高田義裕の人生論

今日の箴言

人が生活して行く全般において、また、人々と話しをする事において、自分はそんなレベルの低い話はつまらないとか、自分の関心のある事しか反応せず、興味を示さないとするならば、その人は、その人にとっての真の人間関係の豊かさを自ら得損なっているのである。本来、人間にとって一番大切で、まず最初に優先して行って行くべき事は、相手の話しをよく聞いてあげる事であり、すなわち、お互いがお互いに積極的に関心を示し合う事だからである。この最も些細で、当たり前の事である、最もレベルの低い次元での自己犠牲的精神を示さなければ、人はいずれ、生きて行け無くなるのであり、人生を幸福に豊かに過ごす為に必要な条件は、利他的愛であり、他の人に対する心からの親切心なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神についての考察

私は神を信じているのだが、最近分かった事がある。神という存在自体が人間間に争いを生み出すという事である。まず、誰かが、真の神はお一人であり、それ以外の神は信じてはならない、と言ったとしよう。すると、それを言った途端に、人間の間に、その神を信じる人達とその神を信じ無い人達とに分裂してしまうという事である。当然そこで、意見の食い違いが起きて、人々は争いを始めるのである。なぜなら、もしこの世の中に神はいないとしたら、神を信じる者達と信じない者達という立場の分裂は起きるはずが無いからである。そこには、むしろ、何の差別も無い、すべての考え方を良しとする平和が到来するはずである。すなわち、神を信じる事自体が争いの元であるという事である。これでは、余程、無神論者の方が平和主義者であると言えるであろう。この世の中において、無数の宗教があるが、特に、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教について見てみると、ユダヤ教でも、イスラム教でも、キリスト教でも、最初は全く同じ神から出発しているのに、今では、スンニ派、シーア派、イスラム原理主義者、キリスト教においては、カソリック、プロテスタント、統一教会、エホバの証人、モルモン教、その他、多くの分裂分派に枝分かれしている。そうして、互いに自分達こそ、真の神を信じていると主張し、その考え方や教理の違いで言い争いが生じ、宗教間戦争が起きている。これは何故起こるのか。それは、当の本人の神自身が我々人間には見えないからである。神を信じ無い人達はこう言う。神が存在するなら、あなた方は神を見た事があるのかと。いや、人類誕生以来、誰も神を見た者はいない。また、無神論者はこう言う。神があなたを窮地から救ってくれるのなら、神が実際、天から降りて来て、あなたの体をその両腕で抱え上げてくれたのかと。いや、誰も神が人間を助けた所を見た者はいない。すなわち、神という存在には、これと言った実態が無いのである。もし神がハッキリと人間の目に見えたのなら、すべての人に神は見えるのだから、神に関しての意見の相違など起きるはずが無いのである。要するに、神を見た者が誰もいないから、神について、様々な臆測や見解や解釈が生じるのである。いや、臆測や見解や解釈などでは収まらず、人間の誰かが、自分こそ神である、と言い始めて、歴史上、時の権力者と成り、人々を支配して来た時代が続いて来たし、現在も続いているのである。私はこれは、もうしょうがない事だと思っている。何故なら、聖書の聖句にこう書かれているからである。新約聖書において、イエスキリスト御自身がこう言っている。マタイ書10章34節から35節に、[私(イエス)が地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和では無く、剣を投ずるために来たのです。私は分裂を生じさせるため、男をその父に、娘をその母に、若妻をそのしゅうとめに敵対させるために来たからです。]と。もはや、神御自身がそう述べておられるのであり、我々人間が口を挟める事では無いのである。しかし、私はそれでも言おう。イスラエルの神は、ただお一人の神であり、平和を愛する神であり、神が人間に見えないのは、争いが生じるためでは決して無く、むしろ、いかなる形にも置き換える事が出来ないほど、素晴らしい神であり、偶像崇拝を忌み嫌われる神なのであると。何故なら、これも聖書の聖句に神御自身がこう述べておられるからである。ヘブライ語(旧約)聖書の聖句、出エジプト記20章4節に、[あなたは自分のために下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。]と。すなわち、[神の見えない特質、すなわち、そのとこしえの力と神性とは、造られた物を通して認められるので、神の存在は、世界の創造以来明らかに見えるからであり、それ故に人間は言い訳が出来ません。] 新約聖書、パウロによるローマ人への手紙1章20節より。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人々はこれを聞いて驚くかもしれないが、物事の本当の事情を述べると、この世の中にある、ありとあらゆる苦しみや悲劇の原因は、人間が自分達の欲望のままに、全く好きにしていいのに、人間の能力がそれを十分に自分の欲望のままに好きに出来なかった、という事に尽きるのである。要するに、神から何かを禁じられていて、その掟を破ったから、人間は罪を犯して罪人になったのでは決して無いのである。初めから神は、人間のする事に何の制限も求めていない。むしろ、制限を求めたのは、人間の方なのであり、勝手に自分達が、私達はこれをしてはいけない、これをしたら、罪を犯す事になるなどと決めつけて行ったのである。これによって、本来ならどんな事をするのも自由なのに、それをしなかった事において、人間は罪を作ったのである。人が病気になる原因も同じ理由である。もともと人間の体は健康そのもので、何をしてもそれに対応できる程の潜在的エネルギーを秘めていたのに、人間は自分達の体を使う事に対してさえ制限を設け、十分に自分達の体を使わなかったせいで、病気になったという事である。これは例えれば、物凄いパワーを持つスポーツカーがあったとして、それを所有者が十分に使って、そのパワーを最大限にまで引き出してやれば良かったのに、何とそのスポーツカーをキズつけたくないばかりに全く乗らずに車庫の中に置いたままにしたのである。当然その車は全く自分のエンジンを稼動させていないから、何十年と経つうちに、エンジンオイルも腐り、エンジンも錆び付いて壊れてしまったのである。これと同様に、人間も自分自身の持つ無限の潜在能力を最大限まで引き出してやれば良かったのに、何とそれをもったいぶってほとんど使わなかったのである。これにより、人間はいろいろな深刻な問題を自ら生じさせてしまったのであり、現在もそうなのである。すなわち、罪とは、それを罪と信じ込んでいる心の事なのである。この思い込みが人類の心に凝り固まってしまった為に、私達はあらゆる事柄を苦しみとしか感じ無くなってしまったのである。要するにすべての問題の原因は心にあるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私は、今の美人を後の不美人と見なし、今の不美人を将来の美人(期待出来る人)と見なすのである。なぜなら、人は輝くだけ輝いてしまったら、後は落ちて行くしか無いからである。すべての人間は今だけでは無く、これからも生きていかなければならないものではないだろうか。よって、すべての人間は物事に対して短期的に見るのでは無く、何事に対しても、長期的に考察していかなければならないのである。それが人生において失敗しないやり方なのである。

2.この世の中では、道理的に正しい事が通用しない事もあるのである。また、この世の中では、道理的に間違った事が通用する事もあるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人々は、日常の一部分で起こる、目の前で、もしくは、聞き伝えによって経験する不条理で理解し難い事件に対して、戸惑い、驚き、嘆くが、実際には、私達人間の人生そのものが、大きな不条理に過ぎ無いのである。

2.人の編み出すどんな立派で素晴らしい偉業も、すべて、時間というふるいの中で洗練され、精錬され、野ざらしに晒されるうちに、真理という範疇にでは無く、~派、~主義という個人的好みの、小さな範疇に収まって、いずれは、廃れ、人々から飽きられ、その途上で消えて、死んでいってしまうものであること。しかし、真理、すなわち、神の言葉はいつまでも永久に生き続け、初まりも終わりも無いのである。すなわち、神(真理)とはαであり、ωであり、最初であり、最後であるのである。

3.たとえ、どんなに美味しくて、素晴らしいご馳走でもそればかりでは必ず飽きが来るのである。同様に、正しい事ばかりしていては、いつか必ず飽きが来るのであり、人はたまには悪も行ってみたいと思うのである。同様に、悪い事ばかりしていては、いつか必ず飽きが来るのであり、人はたまには善も行ってみたいと思うのである。

4.神エホバを畏れる者は、自分の身を確かに守っている者なのであり、神エホバを畏れない者は、自分の身に暴虐を行っている者であるのである。

5.嘘とは、すべて、十分に調べもしないで、そうであると決めつける偏見、または、先入観の事であること。

6.真理を知ることに意味があるのでは無く、真理をたとえ少しずつでも、行って行く事に初めて意味があるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神への信仰の試みが完成された後には、試みはもはや無駄なものとなり、その代わりにまた、新たな段階が待っているのである。要するに、現在私達は、自分達の信仰を試される世代に生きており、この世代は、神の存在を肌で感じる事が出来ず、すなわち、周りの創造物や聖書によって神を想像するしか無いのである。しかし、その後の世代は、その様な不正確で不明瞭な状態から抜け出て、神を全体から知る、すなわち、あるがままを見る、もしくは、初めて神を神として完全に知る様になると言う事である。それはまるで、人と人とが手紙だけで交流していたものが、手紙を通してでは無く、人と人とが直接顔を見合わせて話す様な状態となるのであり、またそれ以上の親密な、神と人との関係に到達すると言う事である。

2.はっきりと言っておく。単に神はおられると言う事が、大切なのでは決して無く、神はどのようにおられるのか、と言う事が初めて意味があるのであり、神は人の思いの中におられるのでは決して無く、神は御自身が意図されるままにおられるというのが、本当の正確な表現なのである。

3.誰でも、他の人の事は、いちいち気がつくし、分かるのである。しかし、自分の事を本当に分かっている者がもしいるとするならば、それこそ、初めて偉大な者なのである。すなわち、その様な者は1人もいないという事である。よって、他の人の事をいちいち詮索し、解説出来る者が賢いのでは無く、自分がいかなる者であるかを真に知っている者が初めて賢いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

親切にしてあげても、親切が還って来るとは限らない。それでも、親切を続けて行きなさい。それは私達が、天におられる、父なる神の子である事を人々に示す為である。

2.神エホバ無くして、人間の独立した義の実践、義の確立などあり得ないのである。

3.結局は、神エホバから頂いたもの、すなわち、健康こそが、すべての何ものにも勝る、何ものにも代え難い賜物なのである。

4.聖書の述べている主張の要点は、神に少しでも従わなければ、人間は少しも立ち行かないと言う内容であるのである。よって、人が、より余裕を持って、より良くなる為に神が存在するのでは決して無く、神無くしては、人は、ほんの少しすら生きていけないのである。要するに、神にほとんど従って、少しくらいは従わなくても差し支えない、と言う事では決して無いのではあり、人間の造りからして、初めから人間は神に全き従順である様に造られているのであり、また、十分に神に服従出来る能力を既に与えられているのである。

5.[神はおられる]と言うのは、私達人間が、苦労の末に勝ち得た、人間の知恵に拠る認識などでは決して無く、私達が生まれる前から存在する神からのニュース(音信)なのである。すなわち、それは、私達の勝手な臆測や希望的観測から生まれた事柄なのでは決して無く、神の所有物なのである。

6.どんなに立派で、力ある人間も、まず健康であり、元気で無ければ、自分らしさを出す事さえ出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自由とは何か。それはすべての事が許されている事では無い。すなわち、すべての事が許されている中で、何を許さ無いかを決める事こそ自由なのである。

2.死ぬ事は簡単な事であること。生きていく事に意義が生まれるのである。

3.喧嘩をして、仲を悪くする事は簡単な事である。仲良くやっていこうとする事に意義が生まれるのである。

4.殺す事は簡単な事である。許す事に意義が生まれるのである。

5.淫行する事は簡単な事である。貞潔を守る事に意義が生まれるのである。

6.真に偉大な者の特徴は、見た目には決して偉大には見えない事である。

7.真の神エホバへの畏れがすべての人生の初まりである。よって、人が義を行い続けようとするのは、ただ、神エホバが義なる方であるからの理由に拠るのであり、自分の為に義を行う事は間違った人生の歩みなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人が優しい人であったらどうなるであろうか。それは素晴らしい事であろうか。いや、決してそうでは無い。優しい者ばかりいたら、悪い事を注意する者がいなくなって、悪い事をする者がのさばるであろう。やっぱり、悪い事を注意する厳しい人間も必要なのである。同様に、すべての人が正しい人ばかりだったらどうなるだろうか。それは素晴らしい事だろうか。同様に、すべての人が優れている人ばかりだったらどうなるだろうか。それは素晴らしい事だろうか。答えは否である。悪い人も必要なのである。また、劣っている人も必要なのである。要するに、すべての種類の存在が必要なのである。例えば、我々人間は、酸素を吸って生きているが、すべての生き物が酸素を必要とする存在だったらどうなるだろうか。おそらく、酸素の量が足り無くなり、すべての生き物が死滅してしまうであろう。要するに、二酸化炭素を必要とする植物が存在して初めて、すべての生き物は生きて行けるのである。すなわち、同じ性質の物ばかりいては、偏りが出来て存在出来なくなるのである。要するに人間も、様々な性格の人間が存在して初めて、人間一人一人が生きて行けるのである。すなわち、ただ1つしか無い正しい真理などと言うものは必要では無く、むしろ、あらゆるすべての存在が必要なのであり、それを多様性と言うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

一神教の闇

ある人は言う。人類の歴史を紐解いて見ても、常に、争い事を引き起こしているのは、一神教を信奉している民族ばかりであると。それはユダヤ教徒であり、イスラム教徒であり、キリスト教徒であると。なぜ、一神教が争いを生むのかと言うと、それは自分達以外の神々を認め無いからである。すなわち、自分達、唯一神を認めている者達以外は、すべて異教徒として区別され、差別を生み出すからである。よって、彼ら以外の世界や文化や文明はすべて、自分達より野蛮であり、遅れていて、間違っており、私達が全世界に、自分達の、正しい神の教えを広めて、征服しなければならないと言う、選民思想が生まれるからである。そこには、一切の妥協案も無ければ、共存共栄の精神のかけらも無い。これこそが争いを生む原因であると。確かに、一神教の国々では無い、アジア地域では、宗教が原因で起こる争いというのは、珍しい事である。彼らの考えには、自分達の宗教観を世界に広げなければならないと言う、征服心や野心から来る義務感とか使命感は無い。すなわち、そこには、自分達の文化だけが一番正しくて、それ以外の諸国民の価値観なり、文化は自分達よりも劣っているという、相手を見下した考え方は無い。むしろ、日本人の様に、いろんな宗教に対して寛容で、結婚式はキリスト教会で挙げ、死んだ時には仏教で葬いするという、いろんな宗教が入り混じった、端から見たら、自分の信念など何も無い様に思える国も存在する。それでは、一神教は過激な思想に結びつくものなのだろうか。確かに、道を踏み外すと、自分達の価値観だけを押し付ける、非常に、排他的、閉鎖的な組織と成りかねない危険性は潜在している。しかし、ここで改めて、一神教の意味を考えて見よう。なぜ、彼らは1人の神だけを信奉するのか。それはもし、いろんな種類の複数の神々が存在しているとしたら、彼らは、各々互いに競い合って、争い事が絶えなかった、という歴史上の経験的反省があるからである。すなわち、皮肉な事に、争いを無くす為に、昔からあった多神教を廃して、ただ1人の神だけを崇拝して互いの民族同士の分裂を回避し、民を一致させよう、とする役割を果たして来た歴史上の事実があるからである。よって、一神教とは、使い方次第で悪くも成り、良くも成るという双刃の剣なのである。台所で使う包丁だって、人に向ければ、凶器とも成るし、食材を切る事に使えば、重宝するのである。これは今、アメリカで社会問題になっている銃社会のあり方とも重なっている。アメリカは昔からフロンティアスピリッツの精神で発展して来た国であり、自分の身は自分で守る、という自立精神、すなわち、フリーダムの信念が彼らを支えている。その精神がアメリカの銃社会の根底を支えており、この間から、何回も見聞きする、銃による無差別殺人事件が多発していても、銃社会の慣習が容易には変わらない事の要因である。すなわち、結論として、一神教の考え方も、銃社会も、それ自体が悪いのでは無く、それらが、悪用される事によって、悪いイメージだけが先行しているだけなのである。要するに、すべての事は使い方次第であるという事である。