高田義裕の人生論

今日の箴言

一神教の闇

ある人は言う。人類の歴史を紐解いて見ても、常に、争い事を引き起こしているのは、一神教を信奉している民族ばかりであると。それはユダヤ教徒であり、イスラム教徒であり、キリスト教徒であると。なぜ、一神教が争いを生むのかと言うと、それは自分達以外の神々を認め無いからである。すなわち、自分達、唯一神を認めている者達以外は、すべて異教徒として区別され、差別を生み出すからである。よって、彼ら以外の世界や文化や文明はすべて、自分達より野蛮であり、遅れていて、間違っており、私達が全世界に、自分達の、正しい神の教えを広めて、征服しなければならないと言う、選民思想が生まれるからである。そこには、一切の妥協案も無ければ、共存共栄の精神のかけらも無い。これこそが争いを生む原因であると。確かに、一神教の国々では無い、アジア地域では、宗教が原因で起こる争いというのは、珍しい事である。彼らの考えには、自分達の宗教観を世界に広げなければならないと言う、征服心や野心から来る義務感とか使命感は無い。すなわち、そこには、自分達の文化だけが一番正しくて、それ以外の諸国民の価値観なり、文化は自分達よりも劣っているという、相手を見下した考え方は無い。むしろ、日本人の様に、いろんな宗教に対して寛容で、結婚式はキリスト教会で挙げ、死んだ時には仏教で葬いするという、いろんな宗教が入り混じった、端から見たら、自分の信念など何も無い様に思える国も存在する。それでは、一神教は過激な思想に結びつくものなのだろうか。確かに、道を踏み外すと、自分達の価値観だけを押し付ける、非常に、排他的、閉鎖的な組織と成りかねない危険性は潜在している。しかし、ここで改めて、一神教の意味を考えて見よう。なぜ、彼らは1人の神だけを信奉するのか。それはもし、いろんな種類の複数の神々が存在しているとしたら、彼らは、各々互いに競い合って、争い事が絶えなかった、という歴史上の経験的反省があるからである。すなわち、皮肉な事に、争いを無くす為に、昔からあった多神教を廃して、ただ1人の神だけを崇拝して互いの民族同士の分裂を回避し、民を一致させよう、とする役割を果たして来た歴史上の事実があるからである。よって、一神教とは、使い方次第で悪くも成り、良くも成るという双刃の剣なのである。台所で使う包丁だって、人に向ければ、凶器とも成るし、食材を切る事に使えば、重宝するのである。これは今、アメリカで社会問題になっている銃社会のあり方とも重なっている。アメリカは昔からフロンティアスピリッツの精神で発展して来た国であり、自分の身は自分で守る、という自立精神、すなわち、フリーダムの信念が彼らを支えている。その精神がアメリカの銃社会の根底を支えており、この間から、何回も見聞きする、銃による無差別殺人事件が多発していても、銃社会の慣習が容易には変わらない事の要因である。すなわち、結論として、一神教の考え方も、銃社会も、それ自体が悪いのでは無く、それらが、悪用される事によって、悪いイメージだけが先行しているだけなのである。要するに、すべての事は使い方次第であるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分の妻をめとる時は、その女性の現在の状態だけを見て決めるのでは無い。そうしてしまいがちなのは、若気の至りなのであり、浅はかな態度なのである。妻を選ぶ時は、たとえ、その女性がどれほど有能で素晴らしかったとしても、その本人の今の状態だけを見るのでは無く、その人の背景やそれまでの人生の足跡、その人の両親の背景やそれまでの足跡をまず何よりも優先して吟味すべきであり、その後に初めて今ある彼女の現在の状況が浮き彫りにされてくるのである。これはより真実に近い、物事を正しく、そして的確に捉える為の最低限に守るべき事柄である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

不完全である今の人間は、私自身も含めて、冷静で正しく、物事に対して評価するという能力が甚だしく低下しており、人はそれぞれ自身達の主観で物事を判断する傾向にあるという事である。よって何でも、人の述べる事においてそれを聞く人は、それを全部事実の事として受け入れてしまうのでは無く、人の話す事は事実とは少し違った、当人の思い入れや希望や期待などの入り混じった多少デフォルメされたものとして半分に聞いておく方が良いのである。よって、ある人が誰かの噂話をして、その人の事を悪く言う場合、それを聞いたあなたはそれをそのまま、また別の人に伝えてはならない。そこには必ず、人が大げさに話を面白くする為の嘘が必ず不純物として混ざり、話を大きくしているからである。その話はエチケットとして、他の誰にも話さず、自分の所で止めてしまっておくべきである。なぜなら根拠のない噂話は、広まると、それを言われた本人に多大の被害を与えてしまうからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

私達の神はおられるはずであるとか、神がいてほしいという、単なる人間の一方的な臆測や希望の延長線上に神がおられたりするのでは無く、私達人間の好みによって神が介在しておられる訳では決して無いのである。ただ、私達に対して、聖書の意図している事は、まず、一方的に我々より先に存在している神の与え賜うた規準に従う事しか我々人間には出来ないという厳粛な事実であるという事である。すなわち、神を信じる者は、その人が神を信じたからでは無く、神がその人を神を信じる様にされたのであり、また、神を信じない者は、その人が神を信じないのでは無く、神がその人を神を信じない様にされたという事である。すなわち神は私達人間にとって、絶対者なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私が、聖書の神からの知識を正しく学んでいなかった時分、今から思うと、本当に愚かで、無知であることを思い知らされる事とは、いろいろな君主制や絶対王政の圧制的支配によって、民衆は常に歴史上、苦しめられて来たという事を学校などで学んでいたため、民主主義というものが、全く人間にとって、考えられる唯一の素晴らしいシステムだと信じていた事である。しかし、神に拠る正確な知識を幾らか教えて貰った時、それまでの自分にとって、拠り所であり、確信して疑わず、むしろ自分にとって誇りとしていた考え方や観念という富を一切崩されるほどの精神的革命、いわゆるパラダイムの変換が私に到来したのである。それは、実際には、王政、君主制というものが、一番人間にとって考えられる唯一の良い支配の仕方であるという事である。ただ、人間がその制度を用いてしまう場合、どうしても絶対的権威は絶対に腐敗してしまうという事である。よって、良い王が臣民を正しく支配するなら、それは一番、人間にとって豊かで、平和で、安心出来る、安定した支配制度なのである。その点で考え直すと、民主主義とは実際には衆愚政治を生み出し、貧富の格差を広げるだけの無秩序を生み出すしろ物に過ぎ無い事が明らかになって来たのである。結局、人間には、常に模範とすべき、力ある有能なリーダーという存在が無ければ人類は一致せず、争いと分裂を繰り返すだけの生き物なのである。よって、人類にとって最大の益となる、唯一の正しい支配の仕方とは、神を王とする神権支配政治なのである。よって、人間が神の代わりをする時代は既に終わってしまったのであり、これからは、本当の神御自身が人間を臣民として永久に支配する時代が到来したのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たとえ、どれだけ人の数が増えても、神の目から見て、1人にしか過ぎ無いこと。

2.人間のどんな取り組みや試みも、最後には、神に栄光が帰される形で帰着すること。

3.たとえ、自分は騙されても、自分は他の人を騙さ無いこと。

4.常に、正直、勤勉、感謝の心構えで物事に取り組むこと。

5.すぐに憤る者は、あまり頭の使わない人間の典型的な特徴の1つである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分1人だけが、一番幸せになるという考え方は、全くの非現実でナンセンスなものであり、全体の幸せが、初めて個人の幸せをも確立するものなのである。よって、共存共栄の精神態度こそが、人間の持つべきものの最高の価値なのである。

経営論

常にお金をより儲ける事を考えるのでは無く、常にお金を流動させる事だけを考えて行く事が、他のすべての企業にも良い影響を与える、企業が最も永続出来る良い経営の仕方なのである。

3.人の処世訓は、生き延びる事に関するものであるが、神の知識は、人はどう生きるべきかという事に関するものなのである。これは、同じ[生]であってもだいぶニュアンスが違うものであり、[生き延びる]と言う事は有限であり、限界があるものであるが、[どう生きるべきか]と言う事は無限の問いであり、最初から永遠的なものなのである。

4.神の言われる[~してはならない]は、[~する必要がない]と言う事を、初めて意味するものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人の言いなりになって、人の言われた事に従うだけで良いのなら、実はそれほど楽な事は無いのであり、何事も、自力で新しい道を切り開いて行く事が、一番たいへんで、しんどい事なのである。

2.人は極楽的な退屈さには、耐えられない様になっているのである。もし、その様な状態が長引けば、人はむしろ、ハプニングやアクシデントでも起きて欲しいとさえ思いがちになるからである。

3.どんなストレスも、少しの間なら全く問題は無いのである。ただ、それが長引くかどうかで、深刻な事になるかどうかが決まるのである。

4.まず他の人の良い面を見つける事に貪欲であり、目ざとくありなさい。それが人間関係のすべての初まりだからである。

5.まず他の人の悪い所を見つける事に疎く、鈍感でありなさい。それが人間関係を潤滑にする秘訣だからである。

6.どんな悪しき事も、また、どんなによこしまな事も、また、どんなに淫らな事も、そしてどんな被造物のどんな営みも、それらの事が全く、思いのままに、望みのままに見過ごされ、その存在を許されているのは、ただ1つ、神エホバの主権の正しさの回帰のため、そして、立証される為だけの理由に拠るのである。すなわち、すべてのものは、神のため、神の故に、また、神に拠る為に創造されているからである。アーメン。

7.すべてのあらゆる立場の人間は、次の事を考慮に入れるべきである。すなわち、自分の幸せの為に生きるのでは無く、まず、神の為に生きていくべきである事である。それが結局は、すべての人間の真の幸福だからである。

8.神を否定する者も、神を少し信じている者も、また神を全く知らない者も、また他のどんな者も、最後には神エホバに関連した事柄によって裁かれるという事である。

9.人の観点は、どうやったら生き延びられるかにあるが、神の観点は、生きていく資格があるかどうかによって測られているのである。

10.まず、自分が人にして貰いたい事をあなたから先に人に与えなさい。それが自分が受ける事の初めての一歩だからである。

11.多く持っている者はより多くを求められ、少なく持っている者は僅かしか求められないからである。不公平はありません。

高田義裕の人生論

神エホバが、アダム以降の人間の子孫達を憐れまれた理由は、現在、不完全である私達人間が、自分達の内に確かにある現実、すなわち、自分にとってそれが明らかに悪いこと、良く無いこと、おかしいこと、である事柄を十分に認識し、かつ、よく自覚し、分かっているのに容易にそれを止める事が出来無い、もしくは、なかなか止められないという、自分達の意志や望みとは別に自分の内に既に宿っている罪があらゆる悲劇を生んでいるというジレンマの苦しみを知っておられるからである。

2.自分に不利になる事を話さない事と、嘘をつく事とは違うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

無価値が無価値を支える事は出来無い。愚かさが愚かさを支える事は出来無い。無知が無知を支える事は出来無い。では、過ちを支えてくれるのは誰か。それは過ちを犯していない者なのである。私達は実に罪深く、いろんな過ちを犯す。それで世の中に罪が蔓延し、悪が満ち溢れているのを見て、人々は悲嘆し、神などいないと言う。しかし、それは逆である。罪深い悲惨な事柄が存在すればするほど、それは神の存在の確かさを証明するものとなるからである。なぜなら、悲惨な事柄を悲惨な事柄としてその存在を許す事が出来るのは、正しい事柄が存在するが故にだからである。すなわち、病気の者を支えてやれるのは、同じ病気の者では無く、あくまでも、健康な者だからである。例えで考えて見ると、今、1人の盲人がいて、自動車が激しく行き交う道路を横断しようとしている。もし、盲人が盲人を手引きするなら、2人とも自動車に跳ねられて死んでしまうであろう。やはり、盲人を案内するのは目が見える健康な人がするのであり、愚かな者が愚かな者を導くのでは無く、賢い者が愚かな者を導くのである。また、私達は自分のした事さえ、昨日の事も忘れてしまっているが、それは逆に言えば、すべての事を忘れる事なく、全部覚えておられる存在がある事を証明している。それは神である。あなたは傷を付けるとき、既に傷が付いているものに傷を付けたからと言って、それは傷を付けた事にはならない。あくまでも、最初から傷が付いていない清くて正しいものに傷を付けてこそ、初めてそれは傷を付けたという事が言えるのである。よって、この世界に悪が存在できているのは、善という正しい方、エホバ神が存在しておられる故になのである。なぜなら、悪という傷が、悪という傷に傷を付けるなら、悪自体が分裂している事になり、悪は悪としてその存在を成立させる事が出来無いからである。