずぶ濡れにはならなかった。それで6日目も同じBを履いた。すると6日目にはBはずぶ濡れになった。それで7日目は4足目のBを履いた。しかしそれは濡れにくいのでずぶ濡れにはならなかった。それで8日目も同じBを履いた。すると8日目にはずぶ濡れになった。しかしようやく一番最初に履いたBの靴がすっかり乾いた。それで9日目には一番最初に履いた乾いたBを履いた。しかしそれは濡れにくいのでずぶ濡れにはならなかった。それで10日目も同じBを履いた。これで終了である。結果はどうであったか。濡れやすくて乾きやすいAは同じ靴を3足用意すればそれで事足りた。それに対し、濡れにくくて乾きにくいBは10日間の間に最低4足のBが必要であることが分かった。これにより、濡れやすくて乾きやすいAの方が濡れにくくて乾きにくいBよりも最低限必要な靴の数が一つ少ない分、靴を選ぶには濡れやすくて乾きやすい方が利便性がある事が判明した。このようにある対象の性質があって、それが実際にはどういう利便性を持つか知りたい場合、すなわち、その調べたい対象の性質の本質を知りたい場合、その性質の対象を無限に積み重ねて振るいにかけるのである。例えば極小のナノクラスの物質の本体を知るためには、その知りたい対象のナノクラスの物質を無限に積み重ねるのである。すると、それは普通の顕微鏡でも見れるほどまでその物質の結晶が析出してくるのである。このようにあるXという性質の本質を知るためにXを無限に積み重ねていく事によってそのXの本質を知る事を[無限集積法]と言う。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間とは皆、一方が衰えてくると、代わりに別の一方が抜きん出てくるのである。例えば、若い時は記憶力は良いが、決断力に欠ける。しかし年をとると記憶力は鈍るが、その代わり物事を決定する決断力が付いてくるのである。

1.人間にとって[存在する]とは、ただ前からそこにあった、という事を指すのでは決して無く、[困難であるが、不可能では無い]という事を指すのである。また、人間にとって[存在しない]とは、ただ前からそこに無い、という状態の事を指すのでは無く、[それは行う事は出来るが、行ってはならないこと]を初めて指すのである。

3.最初の人間アダムとエバが神に対して罪を犯したため、地は呪われた、と聖書に書かれているが、それは地が人に対して何か変化したのでは無く、むしろ人が地に対して変化したという事である。不完全で罪深くせいぜい長くても1世紀足らずしか寿命の無い今の私達人間にとっては、周囲の地のあらゆる作用、すなわち、動物界や自然界は非常な脅威であるが、これは何か彼らが私達に対して攻撃を仕掛けているわけでは無く、相対的に私達人間の側が弱くなっただけだからである。よってひとたび、救われた人類が命の永遠性を与えられる時、現在私達が常識として感じ、受けている周りの環境の状況とは全く違った様相を呈した周囲の状況が、永遠性を持った彼らに影響を与えるはずなのである。すなわち今とは全く違った感覚で動物界や自然界を捉えられる様になり、かつ、今では成立しておらず、むしろ今では考えられないような関係や状況に身を置き、それらを享受出来るようになるはずなのである。よって天地創造以来、人間以外の創造物は何一つ変わっていないのである。