高田義裕の人生論

今日の箴言

強さは、弱さに勝る。しかし、知恵は、強さに勝る。しかし、正しさは、知恵に勝る。しかし、愛は、正しさに勝る。よって、たとえ、弱くても、愛があれば、どんな力よりも強い。また、たとえ弱くても、愛があれば、どんな知恵よりも賢い。また、たとえ弱くても、愛があれば、どんな正しさよりも正しい。よって、最も強いのは、愛である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正しいことと、正確であるということは、同一のことであること。要するに、正しさを得る為には、まず、正確さを目指さなければならないのである。すなわち、人は、正しさを得ようとして、正しさを得ることが出来ないのであり、まず別の観点である、正確さを追求しているうちに、全く意図せずに、正しさも得ることが初めてできるのである。

2.倫理学序説

人はすべて、意図してそれを得ることは出来ないが、人はすべて、それを意図せずに初めて得ることができる。この法則を無視して、得たいものを得ようと欲張ると、必ず失敗して痛い目に合うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人より、比べものにならないほど、お金を多く所有している者は、むしろ、お金を余り持っていない人達よりも、お金に対して感激しなくなるのと同様に、他より、比べものにならないほど、知識と知恵があり、偉大である者は、むしろ、自分の持っている知恵と知識と偉大さに関して、感激したり、誇ろうとは思わなくなるものである。よって、むしろ、逆に、お金も中程度に持っていて、能力も中程度のレベルにある人々が、しきりに、お金の量を競い合ったり、能力の差を誇りあったりしているのである。すなわち、互いに競いあっている段階で、常に、お互いの程度が低いことを露見するものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

大きすぎるものは、むしろ逆に、大きすぎて見ることが出来ず、気付かれないように、偉大なものも、むしろ逆に、その偉大さの大きさの、途方もなさの故に、偉大すぎて見えず、かつ、気付かないものなのである。よって神は、偉大な方であるので、我々には、見えないものなのである。しかし、神御自身は、それでも、人が、自らの意志を働かせて、神御自身を見いだすことに目ざとくある、霊的に、洞察力のある者を楽しみにしておられるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書の罪とは、人間による絶対化への渇望、すなわち、自分が神のようになりたいというナルシズムにあったのである。

2.善悪を超えて存在され、損得を超えてすべての生き物を生かしておられる方、エホバ神だけに、栄光と誉れと賛美と力とが、過去も、今も、そしてこれからも、永久にありますように、アーメン。

3.たとえ、神を全く必要としない者がいるとしても、その人にとって神という存在は全く無関係なのでは決してない。その場合、その人にとって、自分自身が神なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正しいことが幸福なこととは、限らないが、幸福なことは、正しいことである。

2.自分という存在は、自分のためにあるのではなく、人のためにあるのである。

3.人間にとって、チームワークこそ、すべてであり、ワンマンプレーは、自分を人から孤立させるだけなのである。何事も、お互いに協力して目的を達成していくことこそ、正しいのであり、それによって、人間は、互いに持ちつ持たれつの関係が保たれることによって、上下関係のない、すなわち、誰か一人だけが、目立ったり、誰かが、みんなから低く扱われることも無く、皆、仲良くしていけるのである。

4.我々に展開されている、ごく日常の、当たり前だと思っている営みすべては、合理的には説明出来ないこと。なぜなら、すべては、合理性を超えて成立しており、それは、計算すれば、答えが出るような単純なものでは決してないからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

中途半端に行なうくらいなら、むしろ、全くしない方が良いこと。

2.人間とは、自分の誇りや、自尊心を失ってでも、生きなければならないほど、生に、縛られる必要は無いし、生ける屍になってまで、生に対して、執着はしないという、人は、本来、立派で、良い意味で誇り高く、元々道徳規準の高い、気高い生き物なのである。

3.真の情報とは、何事も、他の者に先んじて知り得る極秘のものであり、英語で言えば、インテリジェンスであり、インターネットで検索すれば、誰でも知ることのできる、英語で言えば、インフォメーションという情報は、もはや情報としては、何の値打ちもないものなのである。何事も、他の人より先に、まだ誰も知らない情報をいち早く掴んで、迅速に行動するなら、大きな利潤を独り占めすることができるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中で、人がただ普通に生きていくだけでも、様々な賢い知恵や、ギリギリの駆け引き、そして、驚くほどの労力や、気遣い、知識、資力が必要不可欠なのである。しかし、それらをすべて補って、かつ、余りあるようにしてくれるのが、神からの知恵である。それは、ひとえに、謙遜さという特質なのである。あなたはどこに行っても、また、誰に対してであろうと、自分の頭を低くしなさい。そして、常に謙遜であるよう努めなさい。それはまさに、暴風雨の中の立派な避雨具であり、体全体を守ってくれる丈夫な鎧なのである。謙遜に行動することだけが、我々にとって、欠かすことの出来ない救命道具なのである。この知恵が私達に与えられたことを、全く神に感謝するものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神とは、どのような方なのであろうか。それは、私達から見て、超然とした方なのであろうか。実は全くそうではない。神は、あらゆる人々にとって、肉親であり、兄弟であり、親友のような方なのである。なぜなら、神は悪人であれ、善人であれ、あらゆるすべての人間の幸福を願っておられる方だからである。それに対して、私達人間はどうか。私達は、罪深くも、自分達だけの幸福しか考えておらず、他の人の不幸を、憐れむどころか、他の人の不幸を悦ぶことはしても、他の人が自分より幸福になることを呪っている存在なのである。人は、自分より不幸で、恵まれていない人達に対して、自分はあの人達よりも、優れていると思い、密かに、ほくそ笑んでいるのではないだろうか。そのような間違った優越感を感じて満足しているのが、罪深い私達人間の本性であるのである。よって、今日から、そのような他の人と競い合い、見栄の張り合いをするような対抗心を捨て、神のような心の状態に、転じなければならないのである。では、私達に対する神の御意志とは何か。それは、互いに思いやりを示し合い、互いに愛し合うことでは決してない。それはただ、一心に、相手の身の立場に立って考え、行動することなのである。なぜ、互いに思いやりを示し、愛し合うことではないのか。それは、各人にとって、思いやりや、愛するということの価値観、またその心の良心という性質や程度には個人によって全く違うからである。例えば、ある人は、悩んでいる人に対して、慰めの言葉をかけてあげれば、それで十分な愛を示した、と思う人もいるし、また別の人は、慰めるだけでは十分で無く、その人の身の世話まで行ってあげることまでが、愛を示すことである思う人もいるからである。このように各人には、一言で愛すると言っても、互いに個人差があるからである。よって、ここで、相手の身の立場になって考えるということは、どういうことであるかと言うと、よく悪いことをした人が、その後、ひどい目にあって、そのことを、それは自業自得で、当然受けるべき、天罰が下ったのだ、と思うことではない。また、最初は、非常に裕福であった人が、何らかのきっかけで、貧困に叩き落とされることを密かに悦ぶべきことでもないのである。それらは、決して神の愛や、御意志なのではないのであり、それらの人達の立場に立った考え方では決してないのである。すなわち、神の見方とは、例え、悪い人が自分の悪い報いを受けたとしても、それを悦んだりせず、その人に対して憐れみを持つことなのであり、かつ、自己中心的で、自分に甘かった人が、その後、厳しい目に合っても、それを悦ぶことなのでは決して無く、その人に対して、優しい同情心を示すことなのである。よって相手の身の立場に立って行動することとは、最後までその人を見捨てず、あきらめず、最後までその人の味方に徹するということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、下心を持って物事をしようとするから決して上手くいかないのである。上手くやっている人に皆、共通して言えることは、それらを、損得抜きで、無心でやっているということだけなのである。

5.偶像崇拝とは、1して、1しか得られないことを、強引に、1して、2を得ようとする態度のことを初めて言うのである。

3.人は、野心を抱くこともよいが、その分、それは、大きな負担を背負うことでもあるのである。すなわち、他の人より、2倍の栄光と富を手に入れる為には、必ず、他の人よりも、2倍の労苦と浪費を味わわねばならないのである。結局のところ、それはプラスマイナスゼロであり、それは、栄光でも、富でもないのである。