高田義裕の人生論

今日の箴言

人間にとって、能力や力は誰にでもあるわけではないが、やる気は、誰でも出せるのではないか。よって、例え、能力や力があっても、やる気がなければ、その能力や力は開花しない。しかし、やる気があれば、どんな問題でも乗り越える事が出来る。そう、すべての人間には、やる気と言う、能力と力を持っているのである。やる気が無いのは、あくまでも、その本人にやる気と言う、能力や力が無いからではなく、やる気を出す意志がないだけである。人間には、誰にでも、目的意識さえあれば、やる気を出せるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

単に正しい事があくまでも、正しいとは、限らないこと。あくまでも、ある事柄が正しく作用した場合にこそ、初めてそれは正しい事なのである。例えば、あなたが、人を親切にする事は、正しい事だと認識しているとしよう。それで、早速それを実行しようと電車に乗った。電車の中は、非常に混んでいて、もう一つしか席は空いていなかった。あなたは、急いでそこに座ったのだが、次の駅から一人の老人が電車の中に入って来た。しかし、どの席も満員で、彼はどこにも座れなかった。しかし、老人はこれと言って困った顔をしていなかったのであるが、あなたは、ここぞとばかり、自分の席をその老人に譲ろうと席を立った。そして、その老人に席を譲る事を申し出ると、びっくりした事に、その老人はあなたに怒りを露わにして、こう言った。(若造よ。私をナメるな。私を年寄り扱いしよって。)と。そして足早にスタスタとその場を去って行った。あなたは、ここでショックを受ける。自分が親切に思ってしてあげた事が、逆にお節介になってしまったからである。あなたはここで、単に親切にしようと自分の方から勝手に決め付けて、親切にしようとしても、それは、正しくない事を悟った。何事も相手がして欲しい事を注意深く見極めてから、行動に移さねばならないことを。この様にして、老人が怒りを自分に露わにした事が、逆に、自分の過ちを正してくれた事によって、それは、あなたに対して正しく作用したと言えるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

良く知りもせず、調べもぜずに、ただ漠然と信じている先入観、すなわち、偏見こそが、偶像崇拝なのである。これは人の心の中に、深く根を張っており、ほとんどすべての人々の行いの動機付けを支配している。人種差別、学歴主義、女性蔑視などの態度は、今でも非常に多くの人々の心の中に巣食っている、先入観もしくは、偏見なのではありませんか。そう、この先入観もしくは、偏見と言う偶像崇拝は非常に厄介な敵であり、人間の社会に非常に大きな影響を現在でも与えているのである。しかし、これに対して、偶像崇拝とは反対の、正しい認識、良く調べ、良く観察し、漠然とではなく、はっきりと確信出来る真理とは、その人の人種、性別、学歴、出身地、境遇などに全く左右され無い、今現在のその人の状態、態度、努力を基準に判断しなければならないと言う尺度の事なのである。例えば、生まれた場所は、非常に貧しく、偏見や差別を受けているところの出身であっても、今現在は、彼女は、NGO、非政府組織のリーダーとして、世界の貧困と戦っている立派な人になっているのであれば、その今の彼女の状態を評価されるべきなのであり、また、過去において、犯罪組織の一員として、人殺しや窃盗を繰り返して来た者が、今では、改心して、真面目に働いて、家族の父親となっている人に対しては、その今の現在の状態を評価してあげなければならないのである。そう、人間とは、たとえ過去が悪かったとしても、今が良ければ、それは良いと判断されるべきなのであり、たとえ、過去に立派な業績を成し遂げていても、今は、落ちぶれているのなら、それは、高く評価はされ無いと言う事である。人間にとって、大事なのは、常に今であり、現在進行形なのである。すなわち、良くも悪くも過去をいつまで経ってもダラダラと引きずってはならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たった一つだけ言える事は、あらゆる事柄に対して、[急]の付く行いだけは、してはなら無いのである。例えば、車の急発進は危険だし、急に仕事が入って、それを急に行わなければならない場合は、仕事の質も雑になり、後で必ず誰かに迷惑をかける。要するに、物事はきちんと計画を立てて、準備万端にして行わなければ、良いものは、決して産まれないのであり、急ぐという事は、それらの事がおろそかになると言う事だからである。人間という生き物は、初めから、神によって、のんびり過ごす生き物として創造されており、緊急な時に対処出来る能力を与えられていないからである。よって、お金を儲けようとする事は、すべての人に良い結果を及ぼさない。何故なら、儲けようと思ったら、すべての事を急がなくてはならないのであり、急ぐという事は、忙しいと言う事であり、儲けようとすればするほど、スピードが要求されて行くからである。これは結局のところ、人々を疲弊させ、過労死に繋がって行くからである。私達のこの現代社会も、すべて、スピードを要求されるのではないだろうか。一度立ち止まって、周りの大自然を見てみるが良い。動物達は、急いでいるだろうか。いや、決して急いではいない。急いで成長するものなど、この万物に一つとして無いのである。逆に、急いでは、十分に栄養が届かず、成長出来ないのである。たとえ成長しても、それは欠陥だらけの奇形物となるだろう。そうである、すべての生き物の中で、急いでいるのは、人間だけなのである。この間違ったシステムは、何を産み出して来たか。それは、人間関係の相互の軋轢を産み出して来たし、地球環境も破壊して来たのである。すなわち、儲けようとする貪欲さは、すべての創造物を破壊するのである。貪欲さの成れの果ては、すべての絶滅である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どんな主張も半分当たっていて、半分間違っていること。これでは、プラスマイナスゼロであり、結局は、どんな主張も、一つとして何かを生み出せてはいないのである。そこには、ただ、議論だけが存在し、決して現状は変わらないと言うジレンマが、横たわっているのである。

2.物事を優先すると言う意味とは、ほとんどが重要で大切なものの中から、あえて一つを選ぶと言う事であり、後の事はスッパリ諦めると言う潔さが必要不可欠であること。すなわち、すべてのものを諦められない貪欲さのある者には、物事を優先するという事が出来ないのである。人生も同じである。あれもこれも実現したいと思っていては、結局のところ、すべてが中途半端になり、何も達成出来ないからである。人間の人生とは、やはり、一つの事に絞って、一つの事に集中する事が大事なのであり、ある一つの分野にかけては誰にも引けを取らないと言う覚悟が必要なのである。

3.人間、何事も、もうこれ以上は耐えられない、という様なピークの壁を乗り越えなければ、何も成し遂げられないし、身にも付かないこと。よって、すべての偉業には、産みの苦しみが必ず伴うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

小人と大人物

小人ほど損得にこだわる。例えば、あなたは今、一万円しか持っていないとする。当然使える金額に限度がある。あなたは、その一万円札をできるだけ無駄に浪費しないよう慎重に、細部に至るまで気を配ってそれを用いようとするであろう。これに対して、あなたは今、100億円持っているとする。あなたは非常に多く持っているので、一万円しか持っていなかった時よりもアバウトにお金を使える。これと同様に、小人は、一万円しか持っていない人間に例えられる。彼は、器量が小さく、せせこましい。ちょっとした損得にも敏感である。人の欠点を大げさに取り上げ、誰の下に付く方がより有利で得をするかばかりを考えている。他の人に自分の物を与えようなどという気はさらさら無い。むしろ、彼は、他の人に対する評価は物凄く厳しい。その割に、自分には甘い。彼は、常に損得を基準に付き合う人間を決めているので、好き嫌いが激しい。それに対し、大人物は、100億円持っている人間に例えられる。彼は器量が大きくて、おおらかである。人の欠点もおおらかに受け入れ、損得を基準に生きていない。彼の、他の人に対する評価は、非常に穏やかで優しい。その代わりに、自分には厳しい。また、寛大で、他の人に惜しみなく自分の持っている物を与える。彼はどんな人でも、受け入れて付き合うので、好き嫌いが無い。これが小人と大人物の違いである。何故彼は小人なのかと言うと、自分は少なくしか持っていないのに、それを増やそうとする努力をしない。すなわち怠惰なのである。しかし、何故彼は大人物なのかと言うと、自分が少なくしか持っていない事を恥じて自ら努力する。すなわち、勤勉なのである。よって人は人生において常に勤勉で謙虚でなければならない。

2.努力しない人間に将来は無い。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての物事は、循環している。例えば、宇宙の果てはどうなっているのか。それを果てしなく辿って行くと、いずれは、ある川の岸辺にある無数の小石の一つである原子にたどり着く。そう、我々の宇宙の果ては、その小石の原子の中にあるのである。時間についてはどうか。通常では、過去があって、次に未来があるが、その未来を果てしなく辿って行くと、遂には、過去にたどり着くのである。また、過去は、未来の後にあるが、過去をずっと果てしなく辿って行くと、遂には、未来に繋がっているのである。この様に時間も循環しているのである。ここで、この万物の全体像を、幾何学的に言い表せば、ちょうど、アラビア数字の8の様な形をしている。

高田義裕の人生論

今日の箴言

はっきりと言っておく。何も自分で成し遂げた事のない怠惰な人間ほど、自分は、やれば何でも出来ると思っている。しかし、逆に、何でも自分から積極的に物事にチャレンジして努力している人は、人生において、自分が望んだ4分の1すら実現出来ない、厳しい現実を経験しているので、自分は何も出来ない小さな存在である、と謙虚な気持ちを持っている。

2.自分を鍛えるという事は良いが、自分を鍛えるという事も元を正せば、自分自身の身に負担を強いる事であるから、余りにも自分を鍛え過ぎて、無理をする事により、自分の健康を損なってしまう様な事があってはいけない。要するに、何事も限度をわきまえておかねばならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて新しいものは、古くなる為にあること。

2.すべての定説は、覆される為にあること。

3.たとえ、一つ一つが、単純で簡単な事であっても、それは数が増えると、大変な脅威となるのである。例えば、水は、普段は、私達人間の思う通りに使用出来るし、全く水は、人間に従順で、おとなしい。しかし、いざ、極度の大雨や、地震による津波となった場合、水はまるで巨大な怪物となって人々を襲い、丸呑みにして行くのである。よって普段おとなしく見えるもの程、それが膨大に一気に来る時、それは牙を剥いた恐ろしいものとなる事を私達は、常に肝に銘じておかなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

人にとって、本当に、誤った道から立ち直らせる唯一の方法は、ショック療法しかないこと。この世の中の教育は、何でも初めから失敗させないように、まるで、決められたレールの上を走る電車のような教育の仕方をする。あなたは、盗んではなりません、あなたは、人を殺してはなりません、などと毎日言い聞かせて、口すっぱく言うが、それを聞いている子供は、将来、何も盗まない、人も殺さない人間になるかと言うと、決してそうではない。人は成人すると昔の面影もすっかり無くなり、別人のようになってしまうのである。すべての人は皆、小さい時から教育を必ず受けているはずなのに、この世の中はいつまでも、盗みや殺人は無くならない。これはどうしてかと言うと、何故人は盗んではいけないのか、何故人は人を殺してはいけないのか、というきちんとした理由と説明をしないで、ただ、そうしてはいけないと言うだけだからである。ただ知識だけでそれを知っているだけでは、罪を犯す抑止効果とはならないからである。そうしてはいけない理由を実際に身をもって背負わなければ、人は、本当に罪の重さを悟る事が出来ないからである。そう、実際に身をもって背負うという事は、いっぺん罪を犯さなければならないという事である。例えば、ある人が、誰かを殺してしまって、何の反省も無いとしても、その仕返しとして、自分の大事な子供を殺されたとする。この時初めて、人を殺したその人は、殺人が如何にいけない事かを、身をもって知るのである。すなわち、人は、取り返しの付かない事をしてしまって手遅れになって初めて、自分の犯した罪の重さを知るのである。これこそ真の教育に他ならない。要するに、人生を失敗させないように育てても、それは無駄な行為なのである。人は失敗して初めて教えられるのである。何故こう言うのかと言うと、神エホバでさえ、御自分の目の玉に入れても痛くない程に、愛している人類という子供に対して、あえて人が神を捨てた事柄の代償を人類に負わせる事を許す事により、人類を間違った道から立ち直らせるショック療法(荒療治)を選ばれたからである。何故なら、神はモーセを通して人に律法をお与えになり、聖書の出エジプト記20章13節からある様に、あなたは殺人をしてはならない、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、と書いてあるのである。しかし、これをもっと正確に言うならば、あなたは殺人をしてはならない、何故なら、あなたは必ず殺人をするからである、あなたは姦淫を犯してはならない、何故なら、あなたは必ず姦淫を犯すからである、あなたは盗んではならない、何故なら、あなたは必ず盗むからである、という事になるのである。すなわち、神は、律法を人類に背負わせる事によって、自分達の罪が必ず明らかになる様にされたからである。罪への自覚、これこそが真の教育なのである。