高田義裕の人生論

国家とは何か。それは人の数の多さで決まるものであろうか。それでは、1人しかいない国民は、国家だろうか。そうとは言えないだろう。では2人いる事が国家であろうか。そうとは言えないだろう。では3人いる国民が国家だろうか。そうとも言えない。この調子でどんどん数を増やして10万人なら国家だろうか。そうとも言えない。この論法で行くと、どれだけ数がいても国家とは呼べないのである。すなわち、国家とは人の数の多さで決まるものではないのである。今ヨーロッパで難民の問題が持ち上がっているが、難民が何十万いても、それは国家ではない。それはあくまでも難民なのである。すなわち、国家とは、アイデンティティーの事である。すなわち言語の違いが国家なのである。言語の違いは考え方の違いであり、価値観の違いであり、文化の違いである。私がどれだけ国際人になりたいと言っても、海外の人達からは、私は日本人として評価される。すなわち、日本国を話すのが日本人であり、ロシア語を話すのがロシア人であり、ドイツ語を話すのがドイツ人なのである。個人レベルで言えば、私は高田家で生まれた事が私のアイデンティティーであり、アメリカ人のスミスさんが、スミスファミリーで生まれた事がミスタースミスのアイデンティティーなのである。人間にとってアイデンティティーは必要不可欠なものであり、自分の存在そのものなのである。国家を失った国民は難民と化し、どこにも行くあてが無い。過去に、ユダヤ人達も国家を失ってからは世界中をさまよい、非常に酷い目にあって来た。国の無い事の悲惨さを教えてくれるのは彼ら達であろう。しかし、彼らがいつまでもユダヤ人としての自覚を失わなかったのは、彼らの唯一神を心のアイデンティティーにしていたからである。彼らには選民思想というものがあって、自分達だけが、唯一、神から選ばれた民なのだ、という誇りを持っているからなのである。これは中国の中華思想と同じである。中国人は、世界の中心は中国であると固く信じている。アラブ人はイスラム社会こそ、世界の中心であると信じている。こうして見て来ると、すべての国の人々が自分達こそ世界の中心であると信じている事になる。これは何かに似ていないだろうか。そう、それは宗教である。宗教も各々自分達の宗教が世界で一番正しいと信じているのである。すなわち、国家とは1つの宗教なのである。日本人は日本国という宗教を信じているのであり、ロシア人はロシア国という宗教を信じているのであり、ドイツ人はドイツ国という宗教を信じているのである。すなわち、無神論者が進化論を信じているのも、進化論という宗教を信じているのである。よって、すべての人間は自分は宗教を信じていないと言っても、その国に住んでいるだけで既に、その国という宗教を信じている事になるのである。よって人間にとって、宗教とは切っても切れない関係にあるのである。たとえ、自分はどこの国の人間でも無いし、神も信じていないし、進化論も特に信じていないと言ったとしても、その人にとって、自分自身が宗教なのである。なぜなら、彼は自分以外の何物も信じていなくても、彼は自分自身を信じているからである。いや、私は自分自身すら信じていないと言うとしても、その人にとって生きて行く為にはお金が必要であり、お金を必要としている点でその人にとってお金が宗教なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界は大多数の群衆を、僅かな少数の支配者がコントロールしている。これは例えれば、三角形のピラミッドの様な形をしている。最下層ほど人数は多く、上の階層へ行くほど、数は減って行く。しかし、ここで逆に考えるなら、もし、大群衆が共に一致すれば、数が圧倒的に多いから、三角形を土台から逆さまにひっくり返す事が出来る。すると、立場は逆転し、最下層だった者は最上級になり、最上級だった者は最下層となる。こうなる事を少数の支配者達は一番恐れているから、大群衆が決して一致しない様に、常に巧みに、軋轢や問題を生じさせて、互いが争い合い、団結させない様にしている。世界に紛争が絶えないのはその為である。もし、全世界の国中の人々が国境を越えて、1人の有能で強力な指導者の下に一致団結すれば、現在の支配体制のすべてを終わらせる事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

成功者とは誰の事か。それは置かれた所で咲く花の様である。花はたくましい。花は自分の咲く場所を選べない。それでもそこに一輪の花を咲かす。砂漠で生まれても、砂漠の中で咲き、高山の極寒で生まれても高山の極寒で咲く。花だって自分が種を落とす理想的な状態の場所を好むはずである。心地よい太陽の光と、したたる水、そして肥えた土に根を下ろしたいはずなのである。人間も同様である。人は自分の親を選べない。ましてや、人は自分という存在を選んで生まれて来たわけでは無い。人は自分の親が好きで無いし、自分の事も好きでは無い。人も自分が生まれる理想的な条件で生まれたいはずである。お金持ちの何不自由無い家、理想的な父と母、たくましい体力のある体、ずば抜けて優れた明晰な頭脳、考え始めたらキリが無い。しかし、成功する者は、どんな条件に身を置かれても、そこで全力を尽くす。砂漠の様に乾いたつまらない人間関係でもコメディアンの様に面白くして楽しむし、極貧の中でも、極貧を満喫する。そうどんなに過酷な状態に置かれても、それを楽しめてしまうほどにまで努力するし、心の豊かさを忘れない人なのである。そう、彼らは、極限状況にまで自分を試した人達なのである。大海を見るがよい。荒れ狂い、猛烈な波しぶきを吹き上げているのは、海の表面部分だけでは無いか。あなたは何でも物事の表面だけを見て、その激動に怯え、惑わされる。大海の海の深い部分はいつも穏やかで、安定し、ゆったりとしている。同じ様に、物事も表面的には、猛烈な波しぶきの様に苦しく厳しいと感じてしまうが、成功者は、あえてその絶望の真ん中へひたすら突き進む。天を見よ。地の表面部分だけは風があれふぶき、大雨が降り、雷が鳴り響いていても、それに負けず、まっすぐ上を見て雲の遥か上を突き進んで行くなら、突然、天が開け、そこにはいつも晴れ渡った穏やかで安定した世界があるのである。台風を観察せよ。周りは暴風雨で荒れ狂っているが、それでも、めげずに台風の中心を進むと、突然、無風状態の穏やかな世界に突き出る。そう、それは台風の目の中である。ライオンに手を噛まれたらどうするか。手を引っ込めて逃げようとするから、ライオンは腕を引きちぎるのである。そこで逆に勇気を持ってあえてライオンの口の中に手を突き出せ。ライオンは驚いてあなたの手を口から吐き出すであろう。そうである。もはや何の救いも無い絶望的に見えるような状況に嘆いたり、そこから逃げようとするのでは無く、むしろその真ん中へ突き進むのである。そうすれば、絶望の中心は台風の目のように穏やかで平安があり、そこには希望で満ち溢れているのである。そうする者こそが初めて成功者になれるのであり、成功した者だけが、初めて自分の望む理想の環境を選べる様になるのである。よってあなたも、今置かれている自分の環境や状況をただ嘆いたり、そこから逃げようとするのでは無く、その置かれた所で全力を尽くすのである。そうすれば、必ず、誰にでも勝利の女神が微笑んでくれるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間にとって、お金は必要なものであろうか。それは最低限必要である。なぜなら、お金が無ければ生活してゆけないから。ただ、それだけである。しかし、こよなくお金を愛する者がいる。お金があればあるほどいいと思っているのだ。しかし、お金を膨大に持っていても、この世の中には、お金で買えないものがいっぱいある。愛情はお金で買えないし、親友もお金で買えない。人としての信用と値打ちもやはりお金では買えない。こう見ると、お金で買えないものは人間にとって生きていくために決して欠かせない大切なものばかりである事に気付く。そうだ、お金なんか無くても人は生きていけるのである。お金で買えるものは、せいぜい高級車とか、豪邸とか、そのたぐいの贅沢品ばかりである。そんなものは別に無くても全く困らない。そうだ、お金を沢山持っていても、そんなどうでもいいものばかりが買えるだけで、ほとんどの部分は単なる見栄でしかないのである。自分の富を人に見せびらかして、それで人より自分は何か特別で偉くなったと思ったら大間違いなのである。そんな誇りはただ虚しいだけである。よって我々は僅かに着るものと食べるものとがあればそれで満足するのである。これこそ人間の幸福の秘訣である。

2.人間とは一筋縄ではいかないほど、面白い存在である。世の中には実に様々な種類の人達がいる。例えば、陰では、その人の事を悪く言っているのに、その本人には、親切を示したりしているのである。これはもう、論理的には理解不能な行為である。また、陰では、その人の事を良く言っているのに、その本人には、辛く当たるのである。これほど人間とは矛盾に満ちた生き物であり、説明の付かない生き物なのである。あなたの常識は、他の人にとっては非常識であり、他の人の常識はあなたにとって非常識なのである。人間とはまさに、姿形は皆同じでも、中身は全くの別の生き物と考えて良い。だから私達の想像を超えて遥かに、私達人間は全く未知の存在なのである。

3.神を信じていない人達の人間関係とは悲惨なものである。この世の中には実に、いろんな情報で満ちているが、その99%はどうでもいい情報ばかりである。逆に言えば、どうでもいい情報だから、世間に公表されているのである。本当に大切で、命の存続に関わる大事な情報は、決して表には出て来ない。それだけみんな大切な情報を隠しているのである。そしてあなたにとって命に関わる大事な情報を他の人は知っているのに、あなたには決して本当の事を言ってはくれない。あなたは取り返しのつかない失敗をして、ようやくそれに気付くが、他の人はあなたの失敗を見て、陰でほくそ笑んでいるであろう。なぜなら、自分達が苦労をして、やっと得た知恵なり、知識なりをただであなたに教えてくれるはずが無いからである。これほどこの世の中の人間関係は、荒廃している。まずその事に気付いて欲しい。しかし神を信じている人達の人間関係とは幸福なものである。たとえ自分が損をしても、あなたに本当の事を言ってくれるし、あなたにとって命に関わる大事な情報もただで教えてくれる。これだけ神を信じている人と神を信じていない人との心の状態は真逆であるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神と悪魔の対話

[悪魔]  あなたに最高の処世訓を与えよう。それは、誰も信用するな、ということである。

[神]   たとえ、あなたは誰かに裏切られようとも、他の人を信じることを続けていきなさい。               (高田義裕 著 、[命の書]より抜粋。)

[解説]

神の存在を信じない人達の世界とは、どの様なものであろうか。それは腹の探り合いである。みんな子供時代は、心が純粋で、なんでも疑う事無く、人の言う事を信じたものであった。しかし、成人して大人になり、社会人として一般社会に出ると、様相は一変する。そこは弱肉強食の世界であり、食うか食われるか、の野生のジャングルの世界である。心の純粋さは、弱さと見なされ、正直にしていたら、皆、頭の狡猾な人達の喰いものにされ、利用されるだけ利用されて、使い物にならなくなったら、ゴミのように捨てられる。人々の大半は、世の中に揉まれて、その様な酷い体験をする。そこで人は悟るのだ。純粋さだけでは、弱者になって、大損するだけであると。そうだ、自分も狡猾になって、賢くなり、相手に一杯喰わせてやれるほどのしたたかな者にならなければ、負けてしまうと。そうして、すべての人は誰も信用できなくなる。相手の人間は、自分がスキを見せれば、自分を貪り食おうとするオオカミの様にしたたかで油断がならない、と身構え、自分の性格も、昔は持っていた心の純粋さはいつの間にか全く失われてしまい、相手の一挙一動に細心の注意を払って、疑いの目で見る様になり、互いの思惑の探り合いという醜い知能戦と化すのである。要するに素直に物事を受け入れられなくなるのだ。例えば、相手から本当に親切にされても、それを素直に感謝して受け入れる事が出来ず、こんなに親切にしてくれるのには、何か良からぬ魂胆(裏)を持っているに違いないと、警戒心を抱くのである。その様な意味においては、確かに、悪魔の言う通り、誰も信用しない事は、賢い処世訓となるであろう。しかし、それに対して、神は何と言っているか。たとえ裏切られ、酷い目に遭っても、人を信じ続けなさい、と言っているのである。なぜそうするのか。何故なら、人間にとって、一番大切なのは、心の純真さと素直さだからである。その美しさが、人を支え、助け、他の人を信じ、他の人を愛する根源となるからである。あなたがこれまで生きて来られたのは、あなたの親からの純粋な愛を与えられて来たからであり、親友や仲間からの信頼出来る、親切心によって生きて来れたのである。要するに人は互いに愛し、愛されなければ、十分心身共に健全で健康な者と成れない様に、神からその様に造られているからである。よって、神を信じる人達は、すべての事を信じ、すべての事を愛し、たとえ裏切られても、それを根に持たず、神が私達を愛してくださっている様に互いに愛し合う事を続けていくのである。その様にして、自分をすべての人達の良心に推薦するのである。よって、あなた方も、たとえ誰かに裏切られようとも、純粋な愛を他の人に示し続けていけば、必ずや、あなたの考えと同じ純粋な人を引き寄せる事になり、必ずや、神があなたのその良い行状をご覧になって、あなたに良い報いを与えてくださるのである。聖書の聖句にはまさにこう書かれてある。新約聖書、パウロに拠る書、フィリピ人への手紙2章3節と4節、[何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく、むしろ、他の人が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち、自分の益を図って自分の事だけに目を留めず、人の益を図って他の人の事にも目を留めなさい。]

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中を良くしようとしても、容易に変わらないのは、全人類の大半は、保守的だからである。確かに今の世界の現状は経済的にも厳しく、大きな諸問題を多く抱えている。しかし人間の心理というものは、確かに今、経済的に厳しくて、苦しくても、変化する事を大半の人が望まないのだ。それはなぜかと言うと、誰かが今の社会体制を変えると言っても、大半の人々はそれに対して疑心暗鬼であり、不安を感じるのだ。何しろ、今までの生活がずっと続いて来て、多少苦しくても、人々はそれに慣れて順応してしまっているからである。変に世の中が変わって、今よりも生活が悪くなる不安もあるし、また、新しい変化に、また初めから自分達が今までのやり方を捨ててまで、順応しなければならない事を億劫にめんどうに感じ、急な変化に対応するだけの犠牲を払う価値があるかという確実な保証も無いから、結局、今のままで我慢した方がマシだという現状維持派に終始してしまうのである。全人類を100%とすれば、30%の人が改革を望んでいる。そして政治に興味の無い人達の割合も20%いる。30%+20%で50%の人が改革を望んでいても、残りの50%の人々が現状維持派、すなわち、保守派なのである。よって、賛成派50%で、反対派50%で、プラスマイナスゼロになり、結局は、何も変わら無いという事になる。要するに、世界を本当にチェンジする為には、よほど指導力のある、常に具体的な、効果のある改革案を人々に開示して、人々の信頼を得られる様な、立派で公平な指導者で無いと、世界を変える事は出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

よく人生訓として、若い時から苦労をしろ、とか、勤勉に一生懸命働け、とか、叱咤激励する私達を追い込む様な教訓で満ち溢れているけれども、それをちゃんと人生の若いうちからわきまえて実践している人達は文句無く立派な人達である。彼等は、常に自分の限界を超えようと必死に自分を追い込み、極限状況にまで自分を持って行き、常人には計り知れないハードな世界に身を置いている。確かにこれは正しい生き方の1つではあろう。しかし、これは絶対的に正しいかと言うと決してそうでは無い。例えば、親に甘やかされて育ち、何の不自由も無く暮らし、日々を何となく、のほほんと生きて来た人達もいる。果たして彼等は間違っているのだろうか。実は決してそうでは無い。実際には人生の最初のうちから優秀に生きて来た人達と何ら変わらないのである。なぜそう言えるか。なぜなら、人生をのほほんと生きて来た人達も、いつまでもその調子で生きていけるわけでは無いからである。人生とは、苦しい事が50%あり、楽しい事も50%ある、それらを足してプラスマイナスゼロの状態の事を言う。これはあらゆるすべての人間に平等に与えられている。若い時から苦労をして生きるという事は、苦しい事の50%を5で割り、また、楽しい事の50%を5で割り、互いに10%ずつに分け、10%×10にする。そして、まず苦しい事を10%我慢して行う。そして次には楽しい事を10%味わう。すなわち、一時間働いたら、一時間休むのである。これを交互に繰り返し、結果、100%を難なく楽に達成するのである。しかし、最初から楽して生きている人間は、まず楽しい事50%をまるごと味わう。すると残っているのは、苦しい事50%だけである。そうだ、10時間休んでしまったので、残りの90時間は休み無く働かなければならないのである。これは並の人間には耐えられないほどの苦痛である。そうなのだ。最初は楽していても、最後には、地獄の苦しみが待っているのである。これは自らをあえて極限状況にまで追い込み、ハードな世界を生きている人達の10倍ものハードさを強いられる事になるのだ。すなわち、楽していた人の方が苦労をして来た人よりも後で10倍もの苦労をする事になるのである。これは極限状況のさらなる極限状況に追い込まれる事に等しい。この結果、苦労の量と質が10倍違っても成果は互いに同じになってしまうのである。そうなのだ。昔から人生訓として若いうちから苦労しろ、とか、勤勉に一生懸命働け、とか言う教訓は決して人を追い込む目的で言っているのでは無く、若いうちから苦労すれば、後の人生は楽に生きられるし、損する事は無い、むしろ得をするよ、と言っているのであり、歳をとってから苦労しても苦しいだけで人生は終わってしまい、得する事は無い、大損するよ、と言っているのが事の真相なのである。すなわち、苦労を先に選ぶ方が、最終的には楽できるという事が人生の教訓なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある貧しい男がいた。彼は自分が何の価値も無い事に強い劣等感を持っていた。だから、いつも人から脚光を浴びたい、有名になりたい、目立ちたいという願望を持っていた。ある時、道端に捨てられていた新聞紙に、あなたも100万円で有名人になれます、という見出しの付いた広告が目に入った。それは、100万円出せば、誰でも1日だけテレビに出演できるし、観客の目の前で自分を披露する事が出来ると書いてあった。これを見て、彼はこれこそチャンスであると思い、一発奮起して、テレビに出たい一心で、一生懸命働いて100万円をひどい思いをして貯めた。そして、その企画会社に電話して、その企画に参加したいとの申し込みをした。それで彼はそのテレビの番組に出演する事に決まった。いざ出演して見ると、自分の憧れていた芸能人や有名人には直接会えたし、多くの観客の前で拍手喝采を浴びて有頂天になった。しかし、その夢のような1日も瞬く間に過ぎ去り、苦労をして貯めた100万円も無くなり、彼は一瞬にしてまた元の地味で冴えない何にも無い日常に戻った。果たしてあの出来事は何だったんだろう、夢でも見ていたのでは無いか、というくらいの落差を感じ、彼はその事を非常に虚しく感じた。そうである、これは何かと類似していないであろうか。そうだ、人生である。これは人の人生と同じである。貧しい家に生まれ、劣等感から抜け出す為に一生懸命働いて、大金持ちになり、有頂天になっても、いずれは必ず死が訪れる。先程のテレビの企画のお金の金額と有名人になれる時間の長さが違うだけで、本質は同じである。人は死んでも甚だしい名誉も莫大な財産も一緒に持って行く事は出来ない。あなたが死んだら、それは一体誰のものになるのか。すべての事はまるで夢を見ていた事の様に死をもってすべてに幕が降りる。何と虚しいことであろうか。所詮私達は貧乏人であり、たとえお金持ちになっても、それは貧乏人が無理してただ見栄を張っただけの事なのだ。そんな事を羨ましく思うのは虚しい事であり、愚かな事なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中の営みは皆、進化論的な思想から来る、勝者しか生き残っていけない弱肉強食の世界であり、神などいない、神など必要ないという大前提の元に積み上げられているものである。しかし、本当は、この世の中の営みが存続していけているのは、神エホバの主権の立証が果たして正しいのか、それとも、人間による人間の支配の仕方が正しいのかという論争の決着の為だけにこの世の中の営みがあえて存続する事を神によって許されているだけなのである。すなわち、人間を支配するのは人間が支配した方が上手く行くのか、それとも、神が人間を支配する方が上手く行くのかという問題提起がなされており、この論争は最終的に神こそ人間を支配するのにふさわしいという結論に達するまで、留め置かれているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人生の価値とは、どれだけ自分が公正(公平)、フェアーに行動出来たかに懸かっているのである。

2.他の人の欠点に目ざとくあるのでは決して無く、他の人の長所を気が付く事に目ざとく無ければならない。

3.生き物にはすべて、自分達よりも上である自分達を統率するリーダー的な存在が必要不可欠であること。すなわち、魚類、鳥類、爬虫類、昆虫類、哺乳類などのすべての動物は、霊長類である人間が彼らを統率するリーダーとなって世話して行かなければならないのであり、逆に人間には、さらに上の霊的存在である神エホバによって統率されねばならないのである。

4.最初から心が良くても、それに何の価値も無いのであり、意識して良くなる様に心掛ける事に初めて価値があるのである。

5.はっきり言って、失敗や挫折をした事の無い者は、むしろ不幸者である。