高田義裕の人生論

今日の格言

清さの不条理

クリスチャンは清くなければならぬ、神に従う者はあらゆる面で清くなければならない、と私はずっと思っていた。また人間の理想は個人主義であり、人間1人1人に意味があるし、価値があると思ってきた。しかし私はそれを実践するうち、それが如何に無意味で虚しい事かが悪魔サタンによって思い知らされた。人は淫行も姦淫もせず、あらゆる貪欲な欲望も捨て去り、全く清くなったとしても、それは他の人から賞賛されるかもしれないが、しかし本人にとって全く不健全で無理を強いているものでしか無いのである。なぜ他の人から感じの良い人と思われるために自分の欲望を抑えて自分を良く見せる必要があるだろうか。そんなものはくだらない事であり、他の人に良く思われたいために自分の見た目や心を良くするとすれば、それはもはや他の人の奴隷であり、自分をのけものに自らがしているのである。自分の主人はあくまでも自分自身であり、自分のために生きなくてどうするのか。すなわち人から良く思われる必要性は全く無いのであり、人は他の人に迷惑をかけない限りは、自分の欲望のままに生きればそれで良いのである。人から何を言われようと何を思われようとそんな事は気にする必要は全く無いのである。もしそれでも他の人から良く思われたいために自分の欲望を抑えているとすれば、それはその人は気が弱い人なのであり、孤独を非常に恐れる点で自分の人生を他の人に依存して生きている不完全な人なのである。本来の人間のあり方は孤独を恐れず、他の人に迷惑をかけない限りにおいては自分の主義主張を貫いて、気ままに自由に自分のためだけに生きるべきである。それが人間の自然体であり、自分にとっての真の健全な生き方なのである。人の目を気にしてどうするのか。人はあなたに悪くは言っても、いざという時は全く何もしてくれない赤の他人なのである。また、人はもし完璧に清くなっても、それは知らず知らずのうちに自分を高慢にならせ、自分は清い、という自覚が自分を誇るという不健全な方向へ人を導くのである。すなわち、清くなればなるほど、人は驕り高ぶり、自分が何か特別で何をするにも他の人から特別扱いされるべきだ、と考えるようになる。それが高じて遂には他の人のものを自分は奪っても良いと考え、最終的には強姦や盗みをするようになり、他の人に迷惑をかける人間になってしまうのである。そんなくらいなら、まだ人は他の人には言えない自分の罪を犯しながらも普段はその後ろめたさを感じながら平静を装うという二重人格的な生き方の方がもっと健全なのであり、罪の意識を保ちながら生きる方が、自分が鬱病にならない程度に自分を恥じている方が謙虚になれるし、人のものを自分は取っても良いなどとは微塵にも思わない点、人に迷惑をかける事も無いのである。すなわち、人間1人1人は巨大なパズルのワンピースでしか無いのであり、ワンピース1つでは何の意味も成さないのであり、あくまでも巨大なパズル全体が完成しない限り1人1人は意味を成さないのである。人間とはこの様に神格化された個人主義であってはならないのであり、個人主義の助長も結局は人を高慢にならせ、遂には他の人に迷惑をかける人間になってしまうのである。要するに人間1人1人の位置付けとはヒーローやヒロインになる事では無く、人間の集団の中の1人に過ぎないという地味な位置付けに過ぎないのである。これが健全な人間1人1人の定義であり、人間は自分の栄光を求めず、単なるたくさんいる人間の中の1人に過ぎないという謙虚で目立たない存在に過ぎない事が人間の存在の正しい定義なのである。

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