高田義裕の人生論

今日の箴言

神を信じていない者も、実は神を信じている。これはなぜかというと、神とは、究極の目標で、夢中になり、憧れる、崇敬の対象と定義する。すると、その人が神を信じていなくても、その人にとって、お金が心の拠り所なら、その人にとってお金が神なのであり、彼が名声を追い求めているのなら、彼にとって名声が神なのであり、また、彼女が恋愛に夢中なら、彼女にとって恋愛が神なのであり、またある人が無類の酒好きなら、その人にとって、お酒が神なのであり、またギャンブルが止められないなら、その人にとって、ギャンブルが神なのである。よって、神を信じていなくても、すべての人には、何かしらの自分が夢中になっている事柄が必ずあるのであり、その意味においては、誰もが皆、何かしらの神に夢中になって信じているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中で、最も危険で、最も愚かで、非現実な考え方であり、そうして、誰もが全く信じ込んで、頭から疑わない、一見、最もらしく映る考え方とは、すべてただ一つ、真理とは何であるかという、真理を突き詰める対象であるかのように見なして、それを追求する考え方のことを言うのである。これは人間がたやすく陥る、最も人を堕落させるものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

世の中のことは、常に、視野を広くとって、全体を考慮に入れて判断すべきこと。すなわち、この世の中、嫌なこともあれば、楽しいこともあるし、悲惨なこともあれば、建設的なこともあり、貞潔なこともあれば、淫らなこともあるというふうにである。このように、ある一方を重視し、他方を軽んじて、偏った見方をするのではなく、常にバランスを保ち、平衡の取れた見方をしていけば、ある一方的な考えに縛られたり、捕らわれたり、取り憑かれたりすること無く、平安な状態でいられるのである。しかし、人々は、それぞれ沢山ある中の、単なる一つのことばかりを頭に押し込めてしまうことにより、頭がおかしくなったり、苦しんたり、悩んだりするようになるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

同類は、互いに知らずに集まっていること。

2.現実は、私が思っていた以上に、全く予想を遥かに超えて、複雑であり、強大であり、巨大な存在であったのである。これにより、少しばかり人より差をつけても、全体から比べれば、何も変わらないのに等しいことに、全く気付かされたということである。

3.人は同じ人に対して全く無知であり、全く無力な存在であること。なぜなら、ある人にとって、必要不可欠な助けがあって、人がそれを助けたくても、それが、その人にとって、お節介や、失礼なことであったりしてしまうからであり、人が人にできることには、自ずと限界があるのである。

4.自分の限界を知らない者は、自分を知っていない者であり、ほとんど何もしたことのない者であること。

5.私は一つだけ悟ったことがある。それは、人にとって、辛い思いは、本来、初めから一つとして経験する必要のない、全く余計なものであるということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何かのことで辛い時には、常に、自分だけでなく、皆、人間である以上、立場は皆、同じであることを思い起こすべきなのである。

2.他の人に対して、憤りを感じたり、許せないと思える時には、その人の非とする所が、自分にもあるのだ、ということを常に思い起こすようにすべきなのであり、その時にこそ、すべての人間は平等であり、同等であるという考えが有効なものとなるのである。

3.すべて人は、熱情と静かさ、強さと優しさ、清さとエロスという一見互いに相反する人格的特質を同時に身に付けられた者こそが、人格的に幅のある、真に魅力的な人間になれるのである。

4.この世の中は、あくまでも、人の心のあり方、持ち方次第で、生きるのが、生き地獄のように辛く感じられるものにもなれば、また、天国のように、自由を満喫できる快さを感じられるものにもなるのである。

5.一般論など、各人にとって、ほとんど、何の役にも立たないものであること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

心のこもっていない高価な贈り物よりも、安価であって取るに足りない物であっても心のこもったものの方が、人は非常に喜ぶこと。なぜなら、すべてを決めるのは、物ではなく、心だからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は身の程知らずになってはいけない。何事も、自分はいかなる者なのか、常に努力して見いだし、模索し、自分の立場はいかなる者なのか、今、自分はどのレベルにあり、どの方向で、どの位置にいるのかをわきまえ知るようにならなければならない。そうすれば、勘違い人間にならずに、他の人から悪く言われないようになる。人間関係の問題の根っ子は、互いに自分のことをよくわきまえていないことに拠るすれ違いから生じるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神の音信は、すべての人の心に、すべての人がその初めから持っている良心を呼び覚まし、そして鼓舞するものとなっているのではありませんか。

2.たとえ、誰であっても、人間を侮ってはならないこと。なぜなら、どんなに低く見えるような者でも、プライドは持っているし、また、どんなに何も考えていないように見える者でも、ちゃんと考えを持っているからである。なせなら、我々は皆、神に似た形で造られた人間として生まれているからである。

3.こと、神に関しては、この世界にある一切の考えや常識、良識や正論は、全く通用しないこと。なぜなら、それは神だからである。神はすべてのものを超越した存在だからである。

4.すべて、案ずるより、生むが易しである。

5.各々の人生の幸、不幸は、すべて各人の心のあり方、持ちよう、気持ち次第で決まること。決してその人の過去や境遇や生い立ち、そして、持ち物で決まるものではないこと。なぜなら、どんな過去を背負っていても、将来の取り組み方次第で、どうにでも変えられるからである。過去を引きずるな。常に前を向いて歩いてゆきなさい。

6.人間にとって、物事を見定めていく上で、どれだけ頑張っても、長くて10年が1単位であり、それに対し、神は最低でも、1000年で1単位であること。

7.余りにも美味で、贅沢な、栄養価の高いものばかりを食べていると、それだけ糞便も臭くなるし、顔には、シミができること。要するに、ろくなことはないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

単に、なんとなくそれを知り得ていて、頭では理解していることと、実際に本当にそれを分かっているということとは、全く別物であること。これは、言うだけで、行わなければ、結局、一つの実行にも及ばないことと同値である。

2.孤独は決して人にとって悪くて不必要なものではない。なぜなら、人は、誰でも、一人にならなければじっくりと考えられないし、一人にならなければじっくりと休めないし、一人にならなければ、本当に疲れた時、遠慮せずにストレスを発散させたりできないし、本当に悲しい時、遠慮せずに泣くこともできないからである。人間はただ一人でいる時間を持つことも必要なのであり、決して、群れていることだけがすべてではないのである。

3.今悪いということは、それ以前は良かったということである。また、今良いということは、それ以前は、悪かったということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本来、何も知らない愚かな者に対してのみ、初めて知識や知恵という形で呼ばれる賢さというものが必要とされ、有効とされるのである。よって逆に言えば、何でも知り得ていて、自分の必要なものをすべてわきまえているならば、知識や知恵と呼ばれる賢さなど、全く必要でなく、無駄なものなのである。よって、自分には知識や知恵があり、賢いと誇っている者は、自分が愚か者であることを声高らかに宣言し、自分の愚かさを誇っている者なのである。

2.人間は正しくなろうとしてはいけない。現実は、自分の弱さを捨てようと努力したり、また、自分の弱さを克服しようとしたりすることは、非現実でナンセンスなことなのである。そのような夢物語の理想論に騙されてはいけない。実際には、人はあくまでも、弱さを持っていることは当然のことであり、それこそ、本来の正しい状態なのである。よって、自分にとって、できればあって欲しくない自分の弱さを捨てようと努力するのではなく、自分なりに工夫をして、自分の弱さと対自し、上手に自分と共存させ、付き合って行くことこそ、真実であり、人の本来の真っ当な姿なのである。

3.誰か一方の満足の為に、他方が満足できないという、どちらか一方だけに偏って良い、という状態であっては決してならないということであり、むしろ、他方が喜べば、もう一方も喜び、他方が悲しめば、もう一方も悲しむというものでなければならないのである。よって人間は、他の人より勝る為に競争するのではなく、互いに相手の必要を顧みる点で競争すべきであるのである。