高田義裕の人生論

今日の格言

素粒子は本当に存在するのか。

物理学ではこの世界で一番小さい物質は素粒子である事が明らかにされている。しかし私が疑問に思うのは、現在、素粒子が一番小さい物質だとされて来てからさらに進んで、素粒子もまたトップクォークやダウンクォークなどにさらに細かく分けられる事が明らかになった事だ。それではトップクォークやダウンクォークよりもさらに小さい物質もあるのではないだろうか。すなわち私が言いたい事は、何が一番小さい物質か、という疑問追求する態度自体が科学的では無いと言いたいのである。これは数学における公理の問題と同じである。数学全体のすべての定義をどんどん細かくして、厳密に定義しようとすると、その数学の素粒子のような存在は幾何学で言えば、点の定義や線の定義という公理系になる。しかし数学においてはその数学の根幹を支える公理は無定義要素としてそれを証明せず、極度の抽象性によってその意味を失っている。すなわち、公理とはあくまでも人間が考え出した仮の定義であり、真理には直接関与しないという立場から進められている。これを公理主義と言う。私もまた素粒子も同じ事だと思っており、素粒子という存在もあくまでも人間が考え出した仮の定義(存在)に過ぎないのであり、何が一番小さい物質か、という真理に直接関与しないという公理主義的発想が一番正しい人間の科学的、知性的態度であると確信する。すなわち素粒子は数学で言う無定義要素であり、点の定義や線の定義という公理系に属するものなのである。なぜなら、一番小さい物質とは何か、という疑問追求は暗黙のうちに人間という視野を絶対的基準において論じているものに他ならないからである。例えば、この全宇宙という大きさを絶対的基準として何が一番小さいかを論じるとしたら、人間という大きさは素粒子より遥かに小さいはずである。では私達は素粒子の姿形をしているかと言うとそうでは無い。普通に肉体を持ち、車やバスに乗って普通に暮らしている日常生活という姿がある。すなわち何を基準とするかによってその一番小さい究極物質は姿形を変えるのであり、もし、素粒子の大きさを絶対的基準として一番小さい物質とは何かを論じた場合、また新たな全く別の解釈が出来るのである。よって人類は何がこの世界で一番小さい物質か、という真理を追い求める態度はこれを放棄し、それを極度の抽象性によってその意味を失い、素粒子とはあくまでも人間の変え出した仮の定義要素であり、真理には直接関与しないという立場から公理主義に徹するべきであって、絶対的なものなどはあくまでもその観察する立場によって容易に変化し得る相対的なものに過ぎない事を認めなければならないのである。すなわち人間は人間が作り出したものにのみ、すべてを認識する事が出来る。ではすべてのもの(真理)を理解できる者は誰か。それは神である。なぜなら神がこの万物すべて(真理)を作り出したからである。よって我々はここで大いなる残余を感じながら、我々は常に謙虚でなければならない。

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