高田義裕の人生論

今日の箴言

[優れた洞察力]とは、次の定義である。他の誰とにでも、共に共有することの出来ない奇妙で珍しい事柄を思い付くことではなく、他の誰とでも、共に共有することの出来る事柄に関して、幅広い視野と注意力を持っていて、それらに気づくことである。

2.あなたに対する評価は、あなたの所有ではない。それは、他の人の所有である。よって、あなたの良いところは、自分の口で言うのではなく、他の人の口から出るようにせよ。

3.真理は存在するか、しないか、という命題は真理にふさわしくないのである。それよりも先に、真理には従わねばならない、という命題の方が先に存在するのである。例えば、真っ白な紙に絵が書かれていて、その絵が、真っ白な紙は存在するのか、しないのかと言うことと同じであるからである。要するに、自分が真理によって生み出されているのに、その真理の存在を疑っているという矛盾があるからである。すなわち、真理が存在するおかげで真理を否定することも初めて可能であるということである。

4.宗教での最も害悪となるものは、その宗教が、それを信じる者の心の内に、自分達だけの特権だという傲慢な強欲が芽生えることである。その間違った特権意識が、自分と他者を差別化し、独り善がりの独善に陥るのであり、自分は選ばれた特別な存在であると、優越感に浸り、それは段々と心を蝕んで行くのである。そうした精神状況から、一般人には到底考えられない殺人を正当化する欲望が生じて来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は、引き続き、自分達の理解力は働かせて行くけれども、自分達の理解力に頼るのを止めたのである。

2.真実さから来る実とは、次のものであり、真実さから出るものは皆、次のような様相を帯びてくるのである。それは、控え目であり、忍耐強く、冷静であって、激発的な怒りを発すること無く、温和であり、信仰があり、妬まず、協力的で、貞潔であり、他の人を愛する者であり、罵ったり、悪口や陰口を言わず、常に親切であることである。

3.偽りがすべて、見た目に、誰の目にも悪いものの様に映るとは限らないのであり、それは、悪魔サタンが、いつも自分を光の天使に見せかけている様に、偽りも、一見すると正しいものの様に映る場合もあるという事に注意しておかなければならない。要するに、それ自体、全く理にかなっていて、もっともな事柄であっても、それだけの理由でそれが真実であるとは、決して言えないということである。

4.はっきりと言っておく。人間の[狂気]の定義は次の事である。(人が神のようになろうとすること。)これが狂気の説明であり、具体的な本質である。よって、結論として、狂気=人が自分を神のようになろうと意識してそれを目指すこと、である。

5.はっきりと言っておく。私達は死人の復活に関して、死人が蘇るという奇蹟的な観点から述べているのではなく、あくまでも、失われたものを再び取り戻すという観点から論じているということである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

はっきりと言っておく。神エホバに関する知恵について、自分の性分に合っているからという理由で、神の知識に好意を持っている者は、いざ、厳しい試みを受けた時に、結局は、自分は神の知識を求めてはいないと、自分で言うであろう。すなわち、真に神を求めている者しか最後には、救われないのである。現代は、聖書のヨハネの黙示録16章16節にある通り、ハルマゲドン体制下にあるからである。この世の中は、間も無く神の裁きによって終わりを迎える最後の審判を迎えようとしているのである。大いなる神御自身が、天から降りてこられたのである。神の日は、地上に住む人類にとって喜ばしいものとはならない。それは処断の日であり、苦悶の日であり、苦しみの激痛となるであろう。間も無く、地上には、世界規模での大患難を迎える。そこでは、強い勇敢な者でも苦痛のあまり叫び声をあげるであろう。それは盗人のように、人類に突然に降りかかるからである。人々は苦痛のあまり、自らの舌を噛み始め、死のうとするであろう。しかし、彼らは死にたくても、死ぬことはできず、死は彼らから逃げて行く。よって、私は警告する。神の裁きが来ない内に、エホバを求め、柔和を求め、神を畏れよ。そして、不義を捨て、義を行い、平和を追い求めよ。キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も、同じ旧約聖書を信仰する啓典の民ではないか。あなた方の神は同じであり、ただお一人の神なのである。民よ、互いに一致せよ。争っていてはならない。現在、世は混沌としており、闇の中にある。今まさに、聖書の創世記1章3節にある通り、神は、光が生じるように、と言うであろう。そうして光があるようになるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

初めから死すべきものとして設計され、造られた生き物は、生きているうちから、死を意識しない性質を付与されている。要するに、自分がいずれ死すべきものである事を知らないのである。例えば、ライオンや牛や犬は、自分はいずれ死ぬのだ、と言って嘆き、泣くだろうか。いや、決してそんな意識や自覚は有していない。それに対し、人間は生きているうちから、自分達がいずれ死ぬ事を知っている。また、どうすれば死ねるかの方法も知っているのである。すなわち、自分がいずれ死ぬことを意識している、もしくは、自覚しているという事は、本来なら、初めから、死すべきものとして設計され、造られていないという事を意味しているのである。よって、死ぬ事を知っている事が人間は本来なら死なないという事を逆証明しているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

今の時点での自分の判断が、自分の考えからのものか、神エホバからのものであるかの区別は次の事から明白である。すなわち、その判断によって、一つの事にしか役に立たない場合は、それは自分だけの考えであり、その判断が予想外の他の関係にも益が及ぶ場合には、それは神エホバからのものであるということである。要するに、一つの状況に対して一つの手段しか揃える事が出来ないものは、常に部分的なものであり、自分という限られた視野でしか物事を見れないということである。それに対し、一つの状況に対して10や20以上もの手段を揃えることができるということは、常に全体を見渡せる優位な立場で物事を操作できることを意味し、その様な事ができるのは神エホバしかいないからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真のキリスト者にとって、反対や迫害は避けて通れない。なぜなら、ある程度の迫害を受けない限り、真に神に忠実であるかは、推し量ることが出来ないからである。よって、迫害のない忠実さは、既に忠実ではないのである。なぜなら、迫害が、私達を本当に試し、試練によって、私達は精錬され、ふるいにかけられるのであり、その時にこそ、初めて自分の神に対する信仰の質が明らかにされるからである。

2.自分自身は、たとえ苦しまなければならないとしても、守るべきものである。ましてや、真理はたとえそれによって苦しまなければならないとしても、更に守るべきものである。なぜなら、それは真理であり、それは自分自身より勝っており、自分自身は真理によって生み出されているからである。

3.神エホバ以外に、この世の中の物質上の富や、自分の能力を追求し、富もうと思い定めている者は、エホバ神を少しも信頼していないのである。

4.自分達の内にある、淫らな性的欲情と貪欲な物質欲と偶像崇拝とを、ことごとく捨て去りなさい。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どれでも良い、ということが、どれだけ人を堕落させ、怠惰にさせるかということに対し、これしか無い、ということが、どれだけ人を真剣にさせ、人を真面目にしてくれる、強力な力となることであろうか。

2.ほとんど言えることとして、能力のある者は、必ずと言っていいほど、それを悪用して、異性を惹きつけることにそれを集中したがるのである。

3.的を得た正しい解答は、同じく、的を得た正しい質問によって得られるのである。よって私達は、質問さえ吟味しなければならないのである。

4.何にせよ、飽くことを知らない事柄は、皆、有害である。

5.努力し続ける、守り続ける、維持し続ける間だけが価値があるのであって、努力しないでも、そのままで価値のある存在など決してないのである。なぜなら神エホバでさえ、[とこしえに忠実なる方]と呼ばれる様に、ご自身で決められた高い基準に自らも、永久に従っておられるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

百歩譲って、たとえ、すべての人間一人一人に、独自の真理があったとしても、その小さな真理は、より大きな真理に包含されなければならないのである。

2.我々人間にとっての真理とは、何か正しい事を形造ったり、勝手に正しい基準を設けたりする事では決してなく、ただ一つ、神に忠実で、従順であることのみなのである。

3.利他的愛とは、極めて低い次元での自己犠牲のことなのである。すなわち、他の人の中で最も立場の低い者として行動することであり、罵しられれば、懇願し、罵倒されれば耐え忍び、不正な扱いを受けても、相手を祝福し続けることなのである。

4.真理というものに型はないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何事もルール内で行わなければ意味がないし、勝利するにしても、スポーツのように、ルール内で勝たなければ意味がないのである。

2.はっきりと言っておく。たとえ、何が正しい事であるか、何を為すべきかを分かっていたとしても、それを自分なりに、自分に応じた形に整えて自分に当てはめなければ何の意味もないという事である。なぜなら、服を着るにしても、自分の体のサイズに合わさなければ、その服を着る事が出来ない様に、人間はどう生きるべきかということが、分かっていたとしても、自分の性格や、体調に応じたサイズでオーダーメイドしなければ、それを行うことは不可能だからである。服なら、店屋に行って注文すれば、すぐに自分のサイズにぴったり合ったサイズに作ってくれるかもしれないが、あなたという個人に応じた生き方を調整してくれる者はあなた自身以外には、誰もいないのである。

3.精神的ケアにしても、人なら誰でも持っている自尊心を傷付けてしまう様な消極的治療法ではなくて、むしろ、その人の自尊心という自然治癒力を助けることによって、治って行く積極的治療法でなければならないのである。例えば、人を慰めるにしても、あなたはここが間違っているから、ここを直した方が良いなどと自分の意見を言うのではなくて、ただ、その人が落ち込んでいたら、何も言わずにそばにずっと寄り添ってあげるべきなのである。それを続けていけば、その鬱病になった人の元々持っている免疫力が徐々に高まり、本人自身の方から鬱病になった原因を打ち明けてくれるまで、待つのである。

4.全創造物よ、神エホバを味わいなさい。

 

5.この世の中の現象は、すべて、単純に悪か善かというような判断が出来るほど純真なものではないのである。すなわち、単に、黒か白かを判定できることは非常に限られており、大半の事例は白黒付けられないグレーゾーンで出来ているからである。よって深く熟考せずに、物事を判断する仕方に置いて、悪いか正しいかのどちらかであると考える傾向にある人は、いずれ必ず行き詰ってしまうのである。基本的に、この世の中で起こっているすべての現象は、全否定も全肯定も出来ないからである。

6.子供から大人になる事の変化の意味とは、自分への絶対的認識から自分という存在の相対的認識への自覚にあるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達にとって、最大の慰めの言葉の一つは、悔い改める者を、神エホバは快く許してくださるという、人に悔い改める時間と猶予とを与えてくださっている、思いやりのある言葉なのである。

2.無分別から無分別が出るのではなく、悪から悪が出るのではなく、病から病が出るのではない。それらは、真理というものが、まず最初に大前提にあり、それから逸れることによって出たものなのである。

3.どんなに時代が移り変わっても、ただ一つ変わらない、また注意しておかねばならないことは、自分自身の身は、自分で守るしかないというサバイバル的な自衛の精神なのである。

4.苦しみが、一人歩きしているのではなく、基準(正常)から逸れることによって苦しみが生じるのである。よって、逆説的であるが、悪や苦しみが確かに存在することは、誰もが無条件に認めることであるが、それが、皮肉なことに、正しい神エホバが存在するということを、同時に証ししているのである。