高田義裕の人生論

今日の箴言

あれこれ、いろいろと、こうすれば、恐らくこうなるだろうと想像して、まるでしたような気分でいることと、その中の一つでも、実際に行ってみることとは、全く別の事柄なのである。

2.この世界にあって、すべての人の立場は、まさに、人を保護する屋根なり、壁なりが取り払われた、全く無防備の中で、風雨や激しい嵐に、為すがままに打ちつけられている状態の構図なのであり、荒れ狂う波の中にいる、全く無力な船のような状態のただ中にいるのである。

3.人を殺すのに、何も大掛かりな殺傷武器など必要ない。ただ、各々、その人にとって、一番悩んでいる、その人の一番弱い所を、ただ、言葉という剣で刺せば、それだけで、人は、たちどころに死んでしまうのである。それだけ、悪意のある言葉による中傷は、殺傷能力が高いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべてを得ようとするからこそ、失うということも、生じ得るのであり、初めから、得ようとしなければ、失うということも全くないということである。

2.それをすることができるすべての条件が、全く整ったから、それをするという構図は、それ自体は、何の価値も無い死の状態であること。しかし、それをすることができる条件が全く整っていない状態であっても、あえて、それをできるようにする構図こそ、初めて、それ自体が、全く価値のある機能性100%の命ということであること。すなわち、1から、1を産んでも、それは、当たり前であり、そこに何の付加価値もない。要するに、1しかない所から、2を生み出して初めてそれに、付加価値が付くのである。別の言い方をすれば、有から有を生み出しても、それは何の意味もなく、まさに、無から有を生じさせなければならないのである。そこに初めて意味があるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

公理とは、あくまでも、物事すべての基本となる、証明を必要としないことを言うから、その場合、次の3種類が考えられる。

1.それ自体、証明することが全く必要のない程、すべてに対して自明の理である事柄のこと。

2.それ自体、証明することが全く不可能な程、すべてに対して絶対的である事柄のこと。

3.それ自体、証明することが全く無関係である程、すべてに対して影響力がない事柄であること。

これらを公理の条件としよう。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰であっても、自分のしたいことだけしていたい。しかし、長い人生、時には、必要の為に、全く苦手なことも、あえてしなければならない場合があるということである。

2.何が正しくて、何が間違いかを議論することは、まるで、ウサギとタヌキは、どちらが優れていて、どちらが劣っているかということを論ずるような、的外れな事を言っているのに等しいのである。あくまでも、ウサギとタヌキは、共に、それぞれ別の種類の生き物であり、それぞれに、独立しての存在理由を持ち、初めから比べられるものではないからである。

3.はっきりと言っておく。誰かが何の宗教に入っているかとか、あなたはマスタベーションをしているか、していないかとかは、極めて個人的な事柄であるということである。よって、本人以外の誰であろうとも、それに対してとやかく言って、個人の行使権を侵害する権利は決してないということである。すなわち、その宗教に入っているから、もしくは、あなたはマスタベーションをしているからと言って、第三者が、それを良い、悪いと言い得る資格のある者は、一人としていないということである。よって、一人の人権は、一人が一単位であって、親すら別であるということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

健康とは、あくまでも、神からの人に対する無償の賜物なのである。ここで、無償の賜物とは、その人が立派だから与えられ、その人が愚かだから与えられないというレベルを遥かに超越した力によるものであることを意味しているのである。

2.ただ、単に、駄目な者が本当に駄目な者では決してないこと。ただ、人のことを駄目だと言う者が、初めて本当に駄目な者であること。

3.人は、自分自身のことを、他の人のように扱うことにより、自分で自分のことを無責任に、軽率に、酷く扱うのではなく、あくまでも、人は、自分自身のことを自分のことのように扱うことにより、自分で自分のことを、責任を持って、真剣に、大切に扱うようにしなければならないのである。人は皆、誰でも、男であっても、女であっても、良いことも、厭うべきことも、自分の好きなように自分でできる代わりに、また、得することも、損することも、自分自身についてのことは、全く自分だけが責任を負わねばならないということなのである。しかし、逆に言えば、自分自身が、責任さえちゃんと全うさえしていれば、良いことも、厭うべきことも、その人にとって、好きなように行っても、誰も、ましてや、神さえも、何も言えないということなのである。よって、神のクリスチャンに要求される従順さも、ただ、何も知らない子供心の様な、盲目的従順さなのでは決して無く、あくまでも、自分達の意志で決定した自発的従順さが求められているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

他の人に対して、過度に、批判的、厳しい規律を強いる傾向のある人達に言えることは、人間、誰でも、ある程度の規準に達していて、常識をわきまえているなら、たとえ、その人が何をしていようとも、別の同じ人間が、それについて、あれこれ、とやかく言うことは、あくまでも、出来無いということである。

2.人にとって、たとえ、どんな些細な事でも、どんなことがきっかけで自分自身を変える機会があるかは、わからないのである。

3.一口に言って、神の愛、もしくは男らしさ、大人らしさとは、相手の醜い部分をありのままに受け入れてあげる包容力の事であるのである。

4.はっきりと言っておく。利他的精神に富んだ者こそ、初めて、人間的にも魅力のある人間であると言えるのであり、それは、俗に言うとモテる人と言うのである。よって、それが自分に欠けているのに、どれだけ外見を良く見せても、駄目だということである。すなわち、心のスマートな人間こそ、初めて、魅力的だということであり、相手に対してしつこかったり、貪欲だったりしては駄目なのである。本音では、もっと本当は聞き出したいし、もっと本当は欲しくても、そこを、あえてぐっとこらえる自制心、忍耐力、辛抱強さこそが求められているということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

学校の先生だけが、自分の教師だと思ったら大間違いであること。彼らは、単に、学問についての教師であって、人生についての教師でもあるか、と言えば、決してそうではないのである。よって、人は、視野をもっと広く取るよう努力し、頭を柔軟にして、この世界すべてに存在している、どんな些細な事柄、もしくは、あらゆる人々の考え方や行動がどんなに小さくて、一瞬の事であっても、それに注意を払って、そこから何かしらを、学ぼうという態度を培うなら、あなたの周りにあるすべてのことが、自分にとっての貴重な、人生の教師となり得るということである。

素直な人間になるとは、何でも人の言うことに従うということを意味しているのでは決して無く、ただ、自分の悪い所も、弱い所も包み隠さず、自分のありのままを人に出しているという謙遜で、勇気のある人間のことを、初めて意味しているということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

与えられていることに慣れてしまった者は、自分が与えるということを全く知らないこと。

2.他の人に、悪口を言われて、それを非常に気にしてしまっている人に対して言えることは、たとえ、それを言われるだけの要素をあなたが持っていたとしても、それをあえて言う、その人の人格が問われるべきであり、言われる方ではなく、あくまでも、言う方に問題があるということである。また、人の言う様々な悪口は、その動機が、その人の一時的に出る、ストレスが原因であったり、とっさに出るきまぐれが原因であるのであり、決して真剣さのあるものでないから、それを言われた側の本人であるあなたが、それを真剣に、毎日考慮に入れ、気にし続けることは、全く損であり、無駄なことであるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

互いに親密な関係とは、互いに裏切ることの出来無い関係、すなわち、どちらかが倒れれば、もう一方も倒れてしまうという関係のことと言い換えることができる。

2.私達人間は、自分の歩みを導くことさえ、自分では出来ない存在なのであり、すなわち、すべての人間は自分の本来あるべき道から、逸れてしまっているのである。よって、人生において、苦しみや挫折を経験しない者など一人としていないということなのである。もし、そうでないと言い張れる者は、それに対して、ただ、無自覚でいるだけか、それとも、嘘を言っているかのどちらにしか過ぎ無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人が成功するか、しないかは最終的には、運で決まるのであり、日頃の生活態度の努力の積み重ねによって、運は、自分に引き寄せることができること。

2.必ずしも、すべてのことをいちいち細部にわたって知る必要は無く、そうしなくても、すべてを知ることは可能であること。それは、あくまでも、あらゆる物事には、要点、もしくは、要というものがあり、それさえまず、きちんと押さえておけば、後はそれを土台として、肉付けして行き、応用することができるからである。

3.人が、他の人の外面を見て、望ましいと思ったり、羨ましいと思っても、その感情は、他の人を、勝手気ままに、きまぐれで、あくまでも、自分の都合の良い甘い見方で、実際の実像を曲げて、極端に一部分だけを見ているだけなのであり、実際は、その人がそのようになるまでの、大変な事情と、そうなるだけの大変な代償を払っていることという全体を見落としており、かつ全く考慮に入れていないということである。