高田義裕の人生論

今日の箴言

神とは、どのような方なのであろうか。それは、私達から見て、超然とした方なのであろうか。実は全くそうではない。神は、あらゆる人々にとって、肉親であり、兄弟であり、親友のような方なのである。なぜなら、神は悪人であれ、善人であれ、あらゆるすべての人間の幸福を願っておられる方だからである。それに対して、私達人間はどうか。私達は、罪深くも、自分達だけの幸福しか考えておらず、他の人の不幸を、憐れむどころか、他の人の不幸を悦ぶことはしても、他の人が自分より幸福になることを呪っている存在なのである。人は、自分より不幸で、恵まれていない人達に対して、自分はあの人達よりも、優れていると思い、密かに、ほくそ笑んでいるのではないだろうか。そのような間違った優越感を感じて満足しているのが、罪深い私達人間の本性であるのである。よって、今日から、そのような他の人と競い合い、見栄の張り合いをするような対抗心を捨て、神のような心の状態に、転じなければならないのである。では、私達に対する神の御意志とは何か。それは、互いに思いやりを示し合い、互いに愛し合うことでは決してない。それはただ、一心に、相手の身の立場に立って考え、行動することなのである。なぜ、互いに思いやりを示し、愛し合うことではないのか。それは、各人にとって、思いやりや、愛するということの価値観、またその心の良心という性質や程度には個人によって全く違うからである。例えば、ある人は、悩んでいる人に対して、慰めの言葉をかけてあげれば、それで十分な愛を示した、と思う人もいるし、また別の人は、慰めるだけでは十分で無く、その人の身の世話まで行ってあげることまでが、愛を示すことである思う人もいるからである。このように各人には、一言で愛すると言っても、互いに個人差があるからである。よって、ここで、相手の身の立場になって考えるということは、どういうことであるかと言うと、よく悪いことをした人が、その後、ひどい目にあって、そのことを、それは自業自得で、当然受けるべき、天罰が下ったのだ、と思うことではない。また、最初は、非常に裕福であった人が、何らかのきっかけで、貧困に叩き落とされることを密かに悦ぶべきことでもないのである。それらは、決して神の愛や、御意志なのではないのであり、それらの人達の立場に立った考え方では決してないのである。すなわち、神の見方とは、例え、悪い人が自分の悪い報いを受けたとしても、それを悦んだりせず、その人に対して憐れみを持つことなのであり、かつ、自己中心的で、自分に甘かった人が、その後、厳しい目に合っても、それを悦ぶことなのでは決して無く、その人に対して、優しい同情心を示すことなのである。よって相手の身の立場に立って行動することとは、最後までその人を見捨てず、あきらめず、最後までその人の味方に徹するということなのである。

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