高田義裕の人生論

今日の箴言

誰もがそれに対して暗黙の了解事であり、それを吟味して疑うことなど夢にも思わず、むしろ、疑う事を忌むべき事である、とさえ思われている、まさに世の中での常識事であり、人々の行動の指針であり、源泉となって来た権威ある命題の部類の中には、数多くの事実無根であり、実際には、全くの見当違いである事柄が存在しているのであり、現代社会においても、誤って知識として奉られ、権威の元に置かれているものが、余りにも多いのである。例えとして挙げれば、それは、あらゆる古今東西の有名な思想家や、知識人が好んで取り上げた疑問的題材、すなわち、[人はなぜ生きているのか]や、[人生とは何か]や、[生きるとは何か]などに代表される諸命題なのである。これらは実際には、決して解答の出ない、その初めから存在していない空理であって、全くの愚かな質問の系図に属するものなのである。それらに限って言えば、生きるという事に対して、その様な評論家的で他人事の様に、生きるという事を客観視している事自体が一種、異常で異質な状態なのである。生きるという事は、誰に対してもその本人にとって常に目の前の現実であり、客観視して考えるという隙間さえ与えられないほどの現在進行形的な主観そのものの事なのである。人は考えている時、自分は今、考えているなどとは思わないし、意識していないのである。これと同様に、人は生きている時、自分は今、生きているなどとは思わないし、意識していないのである。生きている事を客観視している事自体が、本当にその人が生きていない証拠である。今、サッカーの試合を見ている観客は、サッカーの試合を客観的に見ているのであり、それは実際にサッカーしている選手では無いからそう出来るのである。同様に、サッカー選手の様に、実際にサッカーの試合に出場している者はサッカーの試合を客観視などしている暇は無いのであり、人生とは何か、などという事を考えている時点で、その人は自分の人生という試合に出場していない、ただの観客なのである。