高田義裕の人生論

今日の格言

最大の利得

あなたはあるホテルの一室に案内される。そして中に入ると、シャワールームは綺麗に掃除されており、シャンプーや石鹸も所定の場所にきちんと置いてある。トイレには香水が漂い、バスタオルや歯磨き粉や歯ブラシも洗面台の綺麗にされた鏡の横の戸棚にきちんと整理されている。またあなたはリビングを見ると、ソファーが綺麗に並べられていて、そこからちょうどいい距離で見やすいようにテレビが置いてある。あなたはこれを見て非常に居心地よく感じ、リラックスした気分になった。ところであなたはこのホテルの部屋の中が放っておいても勝手に椅子や机が自動的に動いてきちんとした場所に設置されたものだと思うだろうか。そうは思わないだろう。このホテルの部屋の隅々がきちんと清掃され、整えられているのは、あなたがこのホテルの部屋に来る前に清掃員が汗を流して一生懸命に掃除し、椅子を移動させ、机を並べたに違い無いのである。そう、そこには時間と手間ヒマとお金がかかっているのである。これと同様に、あなたはこの私達の生きる世界が、初めから整えられていて、自分の使い勝手の良い状態に既に整理されていると思っていないだろうか。その証拠に私達はいつもの日常生活で常にイライラし、ストレスを感じ、怒りをぶちまけているのではないだろうか。この精神状態がなぜ生じているのかと言うと、それはこの世界の諸事情がすべて初めから整えられていると思っているからなのである。すなわち、私達は知らず知らずのうちに物事は常にうまくいって当たり前だと思っている証拠なのである。それは先ほどのホテルの部屋が最初から整えられているのは当たり前である、と思っている事と同じである。そうではないのだ。物事がすべて初めから整えられているためには、誰かが、汗を流して一生懸命に清掃し、手間ヒマをかけてお金をかけて、苦しい労働をして働いた結果として物事は初めて整えられ、うまくいくのである。すなわち私達のストレスの原因、苦しいと感じる心の原因は世の中とはうまくいかなくて当たり前なのに、勝手に自分でうまくいって当然だという前提で物事を考えているためである。そのうまくいって当たり前という前提とうまくいかないという現実のギャップが私達の心に苦しいと感じさせるのである。例えば、あなたは車を運転していて自分がスムーズに進める事は当たり前だと思っているから、突然横から車がはみ出してきたり、前の車が急に減速したりすると、無性に腹が立ってイライラしてクラクションを鳴らすのである。そこで私達はこの態度をぜひ改めよう。最初からすべて整えられているはずはないのである。むしろ世の中はいろんな人々が好き勝手に考えたり動いたりしているのであり、そこには整理されているなどとは程遠い、無茶苦茶な状態、ごちゃまぜの状態と言えよう。すなわち心のあり方を全面的に改めるのである。それはうまくいかなくて当たり前だと常に思う事である。そう、世の中うまくいかなくて当たり前だと認めれば、たとえ車が急に飛び出してきてもそれはしょうがない事だと割り切れるのであり、そこに精神的ストレスは起こらない。もしうまくいっても、本来ならうまくいかなくて当然なのに、うまくいった事を当たり前だと思わず、むしろラッキーだと思って感謝の念さえ生じるのである。すなわち物事は常に自分に都合よくできている自分中心的価値観を捨てるのである。すなわち古代の地球を中心に太陽や惑星は回っているという天動説ではなく、地球が太陽の周りを回っているという地動説に頭を切り替えるのである。このように自分達が中心であるという中世のキリスト教の思考を捨てて、むしろ世の中の事情に自分の方から動かねばならないというコペルニクス転回に発送を変えるのである。この生き方の姿勢こそが最大の利得なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

大学の入学試験で、マークシート式のテストがあるとしよう。問題の答えとしてABCDの4つの選択肢の中から正しい答えを1つ選ばなければならない。ここで、あなたは全く今まで勉強してこなかったので、何をどう答えたらよいか、さっぱりわからない。この時、一番試験で点数を稼ぐためにはどうしたらよいか。試験というものは、答えの選択肢が偏らないように、選択肢のABCDの4つの正解率も均等になるようバランスを取ってある。すなわち全体を100%とすれば、ABCDの4つの正解率は、100%÷4=25%になっているのである。それではあなたはそのABCDの中から好きな文字、1つを選んで解答欄にすべて同じ文字を書けばよいのである。例えば、選択肢のABCDの中からAを選んで、すべての問題の解答欄にAと書けばよいのである。そうすればもし問題が100問あれば、あなたは確実に100問あるうちの25問は正解を取れるのである。これが答えが分からなくても一番試験の点数を稼ぐ方法なのである。人生も同様である。私達は人生という試験において、いろんな問題に直面するが、その解決方法を全く知らない。それでは人生という試験において一番正しい決定を下してより人生を成功へと出来るだけ近づけるにはどうしたらよいか。人生というものも面白いもので、成功する為の条件はすべての人に公平になるように、やはり選択肢に偏りが生じないようほぼ同じ確率で正解率が分布している。よって私達は今後生きていく上で数ある選択肢の中から自分の好きな選択肢をただ1つ決めるのである。すなわち、どんな問題に直面したとしても、自分が選択した1つの行動姿勢というものを貫き通すのである。例えば、4つの選択肢があるとして、1つは[褒める]という態度、また1つは[許す]という態度、また1つは[謝る]という態度、そしてもう1つは[感謝する]態度である。すなわちどういう問題に直面しようとも、それに対処する自分の気持ちを1つに絞ってそれを貫き通すのである。よってもし自分の好きな選択肢を[感謝する]という態度に決定したならば、上手くいった時は感謝する事はもちろんのこと、たとえ物事がうまくいかなくても常に感謝し、苦しみや悩みがあっても常に感謝し、被害にあっても常に感謝するのである。すると次第に生きていく上での軸がぶれずに何事が起きても常に感謝するという人格が形成され、1つの型が出来上がる。こうなればしめたものである。あなたは周りの人達からこの人はどんな事があっても常に感謝する素晴らしい人だ、と認知されるようになり、あなたのそのぶれない態度に誰もが惹きつけられ、信頼を得て、徐々に人生を安定して歩めるようになるからである。これによって、人生の試験という問題に正解する確率が高くなっていくのである。すなわち人生を渡って行く故で一番大切な事は、自分の人格特性を1つに絞ってそれを常に継続させる事によって、他の人からの信頼を得る事が人生を成功へと導く一番近い方法なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神を信じるという事はどういうことか。

一神教である神エホバを信じる、ある小さなキリスト教の一派があった。その組織では戒律が厳しく設けられており、クリスチャンとして認められるにはその厳しい掟を順守していなければならなかった。その具体的内容は、淫行してはならないこと、姦淫してはならないこと、盗んではならないこと、キリストの平和の精神に基づき、アクション映画などの暴力的映画や戦いやバトルを楽しむテレビゲームはもちろんのこと、ポルノも見てはならなかった。喫煙もできなかったし、自分達仲間以外の異教徒と親しくする事も禁止されていた。しかしある1人の成員が、この戒律の厳しいことにうんざりし、もともと自分が好きだったアクション映画を仲間達に内緒で見るようになった。しかし彼は一神教の神エホバのことは好きで熱心に信じていた。ただ、彼は自分の愛する善良で優しい父である神が、このようながんじがらめの厳しい戒律を信者にお求めになる事は父の御意志ではないと信じ、次第に自分の宗教組織の運営の仕方に疑問を感じるようになったのである。しかしある時、彼はいつものように映画館に行き、映画を見終わった際に外に出た時、あろうことか、自分の宗教組織の成員である1人の友人にでくわし、自分が暴力的映画を見た事がばれてしまったのである。当然それは宗教組織としては重要問題なので、それは審理にかけられ、彼の行動をどう処罰するか、幹部達の間で話し合いが持たれた。その結果、彼はその暴力的なアクション映画を見た事は組織にとって、甚だ由々しい事ではあるけれども、彼自体は熱心に神を信じている事も考慮に入れ、今回だけは処罰する事はせず、厳重注意で済む事になった。この結果を聞くと、組織の厳しい戒律を常に従順に守ってきたクリスチャン成員達は何で彼だけは特別扱いされて何事も処罰なく済んだのか、という事で文句を言い始めた。彼が組織で禁止されている事をしても許されたのであれば、私達が一生懸命に組織の決まり事を守ってきた事は本当に無駄な事であり、そんなくらいなら、私達にも映画を自由に楽しんでも良いのではないかという不満の声が挙がったのである。

(解説)

一神教は多神教と違って、確かに守るべき戒律は厳しい傾向にある。神を熱心に信じる信者達は神を愛するゆえにその厳しい戒律を守ろうとする。すなわち、その神の御意志である神の掟に従順に従う者が、神に喜ばれる熱心で模範的な立派なクリスチャンとして認められるのであると理解するわけである。そして先ほどの例にもあるように、その神の御意志である戒律を守らなくてもそれほど咎めを受けなかった同じ信者が出た場合、その厳しい戒律をきちんと守ってきたクリスチャン信者にとって確かに不満の声が挙がるのはよく理解できる。しかし、ここで問題なのは、神を愛する事が、厳しい戒律を守ることと同一視されている点である。すなわち神を愛する事の本質は、神を愛する本人と神との間の親しい個人的関係にあるのであり、他の人がどう行動したかという事に影響しないのである。すなわち私の言いたい事は、神を信じるという事は自分達の定めた厳しい戒律を守る事という事とは全く関係性がないという事である。すなわち知らず知らずのうちにその厳しい掟を順守する事が神を愛する事よりも優先され、厳しい戒律を守れる者は正しいクリスチャンであり、それを守れない者は悪いクリスチャンであるという考え方にすり替わっているという事である。それこそ他の人を裁いてはならない、という神の最も重要で愛ある御意志に反する考え方である事を彼らは気付いていないのである。もし、自分は従順に神の掟を守ってきたのに、その掟を破った仲間のクリスチャンを妬むとするなら、その人は本当に神を愛しているのでは無く、その厳しい掟を守る事が目的となってしまっており、真のクリスチャンではない事を自ら証しているのである。すなわち、本当のクリスチャンとは、他のクリスチャンがどう行動するかに関係無く、また、神の掟を守る事が立派なクリスチャンであるという差別意識も持たない自立したクリスチャンでなければならないという事である。すなわち神を愛しているゆえに仕方なくその厳しい戒律を守っているとするならば、それはもはやクリスチャンではなく、むしろ自分で自分を欺いている偽のクリスチャンなのである。真のクリスチャンは神の掟をしぶしぶ守っている人なのでは無く、自ら神の掟を愛して、それを率先して守っている良心によって、それを固く守る人でなければならないのである。よって真のクリスチャンは自分達の掟を破った仲間のクリスチャンを妬むどころか、むしろその仲間のクリスチャンを深く同情し、快く許す人でなければならないのである。それこそ本当に神を信じるという事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

不完全性定理

我々のこの現実世界は本当はバーチャル(仮想現実)なのか、本当のリアル(現実)なのかを証明する事は出来ない。なぜなら、もし、我々のこの世界がバーチャル(仮想現実)ならば、本当のリアル(現実)が我々の空間の外側に必ずあるはずであり、それを確認する術を我々は持たないのである。例えば、ある部屋があって、私達はその中にいるのであり、外側に通じる扉があるのであるが、この扉は外側にしか鍵穴がなく、内側からは開けられないようになっているのと同じ事である。また、もし、我々のこの世界がリアル(現実)であるならば、私達は偽物のバーチャル(仮想現実)が確かに存在する事を証明しなければならない。しかし、我々のこの世界以外のバーチャル(仮想現実)が存在する事を証明できる術を我々は知らないのである。よってどっちにしろ、ゲーデルの不完全性定理のように、数学全体が無矛盾である事を数学自体が証明出来ないように、我々はこの自分達の生きているこの世界が、無矛盾である事を我々自体は証明出来ないのである。その意味において、私達のこの世界は本当はバーチャル(仮想現実)なのか、リアル(現実)なのかは分からないのである。すなわち逆に言えば、我々の住むこの世界はバーチャル(仮想現実)であるとも言えるし、リアル(現実)であるとも言えるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

素粒子は本当に存在するのか。

物理学ではこの世界で一番小さい物質は素粒子である事が明らかにされている。しかし私が疑問に思うのは、現在、素粒子が一番小さい物質だとされて来てからさらに進んで、素粒子もまたトップクォークやダウンクォークなどにさらに細かく分けられる事が明らかになった事だ。それではトップクォークやダウンクォークよりもさらに小さい物質もあるのではないだろうか。すなわち私が言いたい事は、何が一番小さい物質か、という疑問追求する態度自体が科学的では無いと言いたいのである。これは数学における公理の問題と同じである。数学全体のすべての定義をどんどん細かくして、厳密に定義しようとすると、その数学の素粒子のような存在は幾何学で言えば、点の定義や線の定義という公理系になる。しかし数学においてはその数学の根幹を支える公理は無定義要素としてそれを証明せず、極度の抽象性によってその意味を失っている。すなわち、公理とはあくまでも人間が考え出した仮の定義であり、真理には直接関与しないという立場から進められている。これを公理主義と言う。私もまた素粒子も同じ事だと思っており、素粒子という存在もあくまでも人間が考え出した仮の定義(存在)に過ぎないのであり、何が一番小さい物質か、という真理に直接関与しないという公理主義的発想が一番正しい人間の科学的、知性的態度であると確信する。すなわち素粒子は数学で言う無定義要素であり、点の定義や線の定義という公理系に属するものなのである。なぜなら、一番小さい物質とは何か、という疑問追求は暗黙のうちに人間という視野を絶対的基準において論じているものに他ならないからである。例えば、この全宇宙という大きさを絶対的基準として何が一番小さいかを論じるとしたら、人間という大きさは素粒子より遥かに小さいはずである。では私達は素粒子の姿形をしているかと言うとそうでは無い。普通に肉体を持ち、車やバスに乗って普通に暮らしている日常生活という姿がある。すなわち何を基準とするかによってその一番小さい究極物質は姿形を変えるのであり、もし、素粒子の大きさを絶対的基準として一番小さい物質とは何かを論じた場合、また新たな全く別の解釈が出来るのである。よって人類は何がこの世界で一番小さい物質か、という真理を追い求める態度はこれを放棄し、それを極度の抽象性によってその意味を失い、素粒子とはあくまでも人間の変え出した仮の定義要素であり、真理には直接関与しないという立場から公理主義に徹するべきであって、絶対的なものなどはあくまでもその観察する立場によって容易に変化し得る相対的なものに過ぎない事を認めなければならないのである。すなわち人間は人間が作り出したものにのみ、すべてを認識する事が出来る。ではすべてのもの(真理)を理解できる者は誰か。それは神である。なぜなら神がこの万物すべて(真理)を作り出したからである。よって我々はここで大いなる残余を感じながら、我々は常に謙虚でなければならない。

高田義裕の人生論

今日の格言

倫理の法則(物理的不均衡の是正)(神の裁き)

物理の授業を学生の時に誰もが習ったと思うが、地球には重力というものがあって、すべての物質は重力によって下に行こう行こうとする。すなわち、重力に逆らって物を高く積み上げていけばいくほど、その状態は不安定になり、積み上げ過ぎると、いずれちょっとした振動で瞬く間に崩れ落ちる可能性は我々の日常経験上、すぐに理解できる。要するに、万物はバランス的不均衡を是正するように働くのであり、常にバランス的に平衡な、高くも低くもない安定した状態に戻ろうとするのである。これはエネルギーのエントロピーと同じで、たとえ温度を高くしてもそれを放っておけば、いずれは温度は冷えて、最終的には暑くも冷たくもない常温に戻ってしまうのと同様である。これは倫理の法則にも当てはまる。万物はすべて倫理的法則から逃れる事はできない。すなわち悪い事をすれば、いずれ必ず罰せられるのと同じように、あまりにも貪欲に利潤を積み上げ過ぎても、いずれは積み上げ過ぎた荷物のように不安定になり、それは必ずはちょっとした振動で瞬く間に崩れ落ちるのである。それでは今私達の現在の世界情勢をAとしよう。すなわちすべての人はAを底辺とし、その上に自分で稼いだ富なり資産を積み上げていく。当然貧しい人は富や資産を積み上げる事は出来ず、それどころか日常の生活は赤字で、Aを上天として-A(マイナスA)になっている。しかし、ある人達は貪欲にも自分達のためだけに商売や仕事をして多額の資産を積み上げていった。そしてどんどんその富は増し加わっていき、Aを底辺として棒グラフはすごい伸びを示して、上ばかりが高くなりすぎてAという底辺は不安定になっていった。すなわちこの現在のAという世界情勢を底辺として(土台として)あまりにも極端に積み上げ過ぎた結果、この世界情勢は貧富の差が拡大し、不安定になっていった。そしてある時、ちょっとしたきっかけでこのAという底辺はこの全体的不均衡を是正しようと180度ひっくり返った。すなわち考えられないような世界的秩序の崩壊が起きたのである。そうして今まで一番上に位置していた人達は皆Aが-A(マイナスA)にチェンジして一番下になった。しかし逆に今まで-A(マイナスA)だった人達は-AがAにチェンジして一番貧しかった者が一番上になったのである。このように万物には常にバランス的に平衡を保って安定しようとするから、現在の世界情勢を土台としてここまで貧富の差が開くと世界情勢は不安定になり、いずれ考えられないような世界秩序の崩壊が必ず生じてしまうのである。そして今までの価値観は全く逆になり、立場の逆転が起こってしまうのである。よって今の世界情勢で富んでいる人よ、あなた方は嘆き悲しみなさい。あなた方の終わりは近いからである。しかし今の世界情勢で貧しい人達よ、あなた方は喜び踊りなさい。あなた方の救出は近いからである。神はまさに公正な裁きをもってこの世界体制を滅びに至らせるのである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

なぜ民主主義の国家財政は常に莫大な借金を抱えるのか。

なぜ民主主義の国家財政は常に莫大な借金を抱えるのか。例えで考えて見よう。世界情勢とは山あれば谷ありの、盆地あれば、川ありの複雑な地形を表している。そして政治の舵取りとは、その予想できない複雑な地形をまっすぐに進むようなものである。それで政府を地形探検して進んでいく冒険隊に例えて見よう。冒険隊は自分の組織を維持するため、最初のA地点から出発した。それで前進して行く上で自分達の食料や水をA地点にある食品会社や水道局から調達した。それから冒険隊は最初のA地点からだいぶ離れたB地点にきた。そこで食料も水も少なくなったので、国民は政府という冒険隊がB地点にある食品会社や水道局から食料や水を補充するものとばかり思っていた。しかし何と冒険隊は食料や水をB地点にある食品会社や水道局から購入せず、最初の出発点であるA地点にある食品会社や水道局からわざわざ食料と水を、遠いB地点まで大型トラック何台分も使って運ばせた。そして食料と水を確保すると、また冒険隊はB地点から新たに出発し、前進した。冒険隊は険しい山を越え、深い川の水を渡り、苦労してB地点からさらに遠いC地点まで到達した。長旅のせいで食料や水はほとんど底をつき、冒険隊はまた水と食料を調達しなければならなかった。そこで国民はC地点にある食品会社や水道局から食料や水を調達するものばかりと思っていたが、何と政府という冒険隊はC地点にある食品会社や水道局から食料や水を調達せず、また最初の出発点A地点にある食品会社や水道局から食料や水を持って来させた。そしてわざわざ大型トラック何台分にもなる食料や水をA地点からC地点まで輸送させたのである。大型トラックはA地点からC地点まで移動するのに険しい山を越え、深い川の水を渡り苦労してようやく冒険隊のいるC地点まで運んだ。それでその輸送運賃は莫大なものとなった。そこで冒険隊の運営資金が底をつき、政府という冒険隊は国民から税金として冒険隊の運営資金を徴収した。これでお分かりだろう。政府とはこの混沌とした複雑な世界情勢を渡り歩くために必要な財源を国民から税金として徴収しながら政治を推進していくのであるが、推進していくうちにA地点からB地点、またC地点と世界情勢は刻々と変化する。それで政府もその刻々と変化する世界情勢に合わせて、自分達の政策や組織も柔軟に変化させ、再編成しながら政治を行っていかなければならないのに、先ほどのどれだけ最初の出発点から離れても無駄に大型トラック何台分も使って運ばせたように、自分達の政策方針や立場を変えようとはせず、常に古いやり方でいつまでも同じA地点にある一部の一流企業や団体に利権を与え固定化し、税金を無駄使いするのである。世界情勢の変化に応じて他にいくらでも利用できる会社や団体があるのにそれをあえて利用せず、常に利権を古い友人である同じ会社や団体にいつまでも与え続け、既得権益を形成し、国民から徴収した税金を自分達のふところの中に入れて暴利を貪っているのである。そのせいで民主主義の国家財政は常に税金の無駄使いにより、莫大な借金を抱えるようになるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間としての基本姿勢

すべて他の人には優しくて、自分には厳しくあれ。決して他の人には厳しく、自分には甘い人間であってはならない。そういう者こそ邪悪な者と言うのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生論

すべての人間に対して人生の生涯パターンは2つしかない。すなわち記号で表せば、ABAとBABの2種類である。ここでAとは順風満帆の事であり、A=順風満帆である。またBとは苦難逆境の事であり、B=苦難逆境である。最初のABAは生まれてから最初の頃は比較的穏やかで幸せに暮らせる。しかし、人生の半ばで急に人生の歯車が狂い、すべてはミスマッチとなって、試練が臨み、非常に苦労する。しかし、その逆境になんとか耐え、忍耐の甲斐あって人生の後半は再び幸福に戻る人生である。そして後のBABとは、生まれてからずっと最初の頃から苦難と逆境に見舞われ、苦労する。しかし、ある日を境に人生の歯車が上手く回り出し、富や自由を得て幸福に暮らせるようになる。しかし人生の後半になって自分の人生が順調な事をいい事にハメを外したり、快楽に溺れて再び人生の後半は不幸に終わる人である。ただこの二種類の人生パターンに共通して言える事は、人生とは、その最初から終わりまで幸福に生きれる人は誰もいないという事である。すなわち記号で表せば、AAAになる事は決してないのである。また同時に、人生においてその最初から終わりまで不幸のままで終わる人も決していないという事である。すなわち記号で表せば、BBBになる事は決してないのである。よって人生のパターンによって人間の人格も変わるから、最初から善良な性格な人は、人生の半ばで逆境に遭う事により一時期はその性格が悪くなっても、その逆境に耐える事により、さらに人格が磨かれ、最後には最初よりも良くなって人生を謳歌出来るようになるのである。逆に最初から性格の悪い者がその逆境のゆえに深く悔い改め、人生の半ばで良い性格の持ち主に変わっても、その最後には人生の快楽に溺れ、やはり元の性格の悪い人に戻ってしまうのである。よって人よ、是非ともあなたの人生をABAとなるように努力せよ。なぜなら人生いろいろあっても終わり良ければすべて良しだからである。

2.威張っているボスを黙らせる方法

人間に集団が生まれると必ずと言っていいほど、弱い追従型の人と、周りを仕切る強いボスが現れる。よって職場でも弱い人達は1人の強いボスによって仕切られる。よって弱い人達よ、その強いボスを黙らせるためにそのボスより強い同じ強さの3人の人を連れてくるように。そうすれば、そのボスは自分より強い3人の同等の仲間がいるゆえにおとなしくならざるを得ないからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

不義の富

お金とは不義の富である。なぜなら実物の鉱石である金はその価格は世界共通であり、どこへ行ってもその売り値価格はそんなに変動がなく一定水準を保っており、売り手側の都合で変わったりはしない。しかしお金という紙幣は商品を売る側が勝手に自分の商品に自分達の都合の良い価格で紙幣価格を決定出来るし、他の国々によって全く使える紙幣の種類が違うし、また国の経済状態や景気によってお金の価格は全く異なっている。すなわち、日本では100円の価値があっても、他の国の違う種類の紙幣に交換する場合、ある国では日本の100円がその国では1000円の貨幣価値があったり、逆に10円の貨幣価値しかなかったりするからである。ここに明らかに貧富の差が生じるのであり、例えば、同じ100万円でも、商品によって全く買えるものが違うのであり、100万円の車もあれば、100万円の時計もあるのである。そこには何か共通の貨幣価値を定める共通のルールというものが全く無く、皆、勝手に自分の都合の良い価格を提示してくるのである。これは明らかに不正であり、いい加減な価格の決め方であり、そこに世界共通の金のような不変的価値はない。この価格のいい加減な変動差ががのちのち歪みとなって、全世界に貧富の差を生じさせ、そのツケが全部自然環境の破壊となって現れるのである。本来なら、全世界に共通して同じ貨幣価値を持った世界通貨という紙幣が存在しなければならないのである。そうすれば売り手側は自分の都合の良い価格を勝手に吊り上げる事は出来ないし、世界共通の倫理的ルールに則って商品の貨幣価値が決定されていくから、貧富の差がなくなり、それによって、資源の無駄使いや悪質な価格の変動操作やお金の浪費や物価価格の上昇がなくなって秩序が保たれる事により、自然環境が破壊される事もなくなるからである。このようにお金というものの勝手気ままな価格の変動操作が存在する限り、貧富の差は無くならないのであり、また資源の乱費による自然環境の破壊も無くならないのである。そのような意味においてお金とはあくまでも不正な富であり、不義の富と言えるのである。