高田義裕の人生論

今日の格言

過去は変えられる。

人生とは最終的には何をもって計られるのだろうか。すなわち人生をテストに例えれば、テストで何点取ればよいのだろうか。文字通りのテストは最高点によって、その勝敗は決まる。では人生とは最高点を取ればそれで勝敗は決まるのだろうか。実はそうではない。人生の勝敗を決めるのは、最高点ではなく、あくまでも平均点であるという事である。すなわち、年若い頃に非常に優秀で人生において最高点を取ったとしよう。しかし、その人はそれで満足してしまい、その後の人生は全く努力しなかった。すなわち、人生という長いスパンにおいて、一時期に100点満点を取っても、その後、何もしなければ、点数は減っていく。すなわち、10歳代は100点取っても、20歳代で50点取り、30歳代で20点取り、40歳代で10点になり、50歳代で0点になる。そして60歳代の高齢者になると、体と精神も遥かに衰え、点数は-10になった。そして70歳代には-50点になって、そうして彼は死んだ。それでは彼の人生とはどう評価されるか。先ほども述べたように人生とは平均点で決まるから、すべての年代の点数を足して、生きた分の年数で割ればよいのである。すなわち、100+50+20+10+(-10)+(-50)=120である。これを120÷70歳で割り、120÷70=約1.7点となる。すなわち、彼の人生の評価は1.7点であった。またもう1人の人がいて、彼は若い10歳代の頃に親の離婚が原因で、不良になり、10歳代の点数は-100点であった。しかし、周りの人たちの愛ある親切のお陰で、その人は自分を取り戻し、周りを見返してやろうと、努力し始めた。そして20歳代には点数は50点になり、30歳代には80点になり、彼はそのまま努力を続けて40歳代には100点に達した。しかし彼はそれに甘んじること無く、若い頃の失敗を取り戻そうと、強い負けん気とハングリー精神で生涯頑張り続けた。すなわち、彼は50歳代には150点を取り、60歳代には200点を取り、70歳代になっても若い頃から努力してきたお陰で、心身は衰えず、250点を取った。そして彼は最初の若い頃の10代の時しか100点を取らなかった人よりも長生きし、80歳代になって、270点を取り、なんと90歳まで生きて、最終的には300点を取った。それでは後者の人の人生とはどう評価されるか。先ほどにも述べたように人生とは平均点で決まるから、すべての年代の点数を足して、生きた分の年数で割ってやればよいのである。すなわち、(-100)+50+80+100+150+200+250+270+300=1300となった。これを1300÷90歳で割り、1300÷90=約14.0点となった。どうであろう。最初の人の人生の平均点は1.7であるのに対し、後者の人の人生の平均点は14点である。14÷1.7=約8.2点であり、最初から順調な人生だったエリート的な人から比べて、最初につまづいて、その後、反省して努力した、負け組同然だった人の方がその8倍もの差をつけたのである。これから得られる教訓は、例え、エリートでも油断すれば、最終的には人生は負け組になってしまうのであり、例え、最初は差をつけられていて負け組であっても、あきらめずに努力し続けるなら、最終的には人生は勝ち組になれるという事である。よって、最初から順調な者よ、決して油断せずにその努力をし続けよ。そうしないと最終的には負け組になってしまう。また、最初からつまづいた者よ、諦めること無く、努力をする事を止めてはいけない。そうすれば必ず最終的には勝ち組になれる。すなわち、過去が良くても悪くても、その後の人生の取り組み方次第で、過去は変えられるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

罪(sin)の意味するもの。

母国語しか話せない者は、自分の母国語の特徴が分からない。すなわち、他の言語を習得して、初めて、自分の母国語を客観的に見る事が出来る。同様に、自分の国から出た事が無い者は、自国の本当の良さや悪さなどの特徴が分からない。他の国に住んでみて、初めて自国の本当の良さや悪さが分かる。すなわち、何事も比べてみなければ、本当の良さや悪さが分からないのである。これと同じく、最初の人間、アダムとエバも神の支配する平和で楽しく、素晴らしい世界に住んでいたが、その神の支配する平和で楽しく、素晴らしい事を十分に理解していなかった。なぜなら自分達が生まれた時からそれは整えられていたので、それが当たり前だったからである。すなわち、神の支配する世界しか知らない、そう、それ以上素晴らしいものは無かったので、比べて比較するものがなかったのである。よって悪魔サタンが、神の支配する世界より、彼ら人間が支配する世界の方がより平和で楽しく、素晴らしいと言って、彼らを誘惑したのである。そこで最初の人間アダムとエバは、神の支配を捨てて、自分達の支配する世界を選んだのである。これにより初めて、神の支配する世界と自分達が支配する世界を比べる事が出来た。よって、人間は罪(sin)を犯して初めて、いかに神の支配する世界が素晴らしいものであったかようやく認識出来たのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人の人生とは、道路を走る自動車に例えられる。道路にはもちろん信号がある。ここで青信号とは、人生での順境を指し、赤信号とは人生での逆境を指す。私達が自動車を運転する上でよく経験する事は、連続して2回も3回も赤信号に引っかかる場合があるという事である。すなわち人生で言えば、逆境が2度も3度も繰り返し襲う場合があるという事である。また私達が自動車を運転する上でよく経験する事は、連続して2回も3回も青信号になって、スイスイ進める場合があるという事である。これは人生で言えば、順境が立て続けに続いて、もの事が次々と成功する場合があるという事である。しかし、信号機の性質上、赤信号がずっと続く事が無い事も私達が自動車を運転する上で経験している。すなわち、立て続けに赤信号が続いた後は、必ず青信号になるという事である。すなわちこれは人生で言えば、立て続けに逆境が襲っても、後には必ず順境が訪れる事を意味する。また、信号機の性質上、青信号がずっと続く事が無い事も私達が自動車を運転する上で経験している。すなわち、立て続けに青信号が続いた後は、必ず赤信号に引っかかるという事である。すなわちこれは人生で言えば、立て続けに順境が続いた後は必ず逆境が襲う事を意味する。よって逆境の内にある者達よ、今は逆境が続いているけれども、いずれ雨はやみ、必ず日が射すように、その逆境はずっとは続かない。必ず辛抱すれば順境がやって来るから、それを信じて、希望を持って今の試練に耐えよう。また、今、もの事がすべて順調に行っている者達よ、今は順境が続いても、晴れが続けば、必ず雨の日が来るように、その順境はずっとは続かない。必ず予期せぬ日に逆境はやって来るから、それを想定して、今の順調な時に浪費せず、穀物を倉に集め入れるように、備蓄しておきなさい。また、自動車で遠くに出かけようとすればするほど、信号機の数も多くなる。すなわち赤信号に引っかかる確率も青信号になる確率も多くなる。また、自動車で近場しか移動しなければしないほど、信号機の数も少なくなる。すなわち、赤信号に引っかかる確率も青信号になる確率も低くなる。すなわち人の人生で言えば、人が野望を抱いて、お金を儲けようとすればするほど、赤信号という逆境に遭う確率も高くなれば、また同時に青信号という順境に遭う確率も高くなる。まさにこれは賭け事である。また人の人生で言えば、人が野心を抱かずにお金を儲けようと欲張らずに静かに暮らしていれば、赤信号という逆境に遭う確率も低くなりれば、その代わりに青信号という順境に遭う確率も低くなる。あなたはどう生きるか好きな方を選べばよい。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

奇蹟やしるしは不信者達が信じるためのものであり、信仰者にとって、もはや、それは必要の無いものなのである。

2.真の宗教とは、あくまでも現実の出来事に関する事柄の事であって、宗教の教理に関する事柄の事では決してないのである。であるから、真の宗教とは、時間をかけて学び、厳しい修行をしなければ真理を得る事が出来ないという主張はすべて偽りである事もまた同時に分かる。彼らのように救いのために修行する者達は、自分の救いのための宗教のつもりであったものが、いつの間にか宗教の教理のための自分というジレンマに陥る事になるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

終わりのしるし

いよいよ、コロナ新型肺炎も深刻な事態になってきた。感染者は世界の中では、中国の次に日本が一番多い。日本では既に第三者感染が始まっている。私も感染する可能性が大いにある。しかし、この世界情勢は遥か2000年以上も前から聖書によって予告されていた。まさに世界が終わる終末の日にイエスキリストは世界がどうなるのか述べている。新約聖書、ルカによる福音書、21章7節から11節。[そこで弟子達はイエスに質問して言った。師よ、そのような事は実際にはいつあるのでしょうか。また、そのような事が起きるように定まった終わりの時のしるしは何がありますか。イエスは言われた。惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て、わたしがそれだ、とか、その時は近づいた、とか言うからです。その後に付いて行ってはなりません。さらに、戦争や無秩序な事態について聞いても、恐れおののいてなりません。これらはまず必ず起きる事だからです。しかし、終わりはすぐには来ないのです。それからイエスはさらにこう言われた。国民は国民に、王国は王国に敵対して立ち上がるでしょう。そして、大きな地震があり、そこからここへと伝染病や食料不足があります。また、恐ろしい光景や天からの大いなるしるしがあるでしょう。]どうであろう。まさに今の世界情勢を端的に言い当ててはいないだろうか。現在、世界では日本を中心に大きな地震が頻繁に起きており、まさに世界的な疫病も今年になってから始まった。イエスキリストの言われる終わりは近いのである。注意しなければならない点は[そこからここへと]と、書かれている通り、全世界規模で疫病や飢餓がこれから、幾たびも世界を襲うという点である。飢餓が起きると書いてあるから、これから世界の支配者達は、人工的に作物が不作になるように操作し、世界規模で食料不足を引き起こすつもりであろう。そう、前代未聞の世界的に無秩序な情勢になるという事である。しかし、希望もある。なぜならイエスキリストはそれを見聞きしても恐れおののいてはいけない、と述べているからである。だから、極度に怯える必要はない。これからさらに恐ろしい光景や天からの大いなるしるしが出現するであろう。また聖書の別の部分にはこうも書かれてある。新約聖書、マタイによる福音書、24章21節から22節。[その時、世の初めから今に至るまで起きたことがなく、いいえ、2度と起きないような大患難があるからです。実際、その日が短くされないとすれば、肉なる者は誰も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのゆえに、そのは短くされるのです。]そうである、神エホバによって選ばれた人々のために、本来すべての人間が滅びるところを容赦してその大患難の期間は短くされるのである。どうか、あなた方が神エホバから選ばれた人々となりますように、アーメン。

高田義裕の人生論

今日の格言

理論エンジン(すべてのジレンマ)

すべては存在すると仮定する。すると、[すべては存在しない事も存在する。]よって、すべては存在しない。すると、[すべては存在しない事も存在しない。]よって、すべては存在する。これが無限に続く。すなわち、[すべては存在する]をAとし、[すべては存在しない]をBとすると、ABABABAB・・・・・と順列が交互に切り替わりながら、無限ループに陥る。これを、すべてに関するジレンマと言い、理論エンジンと言う。これを実際の現実世界に変換し、全く無害な無限エネルギーとして代用出来ないか。これが現実に応用されれば、石油も石炭も原子力発電もすべて無用になる。すなわち、有害な二酸化炭素を排出する事も無く、地球の環境汚染問題は解決されるのである。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

万物の根本原理

万物はどのようにして存在するようになったか。まず初めに、すべてが存在すると仮定する。すると、[すべてが存在しない]という事も存在する。よってすべては存在しない。これは仮定に反する。よってすべてのものは存在しない。よって、すべてのものは存在しないという事は、[すべてのものは存在しない]という事も存在しない。よってすべてのものは存在する。よって[すべてのものは存在する]をAとすれば、[すべてのものは存在しない]はアンチAと表される。よってすべてのものはアンチAである。よってすべてのものは存在しないからこそ、すべてのものは存在するのである。よってある事柄が存在する事を証明したい場合は、すべてそれが存在しない事を証明すれば良い。すなわち何かを立証したい時、それが存在する事を証明しようとするのでは無く、まず、それが存在しない事を証明するのである。例えば、あなたがBというものの存在を証明したければ、逆にBというものが存在しない事を証明すれば良いのである。すなわち、アンチBを証明すれば良いのである。そうすればBが存在する事を証明した事になる。すなわち、結論として、万物はすべて否定から始まったのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

どんなに遠くにある様に思えても、どんなに大きく思えても、どんなに多く思えても、的から離れさえしていなければ、すべてを自分の手中に収める事が出来る。それを核と言う。どんなものにも核は存在する。遠いという事は、例えば、A地点から遠いとか言うはずである。なぜなら、それがA地点やB地点やC地点からなどという、起点を固定しなければ、距離は測定出来ないから、遠いとか、近いとかという判断が出来ない。すなわち、この起点が核に当たるのである。もし、起点という核が無くて、バラバラの状態から遠いなどと言っても、どこからどこまで遠いのか、はっきりしないのなら、それは遠いとは定義出来ないのである。また、大きいという事は、Aよりも大きいととか、言うはずである。すなわち、互いに比べる状態が整っていて初めてBはAよりも大きいなどと言えるのである。すなわち比べる対象を固定しないと、大きいとか、小さいとかは判断出来ないわけで、この比べる対象自体の存在が核に相当するのである。また、多いという事は、バラバラの品種のものがどれだけあっても、それは多いとは言えない。あくまでも品種を一つに絞り、例えば、オレンジという品種に限定すれば、それは多いとか、少ないとかが判断出来るわけである。この一品目に限定する事がこの場合は核なのである。すなわち、核とはそれを基礎付け、形作っている根幹そのものなのであり、言い換えれば、それがなかったら、壊れてしまうものなのである。すなわち核とは急所でもあるのである。よって、あなた方はそれが途方も無く、遠過ぎて手が届かないと言って、諦めたり、それが大き過ぎて脅威を感じたり、それが多過ぎて手に負えないなどと悲観する必要は無い。すなわちすべての物事には急所である核があるのであるから、見た目の巨大さに騙されず、常に一番肝心なところ、すなわち核さえ押さえておけば、どんなに自分達よりも強い存在があっても、それを制御する事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

民主主義の共産主義化

民主主義は自由だって? とんでも無い。単にそれは表面的に言論の自由があるだけで、実際の社会体制はガチガチのしがらみだらけの既得権益層がしっかり我々を縛っている。なぜそうなるかと言うと、例えばハウスメーカーがあるとして、そこには実際に家を作る大工が在籍しているわけであるが、実際に家を作るのは大工だから、ものすごく威張っている。しかし、大工の腕は確かでも、彼には営業力が無い。すなわち職人気質ではあるが、お客を取ってくる接客業には向いていないのである。だから、どこかのハウスメーカーに身を置く事になるのである。政治も一緒だ。実際に政治を運営しているのは、官僚達である。しかし、彼らは事務能力はあっても、営業力が無い。すなわち、有権者を引っぱってくる様な接客業には向いていないのである。それで、表向きに営業力のある、接客業には自信がある、いわば、ハウスメーカーの顔とも言うべき、営業マンが必要となってくる。政治で言えば、政治家達である。彼らはその見た目の感じの良さや口のうまさで、ハウスメーカーの営業マンの様に有権者というお金を払ってくれるお客を連れてくるのである。しかしそこまでで、政治家には対人力があるが、実際に家を作る技量や能力は無い。これと同じく、政治家は有権者というお客を連れてくるだけでその役割を終えると、後の政治の難しい舵取りの方は官僚達に変わってもらうしかない。すなわち我々国民が自由なのは、政治家という表向きの看板を新調するだけに過ぎないのである。どれだけ政治家を選んでも、すなわち、どれだけ表の看板を新調しても、店の本体自体は全く変わらないのである。すなわち、政治権力を駆使する官僚達はいつまで経っても同じ者達ばかりであり、政治家が変わっても、決して彼らの政治方針は変わらないのである。すなわち民主主義は羊の皮をかむったオオカミのようなもので、表向きは、自由を掲げているけれども、実質は独裁政権に過ぎないのである。これは前面に独裁色を掲げている共産主義よりも自分達をさも共産主義とは違う自由を与える天使の様にカモフラージュしている分、遥かに悪質でタチが悪いと言えよう。

 

高田義裕の人生論

今日の格言

愛の定義

愛とは何か。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、パウロによるコリント人への第一の手紙13章4節から7節、[愛は辛抱強く、また親切です。愛は妬まず、自慢せず、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず、自分の利を求めず、刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず、不義を歓ばないで、真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え、すべての事を信じ、すべての事を希望し、すべての事を忍耐します。]

そしてまたこの様にも書かれてある。コリント人への第一の手紙13章13節、[しかし今、信仰、希望、愛、これら三つは残ります。しかし、このうち最大のものは愛です。]

またこの様にも書かれてある。コリント人への第一の手紙13章8節、[愛は決して絶えません。それに対し、預言の賜物があっても、それは廃され、異言があっても、それは止み、知識があっても、それは廃されます。]

またこの様にも書かれてある。コリント人への第一の手紙13章1節から3節、

[たとえわたしが人間や天使のいろいろなことばを話しても、愛がなければ、音を立てる一片のしんちゅうか、ただ鳴り響くシンバルとなっています。そして、たとえ預言の賜物を持ち、すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても、また、たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても、愛がなければ、何の価値もありません。そして、ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても、また、自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても、愛がなければ、わたしには何の益にもなりません。]