高田義裕の人生論

今日の格言

文明論

人心乱れるとき、天災あり。

人間の文明には寿命がある。古今東西、いろいろな社会体制が生まれては消えていった。絶対王政から共産主義、軍国主義や貴族主義や世襲制、様々な支配体系が試みられ、すべては最後には崩壊していったのである。我々、現時点での社会体制は民主主義であり、資本主義である。それ以前の様々な支配体制はすべて戦争によって終わりを迎えた。そうである、それまで築き上げてきた価値観なり、富や財産、文明の中心地である都市は戦争によって破壊され、すべてはがれきの山となって崩れ落ちたのである。その都度、新しい社会体制はまたゼロから出発してきた。そう、人間の文明は長くもっても半世紀、50年であり、このサイクルが人類史を形作ってきたのである。我々の時代も同じである。民主主義や資本主義ももはや末期的であり、あと数年で崩壊しようとしている。民主主義は衆愚政治と化し、頼れるリーダーの不在を産み、言論の自由により、世の中はいろんな情報で溢れかえっているが、もはやどの情報を信じてよいのか分からなくなっている。資本主義はますます貧富の差の拡大を産み出し、資本主義の貪欲な利益の追求が地球環境を汚染し、その付けが自然災害となって、我々に降りかかっている。世界はまさにパラダイムチェンジのターニングポイントに我々は位置しているのである。私の国、日本も第二次世界大戦の敗戦により、軍国主義が崩壊した。その後、アメリカ合衆国の占領下において、日本は民主主義となり、一時は経済大国として名をはせた時もあった。しかしそれもバブル経済の崩壊により、その繁栄は終わりを迎え、そこから日本経済は急激に縮小し、不景気によるデフレーション経済となり、今に至っている。そうである、戦後、焼け野原から成長し、膨張し続けてきた日本型民主主義体制という資本主義はあと数年で崩壊しようとしているのである。このように我々の住む地球世界は1つの体制がずっと続く状態を許さないのであり、1つの体制がいつまでも富を独占することを拒むのである。これは万物の法則であり、倫理の大原則なのである。日本において、本来なら、優秀な政治家が舵取りをし、これまでの社会体制を全くの逆の方向へ導かなければならないのに、自由民主党という一党独裁が何十年にも渡り、既得権益層と化して、その権益を死ぬまで離そうとしない。一度敷かれてしまったレールはそう簡単には動かすことはできないのである。現代社会においては、昔のように戦争によって現体制を崩壊させることは倫理的にタブーであり、不可能である。そう、日本のこれまで積み上げてきた価値観なり、富や財産を人間の側から変えることは難しいのである。それでは万物の法則である大自然の摂理はどのように対処するのであろうか。そう、人間が変われないなら、自然の力で変えようと働きかけるのである。それこそが天災であり、近年の日本の自然災害の増加に必然的につながっているのである。要するに、人間の1つの文明がまた50年周期の終わりに差し掛かっており、それは大自然の地殻変動という大地震によってひとたび日本を再び昔の焼け野原に変えようとしているのである。よって、日本の大都市である東京に最も人や富や財産、そして既得権益層が集中しているため、大自然の摂理の法則は、首都、東京を標的にして大地震によって現体制を終わらせようとしているのである。まさに今、日本はパラダイムチェンジのターニングポイントのただ中にいるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

日本の国民よ、早く逃げよ。とてつもない大きな地震がまもなく来る。フィリピンプレートがやばい。南海トラフ大地震である。東京にいる者は早く首都から脱出せよ。あまりにも東京に人と富とが集中し過ぎた。大自然は倫理の法則に従って、このアンバランスを元に戻そうと振り子のように動くから、地震が起きるのである。日本の東日本は沈没し、東京の代わりに大阪が代理の首都となる。最近の日本周辺の小規模地震は南海トラフ大地震の予兆であり、人々に避難を促す警告である。今月の3月中までにそれは起きる。人々よ、今すぐ逃げよ。どうしてあなた達が死んで良いだろうか。

高田義裕の人生論

今日の格言

無神論者達に対して。

無神論者は神など存在しないと言う。これは実は甚だ本末転倒な主張なのである。これを例えで考えてみよう。まず私が芸能人だとする。私はある芸能プロダクションの会社に雇われている。すなわち、芸能プロダクションの会社から仕事を貰って、芸能活動を行っているのだ。私はあるテレビ番組の司会者を任された。それで、テレビの前の視聴者に面白おかしく世の中の情勢を自由に自分の意見を話して、視聴者から人気が出た。ある時、事件が起きた。なんと私の所属する芸能プロダクションの会社が不正を行い、人々から非難を受けたのである。当然、私のテレビ番組もその事件を扱うことになった。私は視聴者から人気があったため、つい調子に乗って自分の会社を非難した。ここがおかしいのである。私は自分の会社のお陰でテレビ番組の司会者になれたのに、その立場を利用して自分の会社のことを悪く言ったのである。本来なら、自分のテレビ番組で自分の会社を非難することは、自分の立場上、言える権限はなく、それに対しては、沈黙すべきだったのである。もし、その芸能プロダクションの会社を非難したければ、その芸能プロダクションの会社から貰ったテレビ番組の司会者を辞めて、新たに自分の自力で芸能プロダクションの会社を立ち上げ、自分の力でテレビ番組の司会者になって初めて非難する権限を持つのである。これと同じで、神は存在しないという主張も、あくまで神が存在するお陰で初めて言えることであり、神は存在しないという主張も神が存在することに依存しているのである。よって、我々には最初から神は存在しないなどと主張する権限はないのである。もし、正当に神が存在しないことを主張したければ、神から貰ったこの命を一旦捨て、自分の自力で命を誕生させ、まったく神からの恩恵を受けずに、独立した存在になって、初めて、神は存在しないということを主張する権限を持つのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

肉と霊の違い

肉的とは何か?それは欲望を満たすことである。それに対し、霊的とは何か?それは欲望を満たさないことである。例えば、肉は飢えれば食し、渇けば飲むことを要求するのである。肉的な人間は、自分の飽くことなき欲望を遂げようと必死になる。そこには常に争いが生じ、争いは軋轢を生み出し、軋轢は人の心を欲求不満にならせ、人は心身を病み、終始、苦しむことになる。しかし、霊的な人は違う。人は皆、失って、初めて、それが自分にとって必要不可欠なものであることに気付く。ある人々は今まで家族が一緒にいることは当たり前のことと思っていた。しかし、ある日、突然、災難に遭って家族すべてを失い、自分1人だけが生き延びた。彼は嘆き悲しみ、自分の哀れな境遇を呪った。そして、生きている限り、彼は自分にとってかけがえのない家族のことを思い浮かべながら、孤独を生き抜いた。そうである、人はもはや二度と手に入れることのできないことによって、それを実際に手に入れている人達よりも、それを永遠に愛することができる。あこがれこそ、人を富ませ、人格を形成し、そこには深い孤独感とともに自分にしかわからない心地よい自分の世界の境地を生み出す。これこそ、霊的な世界なのである。よって、すべてのものを手に入れるためには、今一度、すべてのものを失う必要があるのである。人は失うことによって初めて成長するからである。あなたには最愛の異性がいたか?もし、あなたが異性を何らかの形で失っても、それによって、失う以前よりも相手のことを愛することができる。もし、失わずにずっと二人でいたら、互いの存在の有り難さに気が付かず、むしろ、些細なことで喧嘩して離婚していたかもしれない。なぜなら、肉の思うことは一時的であるが、霊の思うことは永遠だからである。よって、すべてのものを手に入れることのできる者とは誰か?それは神である。なぜなら、神は肉ではなく、霊的存在だからである。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、ヨハネによる書、4章23と24節。[とはいえ、真の崇拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来ようとしています。それは今なのです。実際、父は、ご自分をそのように崇拝する者達を求めておられるのです。神は霊であられるので、神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません。]よって、大切な人を失った者達よ、あなたの頭をまっすぐ上にあげなさい。なぜなら、失ったことがない人よりも、失ったことによる悲しみを他の人と分かち合える人の方が幸福だからである。なぜなら、その人はもはや肉的ではなく、霊的な人だからである。神は傲慢な者達に敵対し、謙遜でへりくだった者達に過分のご親切をお与えになるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神の存在の証明

否定背理法

まず、存在するかわからないものをオメガと置く。そしてそれ以外のものをアンチオメガと置く。そしてもし、アンチオメガが存在することを証明できたならば、間接的にオメガの存在も証明できたことになる。なぜならアンチオメガは書いた字のごとく、オメガの存在を前提として初めて成り立つ概念だからである。

否定背理法の具体的適用

[神が存在するか]はわからないので、[神が存在する]をオメガと置く。そして神は存在しないことをアンチオメガと置く。もし、神が存在しないことを証明できたならば、すなわち、アンチオメガが存在することを証明できたならば、間接的にオメガの存在も証明できたことになる。なぜなら、神は存在しないという主張自体がアンチオメガであり、神が存在すること[オメガ]を前提にしたものだからである。よって、神は存在しないことが確実ならば、間接的に神が存在することも確実なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人は何のために生きるのか?また、自分自身とは何か?また、人間とは何か?

人はなぜ生きるのか? 残念ながら、その答えは、私達が生きている限り、永久にわからない。また、自分とは何か? 残念ながら、それも自分が自分自身である限り、永久にわからない。古今東西、人類はこの答えを得るべく、多くの哲学者が知恵を絞り、あらゆる事を試し、あらゆる手段を講じて熟考し、思索し、探求し続けてきた。しかし、それは私達が人間である限り、永久にわからないのである。この意味は、我々にはその答えを知る能力がないとか、力量不足であるとか、努力不足であるとか、知恵がないという意味では決してない。すなわち、我々が何者であるのかは、原理的にわからないのである。その理由をこれから説明しよう。仮に一次元人がいたとしよう。一次元とは線のことだが、この一次元人には線は見えない。点にしか見えないはずだ。なぜなら、線が線として見えるのは、二次元以上の人だからだ。同様に、二次元人がいたとしよう。二次元とは面のことだが、二次元人には面は見えない。つまり、形が見えないのだ。面が面として見えるのは、三次元以上の人だからだ。このように、それ自身はそれ自身が見えないのである。すなわち、見る対象を見ることができるのは、常にその次元より1つ高い存在でなければならないのである。よって、我々は生きており、自分は自分自身であり、我々は人間そのものであるから、我々は生きるとは何か?、自分自身とは何か?、人間とは何か?、を知ることは、原理的に不可能なのである。言い換えれば、我々は生の奴隷であり、自分自身の奴隷であり、人間という奴隷なのである。よってもし、我々が生きるとは何か?、自分自身とは何か?、人間とは何か?、を知るためには、それらよりも一段高い次元から見なければならないということである。すなわち、生きるとは何かを知るためには、生きることを超越しなければならないし、自分自身とは何かを知るためには、自分自身を超越しなければならないし、人間とは何かを知るためには、人間を超越しなければならないのである。しかし、そんなことは我々には到底、不可能なことであるから、私達は永久に、生きるとは何か、自分自身とは何か、人間とは何か、を知ることはできないということである。それでは、それらの事を知ることができるのは、誰か?。それは神である。なぜなら、神は我々よりも高次元な存在であるから。よって、人はよくよく神を知ることに努めよう。なぜなら、神を知ることが、人にとっての知識の初めだからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

倫理学序説

倫理の等価交換性は常に成り立っているか?

一見、この世の中は公平ではなく、不公平だらけな気がする。しかし、やはりこの世の中は本質的に公平に出来ており、すべての者は自分が汗して働いた分しか得られないのである。すなわち、表面的には不平等に見えても、本質的には皆、平等なのである。これを倫理の等価交換性という。例えば、自由とは何か?それは最初に束縛状態であった環境から自分を解放することである。例えば、生まれつき、貧しい家庭に生まれ、その日の食物にも事欠く人物がいたとする。それで、その人は身を粉にして働き、貧困という束縛から遂に大金持ちになり、貧困から脱出した。そう、この状態こそが自由になったということなのである。そして、その人は結婚し、子供が生まれ、その子供は生まれつき、なに不自由なく育った。そして我々はその子供の恵まれた境遇を見て、それを妬み、何の苦労もせずに裕福に暮らしている人達と自分達の境遇を比べて、本当に世の中とは不公平なものだ、と言うのである。しかし、その子供は果たして本当に自由な立場にいるのであろうか?いや、決してそうではない。なぜなら、時を経て、その子供が成人して大人になり、仕事につくことになった。その親は当たり前のように高価なスーツや、高価な靴、高価な腕時計を子供に身に付けさせて家から送り出した。すると、職場の同僚達は彼の身なりを見て、皆、彼に対して妬みの感情を覚えた。しかし、ある時、ある1人の同僚が自分の身に付けている安い電池の時計が止まったことに舌打ちし、その子供に今、何時か尋ねた。しかし、成人した子供は生まれつき高級品に囲まれて育ったため、なんの悪気もなく、こう言った。今は11時です。私の時計は自動巻きなので止まることはありません。これを聞いたその同僚は、高価な自動巻き腕時計を自分に自慢したと思い込み、腹を立て、彼に対して恨みを抱いた。そして、その腹いせから、他の同僚達と一緒になって、事あるごとに彼をいじめた。そうして、その子供は次第に精神的に病み、遂には仕事場に行きたくなくなり、仕事を退職してしまった。その後、その子供はそのいじめがきっかけで、自分の自宅に引きこもり、社会的不適幼児になってしまった。どうであろう、生まれつき、なに不自由なく育っても、その子にとっては裕福さが仇となり、社会的人間関係にうまく順応できなかったのである。すなわち、家庭の中では自由でも、一歩、社会に出ると、不自由さを経験しなければならなかったのである。よって、彼が越えなければならない壁は、周りの人達からのいじめという束縛から自分を解放して、社会にうまく順応し、精神的貧困から脱出しなければならないのである。それが、彼にとっての真の自由を意味するのである。よって、この世の中は、見た目には不公平に見えても、本質的には公平なのである。金持ちには金持ちなりの、貧乏人には決してわからない深刻な問題を抱えているのである。この意味において、結局、人は自分が汗して働いた分しか自由を得られないのであり、結論として、倫理の等価交換性は、常に成り立っているということである。

高田義裕の人生論

今日の格言

世界の複雑性とは何か?

人は無知ゆえに悲しみ、そして無知ゆえに喜ぶ。例えば、あなたがもし、自分が死ぬ日を知っていたならどうなるであろうか?おそらく意気消沈し、死ぬ日までのカウントダウンが始まり、自分の死ぬ日がどんどん近づくのを恐れて、毎日の日々を暗澹たる思いで、過ごすことになるだろう。そうなのだ、人は自分が死ぬ日を知らないから、日々陽気に過ごせるのである。すなわち人は無知ゆえに幸福なのである。この全世界もそうである。世界規模の地球温暖化によって、地球のあらゆる地域の気温が上昇するわけではない。むしろ、赤道付近の気候は気温が下がり、北極圏は気温が上昇するのであり、砂漠気候に雨が降り、雪が降らなかった所に雪が降るようになるのである。そうなのだ、地球温暖化によって、すべての人に平等に悪影響が及ぶのではなく、地球温暖化によって、都合の良い地域も生じれば、都合の悪い地域も生じるということなのである。すなわち、地球の気象全体は複雑に出来ており、答えは1つではないのである。さらに、新型コロナウィルスによって、世界中のすべての人が悪影響を受けるのかというと、決してそうではなく、新型コロナウィルスのお陰で今まで苦しかった生活が、楽になる者もいるし、新型コロナウィルスのせいで、今まで楽だった生活が苦しくなる者もいるのである。例えば、新型コロナウィルスによって、仕事が激減し、倒産する飲食店や宿泊業が出てくるのに対し、Amazonのジョフベゾスのように、新型コロナウィルスのお陰で通信販売の売り上げが激増し、7兆円もの資産が増える者もいるのである。このように、現実社会は非常に複雑に出来ており、それが良いか、悪いかの1つの判断に絞られるわけでは決してないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

今年も後、数日で終わる。来年はどんな年になるだろうか?来年は今年よりますます悲惨な年となる。頼れる政治的リーダーの不在により、世の中はますます混迷度を増し、世界中でパニックが起こるであろう。人々は拠り所を無くし、将来の不安から気を失うであろう。問題は、日本の南海トラフ地震が直撃する事だ。その証拠に、今は極寒の大雪警報が出ているにもかかわらず、富士山の頂上に積雪がないことである。地面の下では溶岩流が非常に活発化しており、いつ富士山が噴火してもおかしくない。東京は火山灰にまみれ、直下型地震に襲われる。東京は遠い昔に、神によって滅ぼされたソドムとゴモラのようである。政治家はもはや末期的症状なまでに腐敗しており、神エホバのおられる天にまでその苦情は達したからである。ついに日本の支配層に神罰が下されるだろう。東京は大地震により、壊滅するであろう。人々の驕りの生活の付けが今まさに一度に降りかかるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神の存在の起源

ある人は神に言った。私の願いを叶えください。すると、神は言われた。良かろう、あなたの願いを述べなさい。すると、彼は言った。私は生まれつき孤児であり、他の人達からいつも差別され、虐げられてきました。それでどうか神よ、私がすべての生き物の頂点に立てるよう唯一の神にしてください。すると、神は言われた。良かろう、私はあなたに神の座を譲ろう。神は彼を憐れんでそう言われたのである。すると、彼は唯一の神となった。彼は自分が神となったことで喜び、我を忘れるほどになり、これまで自分を不遜に扱ってきたすべての者達に対して復讐し、2倍の仕方でこれを殺した。そして自分の思いのままにこの全世界を支配して己自ら悪魔サタンとなった。さて、ある日、日のそよ風のころに悪魔が園の中を歩かれていた時にある1人の人をご覧になった。その人は生まれつき孤児で他の人達からいつも差別され、虐げられていたのである。それは遠い昔、自分が差別され、虐げられていた自分自身とそっくりであった。悪魔サタンは彼に対して言った。人よ、あなたの願いを言いなさい。私はそれを全部叶えてあげよう。悪魔サタンは彼を憐れんでそう言ったのである。すると、その哀れな者は言った。主よ、私は自分が惨めな者であることにいつも苦しんできました。私は自分だけが惨めで特別に不幸であると思ってきました。しかし、今一度、冷静にこの全世界を見渡した時、自分だけが惨めで哀れな者でない事に気付きました。実に、この世界で起きた事柄すべてが惨めで悲惨であることを知るに至ったのです。悪魔はそれを聞くと、イライラしながら言った。そんなことはあなたには直接に関係のないことだ。早く自分の願いを言いなさい。すると驚いたことに彼はこう言ったのである。今までに起きたすべての悲惨で愚かな事柄を無かったことにし、すべてのものを取り戻してください。すると、悪魔は苦々しく言った。願いを叶えてやるが、その代わりに代償が必要だ。あなたはその代わりに何をくれるのか。悪魔はこの世界のすべての悲惨な事柄は、自分自身の欲望だけを優先することで生じたことを承知していたからである。すると、彼は言った。あなたもまた、この世の中もすべて消滅する代わりに私自身の命をあげましょう。すると、彼はたちどころに死んだ。その代わり、悪魔サタンもすべての悲惨な事柄も消滅し、すべてのものは元通りに戻ったのである。すると、たちどころに彼は死から甦り、神となった。なぜなら、彼の願いですべては再創造されたからである。これにより、神はまたあるべき神に戻った。そして神は言われた。悪魔サタンよ、あなたは私に願いが叶う代わりに代償を求めたが、見よ、あなたは自分の業ゆえに消滅した。あなたはすべての者が、自分の行った業に対して、必ず報いを受けることを知らなかったのか。まさにあなたの業が私を産んだのである、と。これこそが神の存在する起源なのである。