高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中は悲惨な事で満ちている。叔父が姪を性的に虐待したり、父親が娘を性的に虐待したり、姑が嫁を陰湿にいじめたり、それを旦那は知っていても、マザコンの故に何も言わずに母親に甘えていたり、親が子供が言う事を聞かないのに腹を立て、虐待死させたり、奔放なセックスで望まない妊娠をし、便所で子供を産み落とす女性、望まない妊娠で生まれた子供を捨てていく親たち、セクハラばかりして女性を性の対象としか見ていない男たち、北朝鮮の様に政治犯を強制収容所に送り込み、激しい虐待や暴行を繰り返し、過酷な強制労働をさせて、それにより自分の懐を肥やす政治家たち、小さい頃から貧しくて奴隷として売られていく子供たち、職場では同僚のいじめがあり、上司からのパワハラを受けて、精神を崩壊させていく若者たち、学校では陰湿ないじめにより不登校になる人達ばかりが増えているが、肝心の教師が何もしてくれないという不条理、自然災害の多発により、それが元で貧困に陥り、徐々に衰弱し死んでいく老人たち、もう挙げたらキリが無いのである。しかし私達はこの世の中の光の当たらない人達の現実をよく知っている。これはすなわち、人間が人間を支配するとどうなるかという決定的証拠でもある。私達はこれを見て、神などいないと言うが、実は逆である。問題が悲惨でむごいものであればあるほど、人類は自分達が無能であり、如何に神が人間を支配するのにふさわしい方かを反面教師的に教えているのである。もし神が支配すればこれらの厄介な問題はすべて解消される事を、今あるこの悲惨な現実が我々に間接的に証明しているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

清さの不条理

クリスチャンは清くなければならぬ、神に従う者はあらゆる面で清くなければならない、と私はずっと思っていた。また人間の理想は個人主義であり、人間1人1人に意味があるし、価値があると思ってきた。しかし私はそれを実践するうち、それが如何に無意味で虚しい事かが悪魔サタンによって思い知らされた。人は淫行も姦淫もせず、あらゆる貪欲な欲望も捨て去り、全く清くなったとしても、それは他の人から賞賛されるかもしれないが、しかし本人にとって全く不健全で無理を強いているものでしか無いのである。なぜ他の人から感じの良い人と思われるために自分の欲望を抑えて自分を良く見せる必要があるだろうか。そんなものはくだらない事であり、他の人に良く思われたいために自分の見た目や心を良くするとすれば、それはもはや他の人の奴隷であり、自分をのけものに自らがしているのである。自分の主人はあくまでも自分自身であり、自分のために生きなくてどうするのか。すなわち人から良く思われる必要性は全く無いのであり、人は他の人に迷惑をかけない限りは、自分の欲望のままに生きればそれで良いのである。人から何を言われようと何を思われようとそんな事は気にする必要は全く無いのである。もしそれでも他の人から良く思われたいために自分の欲望を抑えているとすれば、それはその人は気が弱い人なのであり、孤独を非常に恐れる点で自分の人生を他の人に依存して生きている不完全な人なのである。本来の人間のあり方は孤独を恐れず、他の人に迷惑をかけない限りにおいては自分の主義主張を貫いて、気ままに自由に自分のためだけに生きるべきである。それが人間の自然体であり、自分にとっての真の健全な生き方なのである。人の目を気にしてどうするのか。人はあなたに悪くは言っても、いざという時は全く何もしてくれない赤の他人なのである。また、人はもし完璧に清くなっても、それは知らず知らずのうちに自分を高慢にならせ、自分は清い、という自覚が自分を誇るという不健全な方向へ人を導くのである。すなわち、清くなればなるほど、人は驕り高ぶり、自分が何か特別で何をするにも他の人から特別扱いされるべきだ、と考えるようになる。それが高じて遂には他の人のものを自分は奪っても良いと考え、最終的には強姦や盗みをするようになり、他の人に迷惑をかける人間になってしまうのである。そんなくらいなら、まだ人は他の人には言えない自分の罪を犯しながらも普段はその後ろめたさを感じながら平静を装うという二重人格的な生き方の方がもっと健全なのであり、罪の意識を保ちながら生きる方が、自分が鬱病にならない程度に自分を恥じている方が謙虚になれるし、人のものを自分は取っても良いなどとは微塵にも思わない点、人に迷惑をかける事も無いのである。すなわち、人間1人1人は巨大なパズルのワンピースでしか無いのであり、ワンピース1つでは何の意味も成さないのであり、あくまでも巨大なパズル全体が完成しない限り1人1人は意味を成さないのである。人間とはこの様に神格化された個人主義であってはならないのであり、個人主義の助長も結局は人を高慢にならせ、遂には他の人に迷惑をかける人間になってしまうのである。要するに人間1人1人の位置付けとはヒーローやヒロインになる事では無く、人間の集団の中の1人に過ぎないという地味な位置付けに過ぎないのである。これが健全な人間1人1人の定義であり、人間は自分の栄光を求めず、単なるたくさんいる人間の中の1人に過ぎないという謙虚で目立たない存在に過ぎない事が人間の存在の正しい定義なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

唯一まことの神である父エホバは、まるである孤児院にいる院長の様です。彼には実の息子がいましたが、彼はいつも他の孤児院の子供達と一緒に過ごし、いつもそばにいて彼らを大変可愛がっていました。いつもそれを見ていた実の息子は他の孤児院の子供達よりも自分が可愛いがられていないのに腹を立て、父に言いました。父よ、あなたは実の息子である私よりも他の孤児院の子供が可愛いのですか。あなたはいつも私のそばにいてくれませんし、彼らに与えるおもちゃの方がいつも私のより多いのですが。すると父は言った。息子よ、あなたには実の父親である私がいる。そして私の所有物はすべてあなたのものだ。しかし彼ら孤児院の子供達を見なさい。彼らは皆、実の親から死に別れしたり、捨てられた者達ばかりなのだ。一体誰があの子達を可愛いがる者がいるだろうか。私が可愛いがるしかないのだ。私が一番愛しているのはあなたであり、しかしそれ以上に孤児院の他の子供達が不憫でならないのだ。それであなた以上に彼らには愛情が必要なのであり、私は彼らをあなた以上に愛せざるを得なかったのだ。あなたは彼らよりはるかに恵まれているからだ。そうである。神は実の息子であるイエスキリストよりも私達の様な罪深い孤児を愛して下さるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

物事には一長一短がある。すなわち簡単で単純な問題ではなく、これこそが世の中を変える事を難しくしている。例えば、防犯カメラがあるが、ある人はそこら中に防犯カメラが取り付けてある事をプライベートの侵害であると考え、人間社会の超監視社会に警鐘を鳴らしている。しかしある別の人は自分がいない間に道路に止めてあった車を盗まれた。しかしそこら中に防犯カメラが取り付けてあったおかげで犯人の行方を追跡する事が出来、犯人は逮捕され、車は無事持ち主の元に戻った。こう考えてみると、単純に防犯カメラはプライベートの侵害であるとして撤去するべきだ、と言うことも出来ないのである。かと言って、防犯カメラは超監視社会の助長を促し、プライベートを侵害する事にはならない、とも言えないのである。ここが世の中を変える難しさであって、この様な問題は防犯カメラに限らず、至る所で見られるものである。この小競り合いが社会問題となって多くの争いや訴訟となって表面化しているのが、現代社会の難しい部分なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

本質的に言って、いい女というものが存在するわけでは決して無く、ただいい女のフリができるかどうかに懸かっているだけであり、またいい男というものも存在するわけでは決して無く、ただいい男のフリがどこまでできるかどうかに懸かっているのみなのである。いい女のフリとは、甘え上手であるという事であり、いい男のフリとは、最後まで自分のすべてを見せないという事なのである。要するに男と女とはキツネとタヌキの化かし合いであり、ただ恋の駆け引きに勝つか負けるかだけなのである。すなわちいい女になりたかったら、またいい男になりたかったら、人生の経験を積むしか無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

死とは何か。それは新たな世界を開く扉である。小麦から教訓を得なさい。小さな小麦の種が落ちて死ななければ、次の新しい小麦は生まれてこない。すなわち小麦の死という犠牲によって新たな小麦が生まれてくるのである。生き物の命さえそうである。私達の体は細胞で出来ているが、今の細胞が自分の命を犠牲にして死ぬ事によって、新たな細胞が生まれ、それにより体全体が新陳代謝され、全体としての命が維持されるのである。では人はなぜ死ぬか。聖書ははっきり述べている。すなわち罪の報いが死であると。よって人は自分の罪の贖いのために自分の命を犠牲にし、死ぬ事によって自分の罪から解き放たれるのである。よって死人は生前の自分の犯した罪から放免されているのである。よって私達はまず死んで、自分に対して新たな命の種を落とすのである。そうして私達は神の支配するパラダイスで全く新たな命の体を享受するのである。すなわち永遠の命である。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中の本質が如何に機能的に言ってゼロであり、死んでいるものであるかという事は、如何にして言えるかというと、これは常にあらゆる場合に対して当てはまる事であるが、[常にある必要性が要求された時には、常にその必要とされるものは、その必要とされる所には決して無い]という事である。これは自然災害の時も、社会問題にしても、必要とされる救済策がそれが生じた時には全く手付かずのまま用意されていないという事を意味する。人間の人間に対する支配は常に後手であって、本来なら、自然災害や社会問題が起こる兆候を事前に察知し、問題が表面化する前に手を打たなければならないのである。これが本当のノーマルな政治であって、実際には問題が表面化し、多くの痛ましい犠牲者が出てからようやく腰を上げるのが実情ではないだろうか。この様に人間の支配する社会は問題が起こった後の原因の理由付けはいくらでも出来ても、問題が起こる前の予見は決して出来ないのである。すなわち今あるいろんな対策案はすべて多くの犠牲者の上に成り立っているのであって、この時点で人間が人間を支配する能力を持っていないという事を証しするものである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生は飛行機に例えられる。飛行機は飛び立つ前に十分に助走して加速度をつけないと飛び上がれない。実は飛行機にとって着陸するよりも離陸する時の方が一番力もいるし、難しくて危険なのである。人の人生もそうである。人は幼児期から徐々に成長して行くが、ここで十分に助走して加速度をつけないと、すなわち幼少の頃から十分に愛情を受けて順調に育って行かないと、いざこれから離陸するという、すなわち青年期に向けて飛び立つ時、上手く飛び上がれないのである。この時期がいわゆる人間の思春期であり、人間にとって一番力もいるし、難しくて危険な時期なのである。私はこの時期を悪魔が連れ去る日と呼んでいる。この時期を無事に越えた者は大空を飛んで行く飛行機の様に安定して人生の軌道に乗れるが、この思春期までに親の離婚や家庭の問題などで十分な愛情を受けて来なかった子供達は離陸に失敗し、そのまま墜落してしまう事が多々あるのである。すなわち思春期に問題を抱えてしまったら、その後の人生に甚大な影響を与えてしまうのである。人間の人生は思春期いかんで、ほとんど方向付けが決まってしまうと言っても過言ではない。この思春期という精神的に不安定になり、大人になるための、サナギから成虫になる蝶の様に激変する時期を親達は決して甘く見てはいけない。そう、小学校までは誰でも順調に育つのであるが、これが中学校になると状況は一変するのである。よって思春期を上手く乗り越える人生のコツはやっぱり親と子が普段から何でも話せる関係を築いておくか否かに懸かっているのである。常に親子で親密なコミュニケーションをとっていれば、いざ問題が生じた時でも、親は子供の異変を敏感に察知する事が出来、未然に問題を防げるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生は季節に例えられる。人は生まれた頃は母親の保護のもとで春の様にのどかに成長する。そして乳離れをした頃から、いろんな経験や知識を得る事に力を注ぐ。これはまるで稲作の田植えの時期の様である。小さな苗は百姓達の毎日の地道で大変な労働によって少しずつ育っていく。そして人生には夏という順風満帆な時節を迎える。この時こそまさに作物も人もぐんと成長する事の出来るチャンスの時である。そして人は年を重ね、田んぼの苗も十分育って穫り入れの秋を迎える。そう、春から夏にかけて地道に努力してきた収穫という報いを刈り取るのである。しかし人生の終盤になると、冬という厳しい逆境の時を迎える。冬は作物も育たず、厳しい寒さがすべてを覆い尽くす。人間の各人の人生はここで決定する。すなわち春や夏や秋はこの冬という厳しい試練と逆境の時を忍耐し、乗り越えるための準備の期間に過ぎなかったのであると、ようやく人は気付く。そう、春や夏や秋はのんきに何もせずに遊びほうける為にあったのでは無いのである。春や夏や秋という人生の比較的順調な時に、苦しい思いをして精神的にも肉体的にも努力して鍛えた分の蓄えを、何も得られない長い冬という逆境の時に、少しずつ取り崩して冬を乗り越えなければならないのである。つまり春や夏や秋に何もせずに怠けてきた者は冬という人生の逆境の時に何も蓄えていないから、その冬という逆境の寒さの厳しさに耐えられずに死んで行くのである。大半の人間は蓄えるべき春や夏や秋の時期を無為に過ごすから、いざ試練が及んだ時には時すでに遅し、なのである。すなわち少数の人間が、春や夏や秋の時期に遊びたいのを我慢し、食物を蓄える為に必死に努力しておいた分、何とか逆境を乗り越えられるのである。そしてこれも真実の言葉であるが、冬来りなば春遠からじ、であり、真っ暗な真夜中も過ぎれば夜明けは近いのである。そうして逆境という冬と真夜中を乗り越えた者だけが新たな春という夜明けを迎える事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

兵法序論

人生とは戦いであって、決してのほほんと生きれるものでは無い。よって常に私達には生きていく上で敵が必ずいるのであり、敵に対する対処法を持ち合わせていなければならないのである。

1.防御(ディフェンス)とは、常に自分を敵よりも強いと見せかけて、相手を怯え上がらせる事によってその間に安全地帯まで移動し身を守るものである。

2.攻撃(アタック)とは、常に自分を敵より弱いと見せかけて、相手を油断させる事により、自分の陣地に引き入れ、自分が優位にたった時に一斉に不意打ちをかけるものである。