高田義裕の人生論

今日の箴言

人にとって、人生は皮肉だ。なぜなら、若い時は、知恵や知識において欠けており、未熟である。しかし、知恵や知識や経験も増えて、物事の本質と全体をわきまえ知る様になる頃には、もはや、年老いて老人になってしまっているからだ。お金もそうだ。若い時は、給料も安く、お金が無いが、ある程度のお金が貯まった頃には、これも、年老いて老人になってしまっているからだ。どちらも、知恵も知識もお金も、若い元気な時こそ、使うべきなのに、現実はそれができず、年老いて元気も無く、頭や体が衰えてしまってから、それらのものがあっても、使い道が全く無くなってしまっているからである。

2.何事も、優位な立場にばかり居ては、本当に優位に立つことは出来ない。すなわち、子供の頃から、大人に成るまで、順調に出世街道を進んで来たエリート達には、世の中の事は、分からない。人は、あくまでも、本当に悔しい思い、惨めな思い、悲しい思いを味わって、そこから這い上がって来なければ、本当に世の中の事が分かる、人格的に幅のある優れた人物にはなり得ないからである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

健康な者には、病気の者の世界は、知り得ないこと。よって、健康な事は大事な事であるけれども、決して万能ではないこと。すなわち、健康な人の世界も、病気の人の世界も、両方知り得ている事が万能なのである。

2.真理とは、たとえ一回でも得れば、もはやそれ以上、二度と必要としないものであること。よって、偽りは、飽くことを知らないのである。例えば、隣人を愛する、という真理を学んだ者は、もはや二度とそれを学ばなくても、隣人を愛する事を忘れたりはしない。すなわち、隣人を愛することによって満ち足りるのである。しかし、お金を愛する者は、その収入に満ち足りる事が無い。まさに、飽くことを知らないのである。金は偽りであり、不義の富なのである。

3.常に正しい者には、悪い者の世界は決して知り得ない。よって、正しい事は、大切な事だけれども、決して万能ではないのである。すなわち、正しい者の世界も、悪い者の世界も、両方知り得ている事が万能なのである。

4.たとえ、自分が、どれだけ酷い目に遭い、最大の犠牲者となり、どれだけ屈辱を受けて低められようとも、また、たとえ身内の誰かが死のうとも、あなた自身が生きている内は、希望もあるし、救われる余地は、必ず残されているのである。

5.自分の栄光を増し加える者は、自分の苦悩をも、増し加えるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

もし、確かに、何の欠点も無い者に、自分のことを否定されたのであれば、それはもう、後は死ぬしか無いが、お互いに不完全で、罪深い、様々な面で欠点のある人間にたとえ、自分のことを悪く言われても、ぜんぜん痛くもかゆくも無いのである。そんなことは、気にするだけ損であり、人の事をあなたは言える立場にあるのか、と笑い飛ばしてしまえばいい。

2.互いに立場の低い者同士は、決して立場の低い者ではなく、自分より立場の低い者に対して、高慢に振る舞う者こそ、本当に最も低い者なのである。

3.愚かな者、弱い者は、それ故に、自分の限界をわきまえ知っている点で、賢い者であり、決して無理をしないから、自分の身を注意深く守っている。しかし、賢い者、強い者は、それ故に、自信過剰であり、自分の限界を知らない点で、愚かであり、知らずに無茶をして、自分の身を死に陥れるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

逆的意思表示として、本人が、ある事に対して、非常に恐れている場合、表面的には、それに対して非常に強く、かつ、非常に強気の姿勢を示すこと。また、人がある事で非常に自信があり、それに対して誇りの気持ちでいる事は、その強気の態度とは裏腹に、また別の事で、非常に弱く、脆くて怯えている無自覚の態度の裏返しであること。

2.人は、生活に恵まれて、多くの物を所有すればする程、保守的になり、守りの姿勢になって、新しいものに対して臆病になるのである。それに対し、何も無い者は、活動力と向上心に満ちており、常に革新的で、人生に対して、攻めの姿勢になり、何か新しいものは無いかと尋ね求め、勇敢で積極的になるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

賢くなりたければ、その逆に、最も愚かな者とならなければならないのであり、これが真の賢い知恵である。なぜなら、あなたがもし、上に届きたい時には、ジャンプをするであろう。ジャンプする時は、まず、下の方にかがんで弾みをつけるはずである。要するに、何かをする時には、まずその逆のことをしなければならないのである。しかし、大半の人は、それを知らず、ただ、それをひたすらするだけである。例えば、上に届きたい時、人はただ、上に背伸びをして上がろうとするが、それだけでは届かないのであり、いっぺん一番下までしゃがんで飛べば、上に届くのである。よって、富んだ者になりたければ、いっぺん極貧を味あわねばならないのであり、幸福になりたければ、いっぺん不幸にならなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たとえ最高善と、最高悪が存在して居ようとも、そのどちらも少しも経験する必要はないのであり、程よい善と程よい悪という平衡(バランス)の取れた範囲内で無ければならないのである。

2.はっきりと言っておく。およそ、この世界に、どの派にも属さない中立の立場や考え方や意見などというものは、存在しないこと。すなわち、意見を言うこと自体が一種の派閥であり、毒なのである。よってこの世界に存在するすべての意見や考え方には、何かしらの偏りが見られるのであり、決してすべてを包含するスマートで無害な思考など無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分の今いるこの世界は、実はリアルな現実ではなく、その外側に本当の世界がある、すなわち、本当の世界の中のシミュレーションゲームとして作られた虚構の世界が、私達が今いる世界なのだ、という事を否定できるであろうか。これは十分否定できない可能性を持っていると言える。それでは、実際はどうなのか確かめる方法を教えて見よう。もし仮に、私達の世界が、本当の世界に存在するコンピューターの中で作られた非常にリアルなシミュレーションだとする。すなわち、虚構世界の私達は、そのコンピューターの中で内面的自意識を持って生活をしている。そのその外側に本当の世界があり、その外部から私達は常に観察されており、それを私達が知ることはできない。しかし、それが事実だとしたら、その本当の世界の住人も、それより更に上の次元の本当の世界の人達のシミュレーションゲームの世界に過ぎない事を否定できるであろうか。いや、決してできない。なぜなら、自分達の世界が、あくまでも、シミュレーションゲームであり、絶対的世界ではなく、あくまでも、無限に存在する世界の一つに過ぎない、相対的存在なら、あらゆるすべての世界は、どれも特別なものではなく、その存在の位置付けは同条件となるからである。すなわち、虚構の中の、虚構の中の、虚構の中の第何回目かの虚構の世界のありふれたものに過ぎないからである。そこでは、無限にその操作は繰り返され続けてキリがないのである。要するに、本当の世界などというものが、どこまで行っても存在しないという事である。結論として、私達の世界は、本当の世界ではなく、非常にリアルに作られたシミュレーションゲームに過ぎないという事になる。しかし、こうも言える。私達の世界がAだとすると、次の世界はBであり、またその次の世界はCであるというふうに、A.B.C.D.E.F.G.H.I.J…………と無限に続いて行くが、それが無限個あるのではなく、あくまでも、有限個あるという考え方である。そうすると、いずれ一番最後の本当の世界は、一番最初の私達の世界に戻って来て循環しているという事になる。そうであれば、私達のこの世界は、本当の現実世界であるとも言えるのである。要するに結論として、私達のこの世界は単なるシミュレーションの世界であるとも言えるし、逆に本当の現実世界であるとも言えるのである。すなわち、どちらの見方も可能であるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間関係論

子供ではなく、成人してようやく分かって来た事は、人間、子供の時は、他の人が、自分に対して、アドバイスや、間違いを正すよう意見してくれる事が多かったけれども、いざ、大人になって見ると、歳を取れば取るほど、自分に不足している所を指摘してくれる人がいなくなっているという事である。これは、周りの人が、遠慮してあえて言わなくなるという事と、自分を大人扱いして、誰も、かまってくれなくなるからである。また、人は歳を取るにつれ、経験値が増えれば、また、プライドも高くなり、人の意見を素直に受け入れられなくなる傾向にあるのである。もし他の人から間違いを指摘されようものなら、自分のプライドが傷付いて、かんしゃくを起こして怒り出すに違いないのである。これではいつまで経っても、人は進歩せず、それどころか、片意地な人間と見なされて、人から嫌われてしまうのである。よって、人は、もし、他の人から何かの事で指摘されても、それに腹を立てず、ああ、この人は本当に、私の為に嫌われるのを承知の上で、勇気を持って私を正してくださった、と感謝の念を抱いて、自分の指摘された所を見直すという、心がへりくだった、謙遜な者になれるよう、日々努力すべきなのである。そうすれば、あなたは、意見してくれた人と仲良くなる事が出来るのであり、それによって真の友を得たのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、自分以外の身の周りにある物を増やし、富ますのでは決して無く、あくまでも、自分自身を富まし、増やさなければならないのである。

2.休息とは、あくまでも、常に2番目に位置するものであって、労した後に来るものであること。よって、休息が先に来ることは決して無いのである。

3.この世界で、何が最も苦痛を伴うエネルギーが必要なことと言って、間違いを正すという事ほど苦痛な事は無いのである。よって、たとえ、その人が明らかに間違っていたとしても、無責任に批判したり、咎めたりしてはならないという事であり、もし、どうしてもその間違いを指摘しなければならない場合は、指摘する側も、それを言うだけの覚悟と責任とを持って言わなければならないという事である。

4.隣人を自分自身の様に愛せたら、人と人の間に悪しき対抗心など決して起こるはずも無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近は、オスとメスという両極端な性質を、より、わざと強調することを良しとする、色気のフォルモンたっぷりの男女のカップルが多くなって来ているけれども、実際の男女の互いのあるべき姿と関係とは、その様な両極端さからは、抜け出た、バランスの取れた、中性で無ければならないのである。要するに、主イエスキリストにあっては、男は、女無しにあるのではなく、また、女も、男無しにあるのではないという事であり、それは、男女が、共にあくまでも、対等であり、どちらかが優勢になるわけでも無く、男女という観点(レベル)を超えて、あくまでも、一人の人という観点で物事を判断して行かなければならないのである。なぜなら、初めから、神は、人というものをお造りになったのであり、人とは、男と女の事であり、決して人とは、男を別にして女、女を別にして男のことを言うのではないからである。よって、今日、罪深い私達が、神の要求される人という基準に到達する為には、男女の区別無く、共に平等に、苦しい日々の戦いを戦い抜いて行かなければならないのである。