高田義裕の人生論

今日の格言

正しいとは正確である事である。また、悪いとは不正確であるという事である。すなわち、緻密な計算と厳密な調査、すなわち、正直さが正義なのであって、曖昧にする事、いい加減な事、すなわち嘘をつく事が悪なのである。例えば、線路を引くにしても、緻密な計算と厳密な調査をもって線路を引かなければ、電車は走る事が出来ないし、適当にいい加減にビルの土台を作ったなら、ビルは崩壊してしまうのである。よって正しさと悪とは二律背反の関係にあって、正しさの精度は悪の精度に比例し、悪の精度は正しさの精度に反比例するのである。これはどういう事かと言うと、より正しい事を追求していけばいくほど、悪という質も高くなっていくという事である。例えば、土で作った粗末な家で満足すれば、土で作った家はそれで正しいのである。それは手抜きでは無い。しかし、ひとたび、家の住み心地や快適さ、便利な機能やオシャレなインテリアなどに厳密にこだわっていくと、その人にとって土で作った家は悪なのである。彼は高いレベルのものを求めれば求めるほど、適当にいい加減に作った家や商品はすべて、手抜きの悪製品としか映らなくなるからである。すなわち正しさを追求して行けば行くほど、悪であるレベルの高さも量も高くなり、増えていくのである。しかし、そんなに正しさを追求せずに低いレベルで満足すれば、悪であるレベルの高さも量も低くなり、減少するのである。これはなんと皮肉な事であろうか。正しさを追い求める事が、悪の量を増やす事になるのである。これは日頃、真面目に生きるタイプの人間であればあるほど、自分自身に厳しい制限を課し、生きづらくしていくのに対し、物事を深く考えず、適当にのんびりと生きている人間にとって自分自身に厳しい制限を課す事も無く、生きるのが楽である事と同じなのである。すなわち結論として、真面目で正しい事が果たして良い事かと言うと、そうでも無いのである。なぜなら相手の過ちを許すという事は、相手の過ちを厳密に真面目に取り上げず、自分にとって適当にいい加減に曖昧にする事だからである。愛はその点、相手の過ちを許す点で曖昧でいい加減でなければならないのであり、悪も必要な要素である事を示している。すなわち、この多様性に満ちた世界にあって、真面目で正しい事がすべてでは無いという事である。

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