高田義裕の人生論

今日の箴言

人は何かを行う時、それを義務感でやっているとしたら、決してそれを続けていけない。いずれはそうすることを、止めてしまうのである。

2.何も迷惑をかけないという事が、それ自体、迷惑になる場合があること。

3.どんな災いや問題も、感謝する気持ちが失われていくところから、すべて端を発しているということである。

4.災いとは、人が、災いであることを、どれほど災いであるか認識している程度に比例して発生すること。すなわち、認識していなければいないほど、災いの発生率は高くなること。

5.夫婦は、互いにセックスの相性は良くても、互いに、人間的にも、相性が良いとは決して限らないこと。これが、単純には行かない、現実のすれ違いの苦悩と、人間関係の難しいところである。

6.人間関係とは、とりあえず、互いが常に協力すること、すなわち、相手に対して、自分が妥協できるところは、互いに妥協していく事の連続の営みのことであること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

謙遜とは何か。それは、腰が低くて、へりくだっていることである。それでは、自分は気が弱い為に、結果として相手に対して腰が低いという事は謙遜か。それは必要に迫られて、仕方なくやっている意味であれば、それは謙遜ではない。それでは、神は謙遜か。神は人々の悪い行いに対して、怒ることもできるが、それを忍耐し、辛抱して人々がその悪行を悔い改めるのを待っておられるとする。ここで、謙遜とは決して怒らないことと定義する。しかし、神は、今怒るのを差し控えて我慢しているとするならば、いずれは限界に来て、その怒りを人間にぶちまけるのではないだろうか。それでは、結局は、神も怒るのだから、先程の定義に従えば、神は謙遜ではないことになってしまうのである。

2.私は昨日、自動車運転免許の更新手続きに行って来たのだが、そのちょうど一カ月ほど前に、シートベルトをしていなくて、白バイクの警官にキップを切られてしまった。もし、その事がなければ、自分の家から最寄りの警察署で更新出来たかもしれなかったのだが、その違反の為に、私は、自分の家より遠く離れた運転免許センターまで行かなければならなかった。おまけに、120分もある違反者用交通安全指導の講習も受けなければならなかった。しかし、改めて、この交通安全教室の講習を受けて、いかに普段身近に運転している自動車というものが、危険であり、事故を起こすことによって、加害者や被害者が受けるダメージは底知れない事であることかを再認識させられた。日本では、自動車運転の違反が全く無い優良ドライバーは優遇され、遠くの運転免許センターまで更新しに行かなくても良く、また、安全教育の講習も免除される。しかし、私がここで感じた事は、例え、優良ドライバーであっても、安全教育指導を受けるべきだと思った。なぜなら、例え、優良ドライバーであっても、教育指導を受けなければ、日々、改正される道路交通法についての知識も知ることが出来ないし、自分の運転に慢心して、つい、気が緩んで、いかに安全というものが、大事なことであり、有り難いものであるかという認識が薄れてしまいがちだからである。その意識の欠如こそ、悲惨な交通事故を引き起こしてしまうからである。やっぱり人は、その優劣に関わらず、交通教育だけに限らず、様々な分野において、定期的に教育を受け続ける必要があると思う。なぜなら、私達はとにかく、忘れる生き物だから、定期的に認識を心に植え付ける為の訓練が必要だからである。およそ、この世界で、誰にも感化され無くても、自分の言動を常に律していける人間など一人もいないからである。こう考えると、何の違反も無いゆえに、何の教育指導も受けなくても良い人よりも、むしろ、何かの違反を犯したのがきっかけで、教育指導を受けた人の方が、よほど安全ドライバーになれるのではないかと言う思いに至ったのである。すなわち、罪を犯して、服役している者の方が、普段、何の罪も犯さずに、普通に暮らしている人よりも、その罪の重さをよく認識しているゆえに、罪を犯しにくいのではないかと思うのである。よって、次に最も罪を犯しやすい者の予備軍は、何の罪も犯さないゆえにまた、罪の重さも知ることのない普通の人達かもしれないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人にチャンスと逆境は、平等の量と数と質だけ来る。ただ、他の人より、より成功している様に見える人々は、その平等に来るチャンスを自分のアンテナを磨いて、それが来た時に、逃がさずしっかりと捉えたがゆえに、人よりも成功を増加させることが初めて出来たという事なのである。

2.この世界で、成功している者の理由は、その人の能力いかんではなく、ただ運が良かったという部分がほとんどすべてを占めること。

3.人には、それぞれ好きなものが違うので、また、人はそれぞれ、その人が元気になる要因も、様々に違うということなのである。

4.この世のあらゆる世襲財産は、自分が意図せぬ時に増えたり、減ったり、盗まれたりする可能性を常に秘めているものであり、それを不可能にすることは、私達には決してで来ないのである。それはなぜか。それは全く当たり前に考えて、それらすべては、その初めから、私達のものでは決してないからである。本来、本当に自分自身のものなら、それは自分の思い通りに出来て当然だし、それが勝手に、増えたり、減ったり、盗まれたりするはずなど決してないからである。

5.それが悪いことを知っていて、あえてそれを行うことが一番罪が重い。彼が、それが本当に悪いとは知らずに、それを行っていたとするなら、その悪行に対する哀れみと許しの余地もあったのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

進化論と神の創造説2

人間の誕生説で、進化論と神の創造説があることは以前にも述べた。私達はつい、どちらが正しいのか決着をつけたくなるものだが、ここでは、そのような姿勢はひとまず置いといて、お互いの論理の長所と短所を述べてみたいと思う。まず、進化論だが、その良い面は、適者適存もしくは、弱肉強食の世界を展開していることである。確かに私達の社会は、競争によって成り立っている。自分達の能力や技術は、互いに競い合わないとそれは進歩しない。なぜなら、人という動物は、その根っ子では、怠惰であるからだ。私達は働かなくても食べて行けるのなら、決して働かないからである。しかし、実際には、働かなければ食べて行けないから、仕方なく働いているのが本音ではないだろうか。それで、互いに競い合って、その勝者が多くの利益を得るというシステムにして行かないと、人は努力しようとしないのである。もし、競争のルールが働かなかったら、私達はいまだに石器時代のままであったろうし、現在の医学の進歩や、工業や商業の進歩は無く、現代のような便利な生活を送ることは出来なかったであろう。ここまでは進化論の考え方は、理に適っていると言える。しかし、この世の中は、弱肉強食の論理だけでは説明することの出来ない事柄も存在する。例えば、人々には、思いやりの精神があるし、時には、自分を犠牲にしてまで相手の人間を助けるという、競争論理からは、説明のしにくい利他的な親切心も人間は有しているからである。また、競争主義の成れの果ては、富裕層と貧困層の極端な二極化が進み、いずれは、強者が弱者を支えなければ、崩壊してしまう自己矛盾を抱えているからである。もう一つの短所は、進化論の最大の目的が種の存続にあることである。すなわち、自分の子孫を残すことが進化論では最大の正義であるから、それを人間に当てはめて見ると、男と女はできるだけ沢山の異性と性行為をして、自分の子供を作っても良いことになり、これは、堕胎の増加を助長し、淫行や姦淫を正当化できる道具となってしまうからである。次に、神による創造説の長所を見て行こう。人間が神によって創造されたなら、人間が生きるのに、正当な理由や生き甲斐も神が与えてくれるし、神に信仰を持つことによって、人はその心の内に、平安を見いだすことができる。しかし、その短所は、余りにも神の要求される生活の基準が高いため、万人向けではないことに尽きる。神の高い道徳基準を守ろうとしても、それに従わない者や、その基準から落ちこぼれる人も出てくるからである。そこで、神に従う者と神に従わない者という単純な区分が成され、それに拠り、この世界の多様性は無視され、昔の中世の暗黒時代のような、言論の自由の無い閉鎖的社会が作り出されてしまうからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

キリスト教神学叙説

最初の人間夫婦、アダムとエバが禁断の木の実を食べて、神に対して罪を犯したとき、神は、地を呪われた。それ以来、地球は本来の理想的な状態から掛け離れてしまった。よって現在我々が住んでいるこの地上には、罪(死)の秩序が支配しているのである。これは、あるものが必要な場合は、それが全く手に入らず、それが必要でない時には、それは余計なほど沢山あり、また、ある事柄がもっと遅く来て欲しい時には、それは速く来過ぎるし、逆に、緊急にそれが必要とされ、もっと速く来て欲しい時には、それは遅すぎるという全く非効率的で、要領の悪いシステムがまかり通っているのである。あなたも実際の人生経験で、実際には、どうでもよいことは上手く行って、本当に大事で肝心なことは上手くいかないことを実感しているのではないだろうか。また、人間の能力の傾向にしても、悪いことはたやすく行えるが、良いことは行いにくいのではないだろうか。例えば、お金や食糧が必要な発展途上国には、全くそれが行き渡らないし、それ以上お金も食糧も必要のない富裕層の所に更に富が集中して行っているのではないだろうか。また、人間や他の生き物の生態系に良い影響を生み出す発明や発見はなかなか生み出せないが、人は、悪知恵や、人を殺す殺人兵器の開発は驚くように進んでいるのである。また、税に関しても、きちんと税を払っている人には何の評価も与えられないが、税を払っていない人を暴き出すことには、人は、まるで、神のように、威力を発揮するのである。このように、私達は、非常に住みにくい、そして、生きにくい環境の中での生活を余儀なくされているのである。

2.神が、御自身を聖なる者として保っておられる条件や能力と、私達が自分達を貞潔で、健全な者として保つ、条件や能力とは全く同じものなのである。なぜなら、聖書には、それをはっきりと示す聖句があり、[あなた方は聖なる者でならなければならない。なぜなら、私は聖なる者だからである。]と書かれているからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世には、近づけば近づくほど見えず、追いかければ追いかけるほど、離れる事柄もまた存在すること。それは性的快楽の追求であり、理想の異性を追い求め続けることである。それらは、すべて雲を掴むような虚無でしかないのである。

2.素晴らしいこと、立派なこと、偉大なこと、価値あることとは、それを成し遂げた側だけではなく、それを成し遂げてはいないが、それを正しく認めてくれたり、それを正しく理解してくれたり、それを評価してくれたり、それを必要としてくれている、受け取る側との両者が揃って、初めて、成立し、あくまでも、存在できるようになるからである。

3.ある物事に対して、反対することは、賛成することよりもはるかに難しい。なぜなら、その反対する事柄についてよく調査し、熟知し、何が反対の理由なのかを筋道立てて考え、相手に納得のいく仕方で、すべてのことを調べなければならないからである。よって、反対することは、並大抵のことではなく、一つの立派な仕事なのである。しかし、ここで、理っておかなければならないことは、すべての事柄をすべて調査し、知り得ているわけでもないのに、ただある一面だけを見て、勝手気ままに反対するというのは、それは決して反対とは呼ばず、それはただの中傷であり、最も次元の低い単なる不平としか、人々に認知されないのである。

4.男女とも、マスターベーションに耽っていたり、その状態で満足しているような段階では、結婚という大人の生活の段階は踏めないこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

1.人間にとって、大事な事は、その若いうちに、努力することを苦に思わないくらいに、それを身に付けることに尽きると言える。

2.何事も、中庸が大切であること。しかし、これにも三種類ある。多すぎず、かつ、少な過ぎず、でちょうど良い事柄もあれば、ありすぎた方がちょうど良い事柄もあるし、更に、無さ過ぎる方がちょうど良い事柄もまた存在すること。例えば、一つ目は、仕事の量や、食事の量などであり、二つ目は、互いに対する愛や親切であり、三つ目は、不満や、悩みなどである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何事も、物事を進めていく事や、行動を起こす為には、その手順や内容性もさることながら、それを行うための信条、すなわち、その動機や取り組み方の方向性というものの明確な規定こそが、常に必要不可欠であり、大事な事なのである。それがしっかりしていなくては、何の計り事も上手くいかないのである。なぜなら、それを成し遂げる途中で、必ず、難題や、大きな壁にぶつかるのであり、その時に、支えとなってくれるのが、それを行うための信念だからである。その信念さえしっかりしていれば、人は必ず、その難題や壁を乗り越えられるからである。また、その信念があるからこそ、計画も持続できる原動力が与えられるのであり、しいては、それが将来、他の人とは異なるオリジナリティを生み、その人独特の個性として、他の人に、認知され、注目されるようになるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あるキリスト教徒が、罪人達よ、悔い改めなさい、神の王国は近づいたからです。と言って伝道し始めた。すると、それを耳にしたある人が、そんな聖書の何千年も前の話など、今生きている私達には何の影響も与えないし、全く無関係な事だ、と豪語した。それに対して、そのキリスト教徒は、ある例えを用いてこう言った。ある大富豪の夫婦がいました。彼らには子供がいませんでした。それで、彼らは、ある道端に捨てられていた赤ん坊を引き取り、自分達の子供同然のように育てました。その子供は、愛情に満ち溢れて、すくすくと育ちました。そして、その子は成人して大人になりました。彼は自尊心が強く、周りに見られる孤児ややもめを哀れに思い、彼らを援助するボランティア団体に入りました。そして、自分が恵まれていない人達を助ける事に深い満足と誇りを抱いていました。ところが、あることがきっかけで、自分自身が親に捨てられた道端に取り残された子供であったことを知りました。彼はそれを知ると、目の前が真っ暗になり、彼の自尊心はずたずたに引き裂かれ、大声で泣きました。そして、心の拠り所を失った彼は、苦しんで、自殺を図りました。しかし、そのことに気付いた孤児が、すんでのところで彼を助けました。その時、二人は初めて、相手のことを自分自身のように感じ、二人は抱き合って泣きました。そうして彼は本当の愛とは何かを知りました。この例えを聞いたその人は、私も実は孤児なのだ、と言って悲嘆して去って行った。

高田義裕の人生論

今日の箴言

昨日日本では、警官が不審者に拳銃を発泡するという事件があった。記事によると、見た目で明らかに不審人物と判断した警察官が職務質問したところ、いきなり、ナイフをかざして、襲いかかって来たため、やむなく発泡したということである。確かにこの推移は、致し方ないことである。しかし、私は、こういう事件を聞くたびに思うことは、それでは、職務質問しなかったら、どうなっていたかと言うことである。すなわち、職務質問しなければ、こんな結果には、ならなかったのでは、と思うのである。これはどういうことかと言うと、職務質問された側の人間が、自分のことを、不審者扱いして、職務質問したこと自体に腹を立て、その行為に及んだ可能性が高いからである。要するに、警官が職務質問したことによって、そういう状況になることを、彼が全く意図せずに、誘発したとも言えるからである。このように、この事件に限ったことではなく、すべての人間関係においても、自分の言動が、災いを招くということは、良くあるからである。よって人は、まず誰かに、どういう状況で、こうしたら、どうなるか、ということを、言動を起こす前に、推測するという想像力を働かせなければならないのである。すなわち、まず、よく吟味して自分の言動を行うようにすれば、トラブルを未然に防ぐことが出来、人間関係もスムーズに行くようになるからである。