高田義裕の人生論

今日の格言

神を信じるという事はどういうことか。

一神教である神エホバを信じる、ある小さなキリスト教の一派があった。その組織では戒律が厳しく設けられており、クリスチャンとして認められるにはその厳しい掟を順守していなければならなかった。その具体的内容は、淫行してはならないこと、姦淫してはならないこと、盗んではならないこと、キリストの平和の精神に基づき、アクション映画などの暴力的映画や戦いやバトルを楽しむテレビゲームはもちろんのこと、ポルノも見てはならなかった。喫煙もできなかったし、自分達仲間以外の異教徒と親しくする事も禁止されていた。しかしある1人の成員が、この戒律の厳しいことにうんざりし、もともと自分が好きだったアクション映画を仲間達に内緒で見るようになった。しかし彼は一神教の神エホバのことは好きで熱心に信じていた。ただ、彼は自分の愛する善良で優しい父である神が、このようながんじがらめの厳しい戒律を信者にお求めになる事は父の御意志ではないと信じ、次第に自分の宗教組織の運営の仕方に疑問を感じるようになったのである。しかしある時、彼はいつものように映画館に行き、映画を見終わった際に外に出た時、あろうことか、自分の宗教組織の成員である1人の友人にでくわし、自分が暴力的映画を見た事がばれてしまったのである。当然それは宗教組織としては重要問題なので、それは審理にかけられ、彼の行動をどう処罰するか、幹部達の間で話し合いが持たれた。その結果、彼はその暴力的なアクション映画を見た事は組織にとって、甚だ由々しい事ではあるけれども、彼自体は熱心に神を信じている事も考慮に入れ、今回だけは処罰する事はせず、厳重注意で済む事になった。この結果を聞くと、組織の厳しい戒律を常に従順に守ってきたクリスチャン成員達は何で彼だけは特別扱いされて何事も処罰なく済んだのか、という事で文句を言い始めた。彼が組織で禁止されている事をしても許されたのであれば、私達が一生懸命に組織の決まり事を守ってきた事は本当に無駄な事であり、そんなくらいなら、私達にも映画を自由に楽しんでも良いのではないかという不満の声が挙がったのである。

(解説)

一神教は多神教と違って、確かに守るべき戒律は厳しい傾向にある。神を熱心に信じる信者達は神を愛するゆえにその厳しい戒律を守ろうとする。すなわち、その神の御意志である神の掟に従順に従う者が、神に喜ばれる熱心で模範的な立派なクリスチャンとして認められるのであると理解するわけである。そして先ほどの例にもあるように、その神の御意志である戒律を守らなくてもそれほど咎めを受けなかった同じ信者が出た場合、その厳しい戒律をきちんと守ってきたクリスチャン信者にとって確かに不満の声が挙がるのはよく理解できる。しかし、ここで問題なのは、神を愛する事が、厳しい戒律を守ることと同一視されている点である。すなわち神を愛する事の本質は、神を愛する本人と神との間の親しい個人的関係にあるのであり、他の人がどう行動したかという事に影響しないのである。すなわち私の言いたい事は、神を信じるという事は自分達の定めた厳しい戒律を守る事という事とは全く関係性がないという事である。すなわち知らず知らずのうちにその厳しい掟を順守する事が神を愛する事よりも優先され、厳しい戒律を守れる者は正しいクリスチャンであり、それを守れない者は悪いクリスチャンであるという考え方にすり替わっているという事である。それこそ他の人を裁いてはならない、という神の最も重要で愛ある御意志に反する考え方である事を彼らは気付いていないのである。もし、自分は従順に神の掟を守ってきたのに、その掟を破った仲間のクリスチャンを妬むとするなら、その人は本当に神を愛しているのでは無く、その厳しい掟を守る事が目的となってしまっており、真のクリスチャンではない事を自ら証しているのである。すなわち、本当のクリスチャンとは、他のクリスチャンがどう行動するかに関係無く、また、神の掟を守る事が立派なクリスチャンであるという差別意識も持たない自立したクリスチャンでなければならないという事である。すなわち神を愛しているゆえに仕方なくその厳しい戒律を守っているとするならば、それはもはやクリスチャンではなく、むしろ自分で自分を欺いている偽のクリスチャンなのである。真のクリスチャンは神の掟をしぶしぶ守っている人なのでは無く、自ら神の掟を愛して、それを率先して守っている良心によって、それを固く守る人でなければならないのである。よって真のクリスチャンは自分達の掟を破った仲間のクリスチャンを妬むどころか、むしろその仲間のクリスチャンを深く同情し、快く許す人でなければならないのである。それこそ本当に神を信じるという事なのである。

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