高田義裕の人生論

今日の箴言

悪行者の行う、取り返しがつかない程の深刻な悪事は、必ずと言っていいほど、取るに足りないほど、幼稚で身勝手な動機によって引き起こされること。逆に、義者の行う善行は、必ずと言っていいほど、他者からは、信じられないほど深刻に覚悟を決めて行う真剣な気持ちと言う動機によって成されていること。要するに、本当の義者は、人に何か親切な事をして、自分で親切にしてあげた、と自己満足して、悦に浸るという事がどういう事かを知らないのである。すなわち、自分は良い事を行ったのに、自分は報われないなどと言う不足を味わう感情を持ち合わせていないからである。しかし、凡人は、これだけしてやったのに、何も報われないと感じて、親切を行うのは割りに合わないと考え、親切を止めてしまうのである。ここに、義者と普通の人との格差が生じるという事である。

2.奪うという定義は、相手に、ちょっとの事をしてあげて、その代わりにその倍以上の事を要求する態度の事を言うこと。

3.何かに病的だと言えるほどに優れて秀でている者は、その代わりに、何か別の事に異常なまでに病的なこと。よって、天才と呼ばれる人は、心理学的に言えば、精神状態がバランスの取れていない、偏りのある人格障害を抱えており、実際には本当に賢くて、優れている訳では決して無いという事なのである。よって、何の取り柄も無い、凡人と呼ばれる人は、心理学的に言えば、精神状態がバランスが取れており、何の偏りも無い健常者であると言う事になる。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間関係において、優れた者が好かれるのでも無く、また、劣っている者が嫌われるのでも無い。ただ、素直で無い者だけが嫌われるのであり、ただ、素直な者だけが好かれるのである。

2.人と仲良くなるのは、多くの時間と、多くの出費と、多くの忍耐と、多くの心遣いとが必要だが、逆に、人と仲たがいするのは、ほんの一瞬で出来るほど、た易い事なのである。これは、人を生かし、育てるのは難しいが、人を死に至らせるのは、非常に一瞬で、た易い事と同じである。また、正当のルートに従って、段階をきちんと踏んで、あるものを得る事は難しいが、不当に無理やりに、奪う事は、全く、た易い事なのである。

3.へつらいや、互いの利益に係わる豪華な贈り物を受け取る事よりも、ふとした親切や、時宜に適った行いで受ける、ほんの小さな褒め言葉や、些細な思いやりを受ける時の方が、真の豪華で価値ある贈り物なのである。それは、ふと年若い少女が、年上の青年に対して、ほのかに抱いた純粋な感謝と好意の心によって、道端に咲いていた一輪の花を、恥ずかしながらも、彼に差し出す様なものだと思う。

高田義裕の人生論

今日の箴言

およそ、義に適う事が、人間の最大の目標だと思う事があるかもしれないけれども、確かに、聖書には、自己自制や良い行いについてそれを行うべきであると書かれてあるのには違い無いが、必ずしもそれを最終目的にせよ、と書かれてある訳では決して無いという事である。すなわち、神は最初から、人間達に少しも良い行状を示し求めている訳でも無ければ、より立派で、より規準の高い、義のレベルに到達するよう要求しておられる訳でも決して無いという事である。人間を含めたすべての生きとし生けるものとは、その性質上、本来ただ自己欲求を満足させるだけの存在であり、それ以上立派でも無ければ、それ以上愚かである訳でも無いのである。よって、あくまで、生き物の世界にあるのは、自分の当然の欲求を不当に、不自然にも抑圧したり、我慢したりする事では無く、ただあるのは、互いの全く同等の立場である人間同士を尊重し合い、ギリギリのラインである、話し合いで、互いの協定ライン、もしくは妥協ラインを決定して行くコミュニケーションの営みの繰り返しだけなのである。そこに何が正しくて何が悪いかなどという立派な議論など入る余地も無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本当に真っ直ぐなものは曲がって見え、本当に曲がっているものは、真っ直ぐに見えること。また、角ばっているものは丸く見え、丸いものは角ばって見えること。また、大きいものは、小さく見え、小さいものは大きく見えること。また、正しいものは間違って見え、悪いものが正しく見えること。また、強いものは弱く見え、弱いものは強く見えること。また、賢い事は愚かに見え、愚かな事が賢く見えること。すなわち、すべてに対して言える事は、何かを行ったり、見たり判断したりする為には、自分が見える事の逆をすれば良いという事である。これはなぜかと言うと、物事の本質、もしくは、真実、真理というものは、私達人間とは真逆の関係にあり、私達人間とは、それだけ、物事を浅くしか見えない存在だからである。よって、私達人間にとって、すべての事は、想像以外であり、思いもよらない所にあるのである。この真理を常に、わきまえていれば、あなたの人生は、順調に進むであろう。なぜ、人間の思い通りに物事はなっていないかと言うと、人間、何事も自分の思った通りになったら、誇りの気持ちが育って、傲慢になるからである。要するに、物事は常に、私達人間の思い通りにならないようにされている事によって、私達が傲慢にならずに、常に、控え目で、その態度が謙虚に保たれられるように意図してそうされているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、少しの喜びを得る為には、まず先に、必ず、少しの傷みを味合わなければならないこと。よって生まれ変わるほどの新しい喜びを得る為には、まず先に、必ず、死にたくなるほどの傷みを経験しなければならないのである。よって、人は、死ぬほど、刺激的な快楽を味わいたければ、必ず、死ぬほど苦しい傷みを覚悟しなければならない。すなわち、快楽だけを得て、苦しみは避けたいという虫のいい考えは通用しない。快楽と激痛は、それでワンセットのものである事を肝に銘じよう。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本当に勇気のあることで強いということは、ともすれば、状況が非常に切迫していて、十分な準備が整っていない下でも、それに対して冷静さをあくまでも保ち、全力を尽くす精神力の事、あるいは、どんなに自分の不利な立場や逆境に立たされても、それに立ち向かえる強い忍耐力や能力や資力を自らの手で培い、それに対処する自発的な行動力の事であると思われがちである。しかし、実際には、逆説的ではあるけれども、それらは本質的に言えば、自分の弱さ、臆病さの別の形への変化の表れであって、自分にある弱さを解決せずに、むしろそれを巧みに隠そうとする一種の過剰反応の事なのである。よって、真の強さ、もしくは、本当の勇気とは、自分にある弱さを無視する事では無く、むしろ、それを直視し、それをありのままに受け入れる事の出来る平常心の事を言うのであり、傷みを何とか紛らわそうとするのでは無く、むしろ、傷みと共に生きて行こうとする辛抱強さにこそあると言えるのである。またそれは、言い換えれば、自分の一番大事で肝要な部分を、相手の手中に委ねる、もしくは、自分の最も触れられたく無い、知られたく無い、見られたく無い、醜くて弱い部分を、あえて相手に晒すという事なのである。すなわち、要約するなら、誰もがしたく無い事をあえて自分がしようとする態度の事を言うのである。まさにこれこそ、真に勇気があり、最も強いという事の定義であり、これが唯一、自分の弱さを解決するやり方なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人にとって、人生において、与えられている時間と力の量は同じである。すなわち、可能性の条件は等しい。すなわち、全く無駄でくだらない、ダラダラとした時間を過ごしていたとしても、その後から楽した分だけのツケを必ず払わされる事になってしまう。すなわち、日々、苦しくても、勤勉に働き続ける者は、いざという逆境(冬)の時の為の蓄えが出来ているのであり、その後から苦しんだ分だけの良い報いを必ず受ける事になるのである。

2.物事の真実として、何事もそれに徹すれば、そんなに辛く無いと言う事である。例えば、恥ずかしい目に遭っても、それを真正面から素直に受け入れ、自分は恥ずかしい事をさらけ出してそれに徹すれば、それは端から見て、本人が思うほどには、恥ずかしく無いものなのである。むしろ、恥ずかしい事や、びっくりした事に対して、真剣にでは無く、中途半端に対応したりする時、それは本当に端から見ていられ無いほどに恥ずかしくて、みっともなく、シラけてしまうのである。

3.クリスチャンの歴史は、迫害の歴史であると言える。また、クリスチャンの信仰の試みの歴史は、あらゆる残酷な拷問の実験台の歴史でもあったのである。よって、クリスチャンと迫害は必ずそれでワンセットのものであり、人は厳しい迫害を受け入れるほどの覚悟が無くて、ただ甘くて軽い考えや、動機だけで真のクリスチャンになる事は、初めから無理な事であるのである。しかし、全く真実な事として、全く浅はかで自分の意志からでは無く、外部からマインドコントロールされた病的な思い込みは、(これを本人は真の信仰だと思っている)他の人を殺す事を平気で行い、必ず、そのエネルギーの方向は、破壊的、破滅的、非建設的なマイナス方向に向かうのである。そう、殺人を正当化するのである。よって殺人は、如何なる理由があっても正当化する事は出来ない。これが真理であり、間違った宗教は、自分達の宗教観念の為なら、人を殺す事も辞さないのである。これに対して、全く真実に、その動機付けが、外部から強制されたものでは無い、自発的、自然的なものであり、本当に健全な正しい思いは、たとえどんな反対を受けても、それを止めないと言う方向にだけ、エネルギーが行くと言う事なのである。すなわち、真の信仰は、どんな迫害にも耐えられると言う事である。しかし、真の信仰では無い、間違った思い込みは、むしろ迫害に耐えられるものでは決して無いのである。なぜなら、それは所詮、間違いだからである。こうして、私達は、真の信仰と偽りの信仰とを区別する事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

逆双方向性原理

ある任意の事柄Xにおいて、そのXを成り立たせる場合は、その逆の−Xをも成り立たせなければならない。よって、一般形X=X(−X)である。

事例1. あなたは車を実際に運転する時にはどうしているだろうか。いや、もっと簡潔に言えば、前に進むと言う事柄は何を意味しているか。そう、アクセルだけでは無く、ブレーキも踏んでいるのでは無いだろうか。すなわち、アクセルをXと置くと、ブレーキは、−Xである。現実に進む為には、進むだけでは駄目で、止める事も必要不可欠なのである。よって、一般形X=X(−X)にこれらを代入すると、進む(アクセル)=アクセル(ブレーキ)、もしくは、進む=進む(止める)なのである。よってすべての事象に対して、ある事柄を存在させる為には、その逆をも存在させねばならない。または、ある事柄が存在する時、その逆の事柄も同時に存在すると言う事である。これを逆双方向性原理と言う。そう、数学は、互いに矛盾する事を成り立たない事と考えるが、すべての物事は矛盾で成り立っているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

美しさとは何か。それは美女の様な綺麗さの事では無い。それは、自分の事を悪く言った人の事を快く許す心の事であり、苦しんでいる人々に、喜んで助けの手を差し伸べる行動力であり、人々から蔑まれている者を、自分は蔑まずにむしろ、喜んで愛する気持ちの事である。それが人にとっての真の美しさである。よって、ただ単に容姿が美しい者は、大勢いるが、真の美しさ、すなわち、心の美しさを持った者は遥かに少ないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分には何の値打ちも無い、と言うことが出来る間は、まだそう言うだけの余裕があり、恵まれていると言えるのである。また、自分はもう駄目だ、と言う事が出来る間は、まだそう言うだけの余裕があり、恵まれていると言えるのである。

2.良い人間に成ろうとする事は、確かに立派な事だが、むしろ、自分の悪い所を見せる事の方が、より偉大であること。すなわち、自分を良い人間に見せるより、自分のありのままを見せる者の方が、皮肉にも、人から信用され、好かれること。要は、立派になる事に努めるよりも、素直で正直である事が人間にとって一番大事な事であり、すべてであること。