高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、自分の考え、自分の理解に頼れば良いのならば、神に祈ることなど、初めから必要無いのではありませか。日頃、注意して見れば分かる様に、真の神の崇拝者は、事あるごとに、祈ることを求められていますが、偽りの教理は、度々しか祈らないのです。しかも、神に対して、自分の言葉で祈ることを許さず、一方的に強要され、もったいぶった、祈る者にも理解出来ないような呪文のようなものによってです。それは本当は、偽りを隠す為の、真実味があるように思わせる目くらましでしかないのです。しかし、今、誰であっても、自分の言葉によって祈ることを許しておられる、また祈ることのできる、真の神エホバとは、何と真実で偉大な方なのでしょう。まさに、感謝すべきことです。

2.良いことが、一人歩きしているのではなく、すべて良い事柄は、エホバ神から出るのです。よって、単に良いことをしても、上手く行きません。なぜなら、それは神から出ていないからです。例えば、すべての宗教は、善行を重んじていますが、それを行う動機が、神からのものでなければ、意味を成さないのです。すなわち、どんなに良い事柄であっても、その動機が人からのものであれば、それには何の力もありません。しかし、神を愛する故に、善行を行うなら、それには力があるのです。よって、あなた方は、神を動機として、互いに親切にし、愛し合って行きなさい。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は、自分で創りだした事柄についてのみ、真実を知ることができる。それでは、誰が真理を知ることができるのか。それは神である。なぜなら、神が真理を形造ったから。また、人間を本当に理解できるのは、誰か。それは神である。なぜなら、人間自身を造ったのは神だから。よって人間は人間のことを最後まで理解出来ないのである。よって、人間ではなく、神が創りだした世界には、人間の

到達し得ないものが最後まで残る。この大いなる残余を感じながら、我々人間は常に謙虚でなければならない。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間の本性とは、いつ明らかになるかと言うと、他の人の目や、影響力の無い、1人でいる時の、密かな時間の時に、その人が密かに行う事柄によって明らかにされるという事である。

2.御子イエスキリストを、私達の為に犠牲として与えて、自らが多大な犠牲を払われた神エホバほどの方が、この世を裁く動機として、苦々しい憎しみや、傲慢な優越感や、激発的な怒りに任せて裁くはずが無いのである。この世を裁く神の動機とは、裁くことによって、この世が救われる為なのである。

3.神の良識は、人間の良識の及ばぬ時もある。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は常に、その時に応じた成長をしていかなければならない。すなわち、人が、子供のときには、子供は子供と交わらなければならないし、人が若者になった時には、若者は若者と交わらなければならないのである。鉄が鉄を研ぐように、人が人を研ぐのであり、子供が、青年と交わっても、若者が年寄りと交わっても、それ自体は、たとえ楽しくても、それでは人は、成長しないのである。要するに、子供を研ぐ者は同じ子供であり、若者を研ぐ者は同じ若者なのである。

2.私達人間にとって、イチから形造ってゆく事が、私達人間の生き方なのでは、決して無く、既に与えられている事に関し、感謝の念を示して、それを活用していく事が、私達人間の生き方なのであり、私達人間の生きるという本質なのである。すなわち、私達の命は、私達自身がイチから造ったものではなく、神から与えられたものであり、私達はその与えられた命に感謝し、その与えられた命を充分に活用して生きていくことが、私達人間の使命なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

万物の創り主であり、全能者であり、唯一、真の神エホバに、自分自身の思い煩いをすべて委ねるという事は、一度神に頼ったからには、自分は、もはや、それに対して思い煩わないという事を意味するのである。それはまた、自分の問題を、自分の能力によって、対処しよう、解決しようとしないという事である。

2.むしろ、人は、生きていく上で、率先していくよりも、何事にも忠実であることによって、学ぶことが多いのではないだろうか。

3.益にならないとは、それは、そのまま有害であることと同一である。

4.自己満足の神と、真実の神との決定的な違いはこれである。すなわち、前者は、一つのことから一つしか生み出せないが、後者は予想外の益も生じるという、一つから2つも3つも得る事が出来るという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真の公理とは、何物にも付随せず、初めも無く、終わりも無く、何ものからも生まれたものでは無い、真理そのものであること。

2.初めも無く、また終わりも無いということは、それはまた、初めでもあり、終わりでもあるということを同時に満たす。

3.神エホバは、αであり、Ωであり、最初であり、最後であり、その初めも無く、その終わりも無く、その初めであり、その終わりであること。すなわち、神は真の公理であり、真理であること。

4.最近、人間について、まだ想像もしていなかった新たな発見とは、他の人は私にとって、達し難い不可抗力と言って良いほどの素晴らしい能力を、ごく平然と持っていたということである。よって、今まで私は、人と人とは、同じ一線上で優劣を比べられると思っていたが、それはとんでもない勘違いだったのである。人と人とは、もともと比べられないし、比べる対象ではないのである。これはまるで、同じ魚でも、イワシとマグロはどちらが優れているのだろうか、と問うようなものだからである。たとえ、同じ魚という種類であっても、イワシはイワシ特有の、マグロには無い不可抗力的な見事な能力を有しているし、マグロもマグロ特有の、イワシには備わっていない不可抗力的な見事な能力を有しているのである。また逆に、イワシはイワシ特有の弱点を持っているし、マグロはマグロ特有の弱点を持っているのである。これでイワシとマグロは全く別の生き物であり、同じ一線上で優劣を比べられる基準など存在しないのであり、もともと比べる対象ではないのである。同様に、同じ人間という種類であっても、一人一人は、全く別の生き物なのであり、同じ一線上で優劣を比べられる基準など存在しないのである。よって人は、もはや、自分と他の人を比べて、自分の方がより劣っているとか、自分の方がより優れているとかという考え方はせずに、自分が生まれながらに既に与えられている、また、自分が今既に持っている能力だけに、気持ちを集中して、その能力を磨く努力に全力を傾けるべきであり、また、自分が生まれながらに既に持っている弱点を少しでも直そうという努力に全力を傾けるべきなのである。そうすれば、自分を他の人と比べて、劣等感を持って苦しんだり、自分と他の人を比べて、独り善がりの、間違った優越感も抱くことが無いよう保護されるのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書の主張は、どんな時でも、論証もしくは、説得の言葉によって訴えているのでは決して無く、人々の良心、良識、常識、正常心に訴え続けているのである。

2.聖書の主張は、どんな時でも、人々に強要する為に書かれているのでは決して無く、人々に推薦し、懇願しているのである。

3.経験的に言って、エゴイズムを育てる培養土は、怠惰さである。よって、エゴイストは、基本的に怠惰な者達であるのである。

4.人の人生とは、つつがなく、その場限りの、全力を出していない、その時だけを取り繕うとする態度で取り組めるものでは決して無く、まさに、自分のプライドも、誇りも、余裕も全く無く、常に、必死で、全力で、本気で取り組まなければならないものだったのである。

5.人生を生きていく上で、物事を単純に好きか、嫌いかだけで決めて行動していないか。世の中はそんなに単純で甘いものではない。すなわち、すべての現象を、全肯定したり、全否定したりするのではなく、また、あるものは好きだから、という理由だけで拾ったり、あるものは嫌いだから、という理由だけで捨てたりしては、人生を狂わせ、破滅させてしまうのである。よって、すべての現象に対して正しく生きる為には、(あらゆるものは使い方次第である)という態度を持つべきである。例えば、Aさんという人は、自己主張が強いから、私は嫌いだ、とAさんは悪い人と、決めつけるのではなく、また、Bさんという人は、おとなしいから、私は好きだ、とBさんをいい人と、決めつけるのではないのである。正しい見方は、あらゆるものは使い方次第なのであるから、AさんもBさんも、どちらも自分の都合の良いように利用するのである。すなわち、確かにAさんはわがままだけれども、その代わりに悩み事を話しても、それを他の人に言い広めたりしない。だから、Aさんは自分の悩みを聞いてくれるカウンセラーとして、キープしよう。また、Bさんは優しいけれど、その代わりに個人情報をツイッターで書き込んで他の人に広めたりする傾向にあるから、Bさんには、個人的な事柄は話さないようにし、その代わりに、普段仕事をする時はBさんは、何も言わないから、一緒に仕事をする時だけのパートナーとしてキープしよう、などというふうにするのである。こうすれば、誰が味方か、敵か、という浅はかな論理で自分の生活を振り回すのでは無く、すべての人と利害の一致により、仲良く出来るのである。これこそが知恵の道である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界は、利害の一致によって成り立っているように思えるが、実際には、損得を度外視した、利他的愛の一致によって初めて成り立っているのである。確かに、人間の社会は、非常に利己的で、損得の勘定で動いているが、それらを支えているのは、損得抜きに私達人間に、美味しい果物や野菜や穀物を与えてくれている地球の大自然の恩恵なのである。私達はこの自然界から、奪い去ってはいても、決して何も与えていないのてある。なぜなら、人は森林地帯を野焼きにして畑を作り、生活していけているのであり、自然界から、石炭や石油を抽出し、それを利用して生きているのであり、ただ自然界から奪いはしても、自然界に対して何の恩返しもしていないのである。それどころか、自分達が貪欲に儲ける為に、自然環境を破壊し、産業廃棄物を垂れ流しにしているのである。昨今の、世界規模で起きている自然災害は、皆、私達人間社会が引き起こしたものなのであり、自然からシッペ返しを受けているのである。要するに、悪が悪を支えることはできず、善が犠牲となって悪を許容しているに過ぎないのである。すなわち、悪とは、相手から奪い取ることを意味しているのであり、義とは、価なしに貴重なものを与え続けることを意味しているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真に、自分の意志を持って、ポリシーの元に生きている人間達は、しっかりと地面に根を下ろしている稲穂にも例えられる。これに対し、信念を持たない、自分の意志を持たず、その時その時の状況の変化によって、右往左往する人間達は、不穏に変化して止まない海の波にも例えられる。

2.論証、または、論理とは、誇り、ひいき、甘え、好奇心、貪欲、ご都合主義、栄光、名誉、傲慢、推察、仮定、憶測、傾いた見方、身内ウケ、などの不純物を一切取り除かれた上で、筋道を立てて考え、順序正しく築き上げて行った後に、結論出される事柄の過程のことを言う。

3.自分は、何でもできるという非現実で、不実な考え方から、自分はできる時に、自分のできる限りのことを行うという現実的で謙虚な考え方に、変えなければならない。

4.自分が本気で、何に取り組めば良いのか、判断しかねる時に、それを判断する為の良い方法として、自分が極限状態に置かれたことを仮定してみると良いのである。例えば、この後、自分の余命が幾ばくかで、長くは生きられないという状況になった場合を想定して見て、取り敢えず、一ヶ月ほどは、何か一つだけ自分のしたい事が出来る期間が残されているとする。そういう立場に立った場合、自分は果たして何を行うだろうか推論して見れば良いのである。その時に、思い付く事柄が、自分が今、本気で取り組むべき事柄であるはずである。

5.人の、その時の気分の高揚の高まりによって衝動的に語った事柄は、全くの推論の域を出ないものであり、私達は、常に冷静に、真実な事にのみ、耳を傾けるべきであるし、また、真実な事にのみ信頼を置くべきなのである。よって、大げさに語る者は、自分の能力以上の事を、無責任にも語ったのであり、せん越にも、不遜にもそれを語ったことになるのである。そのようにするよりは、何も語らない方がまだ良いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

相手が、明らかに悪いと判断出来る場合でも、相手のことを裁かないことが、人が人を裁くことは出来ないという意味である。

2.実は、劣等感と虚栄心とは、表裏一体である。

3.部分が、全体を駆逐することは出来ない。そうするには、こちら側も、全体で対処するか、もしくは、全体よりさらに大きい全体によって、すなわち、全体を部分と見なせる程の、さらなる全体によって、全体を征服してしまうかの2つの方法しか無いのである。

4.単なる罪人は、何の意味も成さないが、悔い改めた罪人は、以前罪人であったその経験の故に、その欠点が、今では、その人にとって、何事にも代え難い貴重なポリシーに変化するのである。そのように、ある欠点を持った人間がそのままであれば、それはその人にとって欠点のままで終わるが、ひとたび、その欠点に気付いて理解を示し、それを努力して悔い改めた時、初めて、自分と同じ欠点を持つ他の人の気持ちを許すことのできる、立派な人格者となるのである。