高田義裕の人生論

今日の格言

人間、社会人となって大人の世界を知るようになると、自分の事を本当に愛してくれる人など1人もいない事が分かる。仕事上の人間関係も表面的には仲良くやっていても、誰も自分の本心を見せる人はいないし、本当に心許せる人もいない。そこで人はようやく理解するのだ。自分を本当に愛してくれていたのは両親や家族だけだったと。そして何よりも大事な事は、自分を愛せるのは自分1人しかいない事も。結局人間の本質は孤独なものであり、本当の悲しみや苦しみを癒せるのは自分1人しかいない事も。であるから、人は自分自身を大切にしなければならない。たとえどんな問題が起きようとも自分を信じ続けるのである。なぜなら神ご自身があなたが生まれる前からあなたに生きていける為の能力をそれぞれに与えておられるからである。あなたが生まれつき当たり前のように持っている様々な能力こそ、神があなたにお与えになったものである。すなわち神を信じるという事は自分自身を信じる事である。各人には各人独特の時間的リズム、すなわち自分のペースを持っているからである。このペースを乱されるとどんな事をやっても上手くいかない。要するに人生を上手く生きている人は他の人からの様々な外圧を受けても決して自分のペースを乱さないという心の訓練が出来た人なのである。何事をするにも慌ててはいけない。どんなに仕事に熟練した人であっても、慌ててしまっては本来の自分の能力を出せないのである。よって自分のペースを乱してくる様な人物には特に用心せよ。その様な人は本来あなたとの心の波長が合わない人であり、あなたにとって苦手であり、相性の悪い相手だからである。どこに行っても自分にとって相性の合わない苦手な人はいるから、それは学校でも職場でも同じ事である。まず大事な事は周りの人達をよく観察して一人一人の心の傾向、すなわちどんなタイプの人かをよくよくわきまえる事である。孫氏の兵法にもある様に、相手を知り、己を知れば百戦危うからず、なのである。そのためには経験を積んで、自分という人間がどういう人間かをきちっとわきまえる事が大事である。私達にとって日常生活を送る事は人生の戦いそのものであるから、相手をよく知り、自分の弱い部分を常に意識して相手にその弱い間合いに入らせない様に気をつければ、人生を平らに進む事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

他の人の物事が順調にいっているのを見て、ため息をついてうらやましがっている人達に対して言える事は、それはその人が、その順調にいっている人の表の部分だけを見ているのに過ぎず、実際には成功した人の、人知れず大変な思いをして行い続けて来た下積みの裏の部分を全く考慮に入れていないのである。そこまでうらやましく思うのなら、自分もそうなれる様にいっぺん努力してみればよいのである。そうすれば、自分の直に体験する経験を通して、裏と表の本質と事情がはっきり見えてきて、成功する事がいかに大変な事かが分かってくるはずである。そうすれば、必ず自分に都合の良い見方である、うらやましい感情などはどこかへ消えて無くなるはずである。

高田義裕の人生論

今日の格言

私達人間は自分達があらゆる生き物の中で一番長生きする生き物だと思っていないか。実はそうでは無い。人は1日で咲き、1日で枯れる美しい花を見て花の寿命は何と短く、はかないのだろう、と思う。鳥や魚や昆虫も長くても数年しか生きられないのを見て、哀れみを感じる事であろう。しかし逆説的ではあるが、すべての生き物の中で最も寿命が短いものは、あろうことか、我々人間なのである。我々は神の像に造られ、喜怒哀楽という感情を与えられ、互いに愛し合う存在として創造された。すなわちすべての生き物の中で一番高尚であり、高等生物なのである。それは人間が霊長類と呼ばれる所以である。すなわち我々の命というものはどんな他の生き物よりも価値があるのである。であるから樹木の様に短くても1000年は生きて当然なのである。しかし実際は現代社会になって、医学が発達し、ようやく平均寿命が80歳代にまで来たところである。例えば、犬の8歳は人間で言えば、40歳代である。犬でさえ平均15歳以上生きるのだから、人間で言えば、100歳以上生きるのである。ましてや犬よりも小さくて下等な生物である昆虫や鳥や魚は犬よりもっと生きるのである。犬が人間の寿命の五分の1くらいなら、昆虫は犬の寿命の100分の1くらいである。よって昆虫が平均5年生きたとすると、人間で言えば、(100×5)×5=2500年も生きているのである。1日で咲き1日で枯れる花でさえ、花の1日は人間で言うと500歳であり、なんと、人間が一番短命なのだ。どうしてこんな事になってしまったのであろうか。それはすべて本当は永遠に生きられるはずだった人間が、神のいう事を聞かず、それにいい逆らい、反逆という道を選んだが為であり、そのおかげで人間はあらゆる生き物の中で一番惨めな存在になってしまったのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

物体は速度が速くなればなるほど、周りの空間は縮む。例えばあなたが外で道路を歩いているとして、左側から1キロメートル先に自動車がこちら側に向かっているとしても、あなたのその歩く速度ではその車はあなたの視野にすら入ってこないどころか、あなたはまだその時点では車が左側から向かって来る事すら気付かないであろう。せいぜい気付いてもあなたの位置から車が200メートルまで近付いて来て初めてあなたは左側から車が来る事に注意を向けるであろう。しかし、次はあなたが車を運転しているとする。あなたは時速100キロメートルの猛スピードで走っているとすると、左側から車が1キロメートル先からこちら側に向かっている事がすごく気になるはずである。まず自分の車にぶつからないかと注意して運転し、減速さえするであろう。このように自分が速く進めば進むほど、歩いている時には非常に遠くに感じていたものがすごく近くに感じられるようになるのである。これはあなたの運転する車にとって歩いている時よりも空間が縮んだ事を意味する。そして空間だけでなく、時間も縮んだ、すなわち時間も短くなったのである。なぜならあなたが歩いている時は左側から1キロメートル先の車が来るのがあなたが気付かないほど遅く感じたのであり、遅く感じたという事はそれだけ時間が遅く流れていたという事である。しかしあなたが車で100キロメートルのスピードで進んだ時には左側から1キロメートル先の車が来るのを速く感じたのであり、速く感じたという事はそれだけ時間が短くなった事を意味する。それではもし、光の速さであなたが進むとすると、どうなるであろうか。するとあなたはまだ地球の近くにいるのに、太陽がすぐ近くに迫って来るように感じるのである。これはあなたが光速で進んだ分、宇宙空間が縮んで狭くなった事を意味する。それでは光速よりももっと早く無限に速度を加速して進んだ場合はどうなるであろう。すると宇宙全体が急速に収縮して、1つの点上に圧縮されてしまうのである。すなわち、ビッグバンが生じる前のただ1つの1点に戻るのである。また同時に時間も一瞬にして短くなり、時間もただ1つの1点に収縮し時間は停止してしまう。これは何を意味するか。それはブラックホールである。私達は光速より遥かにゆっくり動いているから、逆に宇宙は膨張している様に見えるのであり、宇宙全体は光速以上の無限の速さで進んでいるので、宇宙全体が実はブラックホールなのである。すなわち私達は巨大なブラックホールの中で生きているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神エホバの成された御業は、あらゆるすべてのものが自分本位にならないようにし、すべてが公平になるようにバランスのとれたものとして整えられた。しかし神から離反した人間達の行ったすべての業は、あらゆるすべてのものが不公平なまでに絶対性(自己中心性)を渇望し、それによりすべてのものが、どちらか一方に偏りがある状態で存するものになってしまったのである。

2.人間一人一人はたとえ物理的に、すぐ横に隣り合わせていても、個人個人の思いと考えは、1人が銀河系に位置するなら、もう1人は、隣のアンドロメダ星雲までも離れているのである。すなわち人間一人一人は互いに小宇宙なのである。

3.私達、不完全で立場の低い、罪深い人間が神を信じるための理由と根拠を自分達で探さねばならないとしたら、また自分達で探す事が出来ると思うとしたら、それは何と不幸であり、また何と自惚れた事であろうか。神とは本来、ただお一人の神であって、人間の考案した仕方で仕えてもらう神では決してない事を私達人間は既に知っているではないか。

4.天にであれ、また地にであれ、またその中に存するすべてのものであれ、人間が本来持っていた栄光と能力に勝るものは何1つ無かったのである。よって、1人の人、すなわちアダムが神に対して罪を犯した時、それだけで瞬時にして物理的全宇宙に影響が出て、全体にヒビが入り、すべてのものは呪われ、汚されたのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)

 

正しさも度が過ぎると人を殺す事になる。

よくテレビのニュースで司会者が今日は夏のシーズンで観光客が海で海水浴を存分に楽しんでいました、などと言って、視聴者に向かって話すが、実はそのアナウンサーは海など行っておらず、自分がさも体験してきた様に笑顔で話すが、彼は一日中この暑い外には全く出ず、クーラーの効いた涼しいスタジオでしかいないのだ。これは正しさという観点からは彼は間違っている。ここで言う正しさとは、あくまでも彼が現地の遠い海岸まで車なりを使って赴き、実際に海水浴を体験して初めて人に言える資格があるのである。しかし実際にはテレビ局のスケジュール上、そんな事は出来ないし、予算も無い。世の中はこの様な事で満ちている。すなわち、実際体験していない者がさも体験してきた様に代弁する事はよくある。よって正しさの観点からは外れていても、都合上、正しさを守っていないのが私達の日常生活なのである。この様に現実はカチカチの正義では成り立たないのであり、もし文字通りの正しさをすべての生活面において実践しなければならないとすれば、そこには多くの時間と手間とコストがかかってしまい、そこに歪みが生じ、正しい事を行ったために過労で死ぬ人間も出てくる場合があるのである。ここで倫理的問題が出てくる。人間は正しく生きなければならない存在だが、人間を犠牲にしてまで人間は正しくあるべきか、という問いである。すなわち、人間を優先するか、正しさを優先するかという事である。この倫理のジレンマは日常のあちこちに潜んでいる。テロリストの言う事を聞いて身代金を払い、人質になった人を助けるか、それともテロリストとは一切交渉しないという正しさを貫いて、人質になった人達を見殺しにするかどちらか等である。これは宗教にも当てはまる。信者はよく自分の信じている宗教信条のために自分の命さえ投げ出すが、果たして宗教とは何のためにあるのだろう。それはあくまでも人間のために、人間がより幸福に生きるために宗教が存在する意義が与えられているのでは無いか。しかしそれを、宗教信条のために人間の命を犠牲にするなどとは、全く本末転倒であべこべでは無いのか。私は思うのだ。人間にとって命がすべてであり、人間は命を与えて命以上の何を得られようか。生き物にとって命あってこその生活であり、命を犠牲にしてまで得なければならないものなど全く無いのだということを。ここに倫理的存在である故の人間の大きな課題が横たわっているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

万物方程式

電子辞書で単語を調べるとき、初めにaを入力すると、それに該当する単語は無数にある。それはairであったり、amであったり、alwaysであったり、すなわち、言い換えれば、ただ1つaという条件を満たすものを探せ、と言えば、それは沢山の単語がその条件を満たすわけである。しかし、ただ2つaとbという条件を満たすものを探せ、と言われれば、先ほどのaだけ満たせばよい条件よりも単語の数は絞られてくる。すなわち、条件aのみの単語の数>条件aとbのみの単語の数という事になる。この様にして必要な条件の文字をどんどん増やしていけば、それを満たす単語の数もどんどん減少して限られてくるという事である。そう、限られてくるという事は、言い換えれば、あらゆる単語に該当する可能性が低くなっていくという事である。これを一般的に言えば、ある法則があって、万物に対して当てはまる普遍性を持つためには、その必要とする条件は先ほどの様に数が少なければ少ないほど普遍性を持つという事である。よって万物方程式というものが存在するとすれば、それはすべてに対して任意の存在になるはずである。すべての事に通用し当てはまる条件とはそれは条件0である。すなわち条件が0で全くの任意の存在である事が万物方程式であるための0条件なのである。すなわち、(無)こそ、万物方程式なのである。なぜなら何も無いところからすべてのものが生じる可能性を持つからである。逆にすべてのものが存在する、(有)にはすべてのものが生じる可能性を持たない。先ほどの電子辞書で単語を調べるとき、すべての文字を満たす条件を探せ、と言われれば、例えば、aやbやcやdを含む単語はその文字の数が増えれば増えるほどただ1つに決まる。よって、(有)とは1のことなのである。ここで(無)の状態と有の状態とは互いに逆の関係である。よってこれを一般式で表せば、(無)=-1という事になる。よって万物方程式とは-1の事である。万物方程式=-1である。

高田義裕の人生論

今日の格言

抑え難い罪への衝動が強ければ強いほど、また超越した神の義もそれに勝って満ち溢れるのである。

2.神エホバによって直接に創造されたもの以外、すなわち人間の手の業によって創造された、一見有利であり、一見機能的だと思われるものすべては、神の創造物から比べれば、ガラクタ同然のものであり、踏まれても反応しない道端の石の様に、無きに等しいものであり、かつ、目の前を瞬時に過ぎ去る窓際の風景の様に、はかないものであること。

3.潔癖症は完全主義の一種である。

4.貪欲さとは、決して手に入れることの出来ないものを追い求めること、すなわち水面に写った月を手ですくい上げることに似ているのである。

5.人間の創造したもの、すなわち完全主義、国家主義、民主主義、共産主義、独裁主義、利己主義、形式主義、聖書主義、全体主義、ポピュリズム、エロチズム、オナニズム、刹那主義、個人主義、人間主義、ニコラオ派、上昇主義、巨視主義、能力主義、潔癖主義、現実主義、ご都合主義、対処論、平等論、結果論、進化論、これら多数のものを避けなさい。

6.誰でも嫌な思い、失敗などはしたく無い。しかし人生、人にとっては、失敗してそれを肌で感じ、教訓を得なければ何も始まらないし、本当に理解し、学ぶという事も出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

若い時の苦労は買ってでもしろ、とよく言われる。その言葉は真実である。人は自分の若い頃から、すなわち、まだまだ気力も活力もある、物覚えの良い時に努力すれば、年をとった時、その若い頃にした苦労が報われるからである。しかし、逆に若い頃から楽していると、何も見につかずに年だけとってしまう。そして40代くらいから、それまで楽してきたツケが回ってくるのである。そう、年をとってから苦労しても、その苦労はただ苦しい思いをするだけで、何も報われない苦労になってしまうのである。年をとってから、いざ頑張ろうと重い腰を上げても、体がついていかず、物事も物覚えが悪くてなかなか見につかない。そのため、他の人からいい年をしてそんな事も出来ないのか、と罵られ、自分の苦しみを理解してくれ、同情してくれる人は誰もいないからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

倫理の等価交換の原理は間違っているのか。

この世の中、大した労働もせずに楽してお金を貰っている者もいれば、大変苦労して、毎日戦場のような忙しさで働いて、ようやく僅かな賃金を貰っている者もいる。これは不公平ではないか。倫理の等価交換の原理とは、人は骨折った分だけ利潤を得られるというものではなかったか。すなわち、楽している者は後で苦労し、苦労している者は後で楽出来るというものである。しかしこの世の中を見渡して見るとそんな単純な状態には決してなってはいない。だが、確かに言える事は、楽して得たお金というものは何の価値もないという事である。すなわち、同じお金でも、苦しんで得たお金が初めて価値があるのである。要するに社会全体を見渡して、お金の流れというものは、苦労して得たお金が社会を動かしているのである。世の中には全く動かないお金、すなわち、価値のないお金が99%を占めている。この価値のないお金とは、大金持ちの銀行の中に眠ったままの現金である。すなわち、世の中には出て行かないお金であり、世の中全体はたった1%のお金で動いているのである。これは例えれば、全世界のお金が1000兆円あったとして、その999兆円は、眠ったままである。残りの1兆円だけで人口70億人を養っていけと、この世の中の支配者が決めたのである。たったの1兆円を70億人が奪い合いをするのだから、当然仕事は大変きつくなり、修羅場となる。そのほとんどは奴隷となり、ただでこき使われる。これが全世界の経済の仕組みであり、世の中全体の仕組みが既に不公平であり、悪なのである。すなわち、楽している富裕層の働かないで貰う価値のないお金のツケを最下層の民衆及び、奴隷が過酷な労働で望まない形で価値のあるお金でそれを穴埋めしているのである。要するに価値のないお金とは、何もせずに999兆円貰う事に等しく、価値のあるお金とは、建物を建て、掃除をし、野菜を作り、製品を製造し、介護し、命を助け、運搬し、ありとあらゆる仕事を全部こなして、やっと1兆円貰う事なのである。この過酷労働によって初めてお金は価値を与えられていると言える。要するに倫理の等価交換の原理は世の中の支配者によって強引にねじ曲げられているという事である。こんな間違った世の中の仕組みは、いつまでも続きはしない。なぜなら、自然の摂理である倫理の等価交換の原理に逆らっているからである。よって、いずれ必ずこの世の中の不正な経済の仕組みはそのツケを払わなければならず、神の預言する人類の大患難という形で瞬く間に押し流されてしまうのである。