高田義裕の人生論

今日の格言

仏教では座禅を組むという修業の仕方がある。ひたすら座禅を組み、心の中にある邪念や煩悩を少しずつ取り払っていくのである。そして座禅の究極の境地は心を無の状態にすることなのである。すなわち、頭の中を空っぽの空の状態にする事であり、それによってあらゆる執着心や欲望から自由になるのである。ここで座禅の目的は終了されるのであるが、実はこの先にはまだ続きがある。人は心の中からひとたび悪いものを取り出して空っぽにし、無の境地を得た。それはそれで良いのだが、もしそのままの心の状態にしておくと、自分が意識しないうちに次第にまた心の雑草が生えてきて、心の中に悪いものがまた棲みつく様になってしまうのである。よって、せっかく心の中を洗浄して、心を空っぽにしたのなら、それを空っぽの状態のままにしておくのでは決して無く、その代わりに良いもので心を満たさなければならないのである。良いもので満たしておけば、それ以上、他の異物が心の中に浸入してくる事は無いのである。もしそうしなければ、その人の心の状態はその最初よりも悪くなってしまうのである。まさに聖書にこう書かれている。マタイによる福音書12章43から45節、[汚れた霊は、人から出て来ると、休み場を捜し求めて乾ききった所を通りますが、どこにも見いだせません。そこで、(出て来た自分の家に戻ろう)、と言います。そして、着いてみると、それは空いていますが、きれいに掃かれ、飾りつけられています。そこで、出かけて行って、自分より邪悪な7つの異なった霊を連れて行き、彼らは中に入ってそこに棲みつきます。こうして、その人の最終的なありさまは最初より悪くなります。この邪悪な世代もそのようになるでしょう。]

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