高田義裕の人生論

今日の箴言

何でも、一人でやらねばならないということは、自分は一人しかいないのに、それだけで、2、3人分の仕事を強いられるということを意味するのであり、これは人にとって本来、割に合わない理不尽で過酷な状況なのである。実際には、ある程度健康な人でも、その人が全くストレスを感じず、健康に生きて行く為には、数だけで言えば、100人のサポートが必要なのである。ましてや、心や体に障害を持った人に対しては、300人以上のサポートが必要とされるのである。それに対して、現実は、残酷以外の何ものでもないのである。要するに、私達がよく耳にする、(自分の身は自分で守るしかない)という教訓は、この世の中で生き残るための事実ではあっても、決して真理でも無ければ、美徳でも決してないということである。しかし、人は、この様に、自ら、避けえない逆境、もしくは、理不尽さに対して、その苦しみから精神的に少しでも楽になるために、それらのことを肯定化、もしくは、神聖化してしまう傾向にあるのである。これは死を美化し、肯定する哲学的思考にも見られるものである。そして更に、その残酷さに追い打ちを駆けるのが、利己的精神であり、それは自分は、一人分で十分なのに、それで満足せず、一人で10人分でも100人分でも持っていることである。この様な事が可能なのは、もちろん最初に述べた貧困層にある人々の、一人で何人分もの仕事を強いられる、あらゆる奴隷労働、過重労働に支えられているからこそ、初めて可能なことなのである。要するに人より何倍も所有している者はその人に全く自覚は無くても、世界中のほとんどを占める奴隷労働に対して加担しているも同然なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人が全く勘違いし易く、そうして、決して勘違いしてはならない最も重要なものの一つは、例えば、自分が他の人のしぐさなり、行動パターンを見て、彼は明らかにこうである、と解釈せざるを得無い様に見えても、他の人の事情は、全くそういうつもりではないということである。要するに、人は、自分の小さな価値基準を、すべてに通じる絶対的なものと無意識のうちに思い込んでおり、実際それをはるかに超える他の事実なり事情というものが全く見えていない盲目的状態であるということである。また、人は、自分以外の他の人がしている事に対して、傍観者になり、何か余裕がある偉い者であるかの様に楽に眺められるということなのである。しかし、もし、同じことを自分がしてみるならば、実際には、天と地との差ほどある全く別の事柄となり、いかにそれがそんなに甘くないものであるかということが分かるのである。要するに、頭でその事を何となく分かった様に思うことと、実際に自分でそれをやってみる事とは、全くの別物なのである。よって人は、何事も実際に行って見なければ何も分からない存在なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

過度に、他の人に批判的に陥るということは、自分の基準を絶対と考えており、それは、自らを良しとする、非常に自閉的で、他の人から自分を孤立させているのである。その最終的有様はどうなるかと言うと、その人が測り出しているその測りで他の人がその人を測り返し、自分が誇りとしていたその価値観で自らを損なうことになるのである。

2.結局、罪(sin)とは、広い意味でのマスターベーションであること。その最後は、自滅である。

3.不義な者にとって、むしろ、不義なことこそ、彼らを養う糧だったのである。よって、不義を否定することは、彼らにとって死を意味するということなのである。よって、聖書にある様に、この世界の終わりの日まで、不義を行う者はいよいよ不義を行う様に、と述べられているのである。しかし、それと同時に、義なる者はいよいよ義を行い、聖なる者はいよいよ聖なる者となりなさい、とも述べられているのである。

4.最初から何の罪も犯さず、義にかなっている者よりも、他の人の過ちを許す罪人の方がより勝っているのである。なぜなら、前者には、神に対する何の感謝も無いが、後者は、自分の罪深さを許してくださった神に対し、感謝の念で溢れている故に、他の人の罪深さも進んで許そうとするからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

[優れた洞察力]とは、次の定義である。他の誰とにでも、共に共有することの出来ない奇妙で珍しい事柄を思い付くことではなく、他の誰とでも、共に共有することの出来る事柄に関して、幅広い視野と注意力を持っていて、それらに気づくことである。

2.あなたに対する評価は、あなたの所有ではない。それは、他の人の所有である。よって、あなたの良いところは、自分の口で言うのではなく、他の人の口から出るようにせよ。

3.真理は存在するか、しないか、という命題は真理にふさわしくないのである。それよりも先に、真理には従わねばならない、という命題の方が先に存在するのである。例えば、真っ白な紙に絵が書かれていて、その絵が、真っ白な紙は存在するのか、しないのかと言うことと同じであるからである。要するに、自分が真理によって生み出されているのに、その真理の存在を疑っているという矛盾があるからである。すなわち、真理が存在するおかげで真理を否定することも初めて可能であるということである。

4.宗教での最も害悪となるものは、その宗教が、それを信じる者の心の内に、自分達だけの特権だという傲慢な強欲が芽生えることである。その間違った特権意識が、自分と他者を差別化し、独り善がりの独善に陥るのであり、自分は選ばれた特別な存在であると、優越感に浸り、それは段々と心を蝕んで行くのである。そうした精神状況から、一般人には到底考えられない殺人を正当化する欲望が生じて来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は、引き続き、自分達の理解力は働かせて行くけれども、自分達の理解力に頼るのを止めたのである。

2.真実さから来る実とは、次のものであり、真実さから出るものは皆、次のような様相を帯びてくるのである。それは、控え目であり、忍耐強く、冷静であって、激発的な怒りを発すること無く、温和であり、信仰があり、妬まず、協力的で、貞潔であり、他の人を愛する者であり、罵ったり、悪口や陰口を言わず、常に親切であることである。

3.偽りがすべて、見た目に、誰の目にも悪いものの様に映るとは限らないのであり、それは、悪魔サタンが、いつも自分を光の天使に見せかけている様に、偽りも、一見すると正しいものの様に映る場合もあるという事に注意しておかなければならない。要するに、それ自体、全く理にかなっていて、もっともな事柄であっても、それだけの理由でそれが真実であるとは、決して言えないということである。

4.はっきりと言っておく。人間の[狂気]の定義は次の事である。(人が神のようになろうとすること。)これが狂気の説明であり、具体的な本質である。よって、結論として、狂気=人が自分を神のようになろうと意識してそれを目指すこと、である。

5.はっきりと言っておく。私達は死人の復活に関して、死人が蘇るという奇蹟的な観点から述べているのではなく、あくまでも、失われたものを再び取り戻すという観点から論じているということである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

はっきりと言っておく。神エホバに関する知恵について、自分の性分に合っているからという理由で、神の知識に好意を持っている者は、いざ、厳しい試みを受けた時に、結局は、自分は神の知識を求めてはいないと、自分で言うであろう。すなわち、真に神を求めている者しか最後には、救われないのである。現代は、聖書のヨハネの黙示録16章16節にある通り、ハルマゲドン体制下にあるからである。この世の中は、間も無く神の裁きによって終わりを迎える最後の審判を迎えようとしているのである。大いなる神御自身が、天から降りてこられたのである。神の日は、地上に住む人類にとって喜ばしいものとはならない。それは処断の日であり、苦悶の日であり、苦しみの激痛となるであろう。間も無く、地上には、世界規模での大患難を迎える。そこでは、強い勇敢な者でも苦痛のあまり叫び声をあげるであろう。それは盗人のように、人類に突然に降りかかるからである。人々は苦痛のあまり、自らの舌を噛み始め、死のうとするであろう。しかし、彼らは死にたくても、死ぬことはできず、死は彼らから逃げて行く。よって、私は警告する。神の裁きが来ない内に、エホバを求め、柔和を求め、神を畏れよ。そして、不義を捨て、義を行い、平和を追い求めよ。キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も、同じ旧約聖書を信仰する啓典の民ではないか。あなた方の神は同じであり、ただお一人の神なのである。民よ、互いに一致せよ。争っていてはならない。現在、世は混沌としており、闇の中にある。今まさに、聖書の創世記1章3節にある通り、神は、光が生じるように、と言うであろう。そうして光があるようになるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

初めから死すべきものとして設計され、造られた生き物は、生きているうちから、死を意識しない性質を付与されている。要するに、自分がいずれ死すべきものである事を知らないのである。例えば、ライオンや牛や犬は、自分はいずれ死ぬのだ、と言って嘆き、泣くだろうか。いや、決してそんな意識や自覚は有していない。それに対し、人間は生きているうちから、自分達がいずれ死ぬ事を知っている。また、どうすれば死ねるかの方法も知っているのである。すなわち、自分がいずれ死ぬことを意識している、もしくは、自覚しているという事は、本来なら、初めから、死すべきものとして設計され、造られていないという事を意味しているのである。よって、死ぬ事を知っている事が人間は本来なら死なないという事を逆証明しているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

今の時点での自分の判断が、自分の考えからのものか、神エホバからのものであるかの区別は次の事から明白である。すなわち、その判断によって、一つの事にしか役に立たない場合は、それは自分だけの考えであり、その判断が予想外の他の関係にも益が及ぶ場合には、それは神エホバからのものであるということである。要するに、一つの状況に対して一つの手段しか揃える事が出来ないものは、常に部分的なものであり、自分という限られた視野でしか物事を見れないということである。それに対し、一つの状況に対して10や20以上もの手段を揃えることができるということは、常に全体を見渡せる優位な立場で物事を操作できることを意味し、その様な事ができるのは神エホバしかいないからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真のキリスト者にとって、反対や迫害は避けて通れない。なぜなら、ある程度の迫害を受けない限り、真に神に忠実であるかは、推し量ることが出来ないからである。よって、迫害のない忠実さは、既に忠実ではないのである。なぜなら、迫害が、私達を本当に試し、試練によって、私達は精錬され、ふるいにかけられるのであり、その時にこそ、初めて自分の神に対する信仰の質が明らかにされるからである。

2.自分自身は、たとえ苦しまなければならないとしても、守るべきものである。ましてや、真理はたとえそれによって苦しまなければならないとしても、更に守るべきものである。なぜなら、それは真理であり、それは自分自身より勝っており、自分自身は真理によって生み出されているからである。

3.神エホバ以外に、この世の中の物質上の富や、自分の能力を追求し、富もうと思い定めている者は、エホバ神を少しも信頼していないのである。

4.自分達の内にある、淫らな性的欲情と貪欲な物質欲と偶像崇拝とを、ことごとく捨て去りなさい。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どれでも良い、ということが、どれだけ人を堕落させ、怠惰にさせるかということに対し、これしか無い、ということが、どれだけ人を真剣にさせ、人を真面目にしてくれる、強力な力となることであろうか。

2.ほとんど言えることとして、能力のある者は、必ずと言っていいほど、それを悪用して、異性を惹きつけることにそれを集中したがるのである。

3.的を得た正しい解答は、同じく、的を得た正しい質問によって得られるのである。よって私達は、質問さえ吟味しなければならないのである。

4.何にせよ、飽くことを知らない事柄は、皆、有害である。

5.努力し続ける、守り続ける、維持し続ける間だけが価値があるのであって、努力しないでも、そのままで価値のある存在など決してないのである。なぜなら神エホバでさえ、[とこしえに忠実なる方]と呼ばれる様に、ご自身で決められた高い基準に自らも、永久に従っておられるからである。