高田義裕の人生論

今日の箴言

人は誰であっても、相対的に言って、皆、立場は同じである。なぜなら、あなたはAさんより立場は下であっても、また、Aさんには、Bさんという自分より上の立場の人がいるからである。そして面白いことに、Bさんは、あなたの弟の親友であったりする場合があるからである。このように人間関係とは、複雑で一筋縄では説明出来ないほど、多様性に富んでいるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人は、私も含めて、自分にとって、都合の良いことしか考えず、また、他の人の羨ましい部分だけしか見ていないのである。よって、物事の裏側や、影にある、本当の姿や、その人の真の事情、すなわち、苦しい思いや、大変な努力によって、初めてそうなっているということの全体を、捉え損なっているのである。要するに、およそ、この世の中で、ただで喜べたり、ただで、楽して楽しめたりできることなど誰一人としていないということである。すなわち、すべて、今、楽しんでいるように見えている人は、過去に、非常な悲しみを必ず経験しており、すべて、今、上の立場にいる人は、過去に、ひどい差別を受けて、ひどい扱いを受けてきた人達であり、今、富んでいるように見える人は、過去に、飢え、渇き、ひどい貧困生活を味わってきた人達であるのである。これこそがまさに、廉直で当たり前の事実なのである。

高田義義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、洗脳されると聞くと、恐ろしくて、異常なことのように感じられるであろう。しかし、洗脳には、二種類の種類があって、それは明らかに悪い洗脳と、良い洗脳がある。前者は、議論の余地無く、悪いが、後者はどうであろうか。良い洗脳というものは、果たしてあるのだろうか。それは、教育である。教育と書けば、聞こえはいいが、それも洗脳の一種なのである。ただ、悪い洗脳と明らかに違うのは、洗脳を施す側に利己心や悪意は無い、ということである。すなわち、洗脳する側も、洗脳される側も、どちらも、その洗脳思想、もしくは、洗脳的価値観を正しいと思っていて、良心からの気持ちで行なっており、両者の身分関係も、主従の関係ではなく、互いに同等な関係にあるということである。よく、正しい洗脳なら、それは別に間違ってはいないのではないかと言われる。それでは、正しい洗脳とは、正しいのであろうか。いや、それは正しく無い。洗脳は、あくまでも洗脳であって、それは良くないことなのである。なぜなら、それを行うことによって、たとえそれが人に対して良い方向に作用したとしても、所詮、それは洗脳であり、洗脳とは、人間の思考を停め、考えることを辞める行為であり、それが果たして正当なものか、再考し、熟考し、吟味し、議論し、疑ったりする人間の正常な自由を否定するものだからである。また、その考えのすべての傾向が、誰にでも理解できるように、単純明解であり、ワンパターンで、人間の言動を一つの型枠にはめてしまうものだからである。よって、洗脳思想にとって、それに少しでも疑ったり、疑問を持ったりすることは、決して許されない聖域であり、タブーであり、悪なのであり、もしそれが少しでも生じるなら、直ちに排除されねばならないものなのである。そこには、思考の自由は無く、議論も無い。また正しい洗脳の特徴としては、自分達が、予想もしなかった新たな問題には、全く対処出来ない。それを、客観的な態度で、改めて考え直したり、推理することが出来ない。ただ、それを無視するか、自分達にとって、全く理解出来ない異物として、廃棄処分されてしまうだけなのである。よって、結論として、この世界に、絶対的に正しい、あらゆるすべてのものに共通する真理とか、思想は存在しないのであり、この世の中に無数にある、あらゆる種類の教育は、あくまでも、洗脳の一部に過ぎないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神に対する信仰とは、人格的存在である人間にとって、人間を生かしているすべてであり、根幹であること。それは、他のすべての行為よりも、遥かに勝る、一番大事で、必要不可欠な要素である。よって、信仰とマインドコントロールとは、全く逆のものということができる。なぜなら、信仰とは、あくまでも、人の自発的、積極的な気持ちの究極形であり、それは、まだ見ぬ、まだ成されていない事柄に対して、相手を全く信用することであり、それゆえに、あたかも、既に見たかの様に、確信を持って行動するという、人間関係や精神の最も価値ある要素だからである。それに対して、マインドコントロールとは、全く強制的、かつ消極的で受け身的な、決まりきった動作の繰り返しに過ぎないのであり、それは、既に与えられている主従の関係であり、それ自体には、何のリスクも責任も伴わない無活動なものなのである。これは価値の最も無いものの一つであるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人の人生とは、その母の胎から生まれ出た時から始まるのでは決して無く、その人が挫折し、失敗した時から、初めてその人の人生が始まるということである。

2.親が、自分を律することが出来なくて、自分の子供など、律することなど出来ないこと。ましてや、他の人を律するなどもってのほかなのである。

3.言うだけで、実行しないよりは、言わないで、実行しないことの方がましである。

4.ライオンは、たとえ、うさぎを捕まえるにしても、全力を尽くす様に、人も、常にどんな些細な事に対しても、本音で、本気で、全力で対処していかなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて、何がカルト(狂信的)なことなのかでは決して無く、あらゆるすべてのものがカルト(狂信的)になる可能性を持っているのである。すなわち、それ自体は他の人から見て、カルト的なものではなくても、ある人に対して、それがカルト(狂信的)の様に作用した場合、それがその人にとって、初めて、カルトなことになるということである。例えば、ある有名人には、多くのファンがいるが、そのファンのなかでも、あくまでも、適度な距離を置いてそれを楽しんでいる人達にとって、その有名人は、カルトとしての存在ではないが、もしファンの中で、その有名人の私生活やプライベートなことにまで、熱烈に関心を持ち、その有名人の自宅を探してまで彼を独占したいと思う様になり、思い煩うほど、頭の中がいっぱいになっているとしたら、それは、もはや、ファンの域を超えて、その人に対してその有名人はカルト的に作用していると言えるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たとえ、きちんとすることさえも、そればかりでは、疲れきってしまうのである。大事なことは、きちんとすべきことはきちんとして、そうする必要のない時は、いい加減でもいいということである。すなわち、いつもきちんとしていなければならないという考え方は、間違いであり、手を抜いても良い時は手を抜いて、楽をすれば良いのである。よって正しいのは、きちんとすべきことはきちんとし、いい加減にすべき時は、いい加減にすれば良いということである。いつもきちんとしていては、息が詰まって耐えられなくなるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誇れる理由の多さは、災いの多さに比例すること。

2.見栄、打算などと言った、余分なもの、すなわち、偽りは、所詮、いざという時には、飛び去ってしまうものなのであり、結局は、真実さだけが残るのである。この世の中を渡っていく上で、真実さしか通用しないように、初めからそうなっているのである。

3.本来、役立てる為に、情報を集めていたものが、知らず知らずのうちに、情報を集めることだけが、目的になってしまうことを、マンネリ化すると言い、同様に、人生の自分の目的の為に、お金を稼いでいたのが、知らず知らずのうちに、お金を貯めることだけが目的になってしまっては、それは、全く無駄な行為であり、意味を成さないこと。

4.相手を信用して、心を開くとは、相手に対して自分の弱みと急所を見せる、もしくは、無防備な自分を晒すということを意味するのである。果たしてあなたには、そうできるだけの、信頼出来る友がいるだろうか。ただ、暇つぶしのための友人しかいないのが誰もの本音ではないだろうか。それだけ、私たちは、普段、浅い人間関係しか築いていないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、各々、自分の弱点によって、滅びるのではなく、人は皆、自分が得意とすることによって、滅びること。

2.人は、全き悪にも耐えられないが、また、人は全き義にも耐えられないこと。

3.この世界で、自分が初めから決して出来ないことに、必死に行おうとし、また、行えると信じていることほど、無駄なことはないこと。

4.悪を行うこととは、義を行う必要がないのに、義を行うことに等しい。

5.何もしたことの無い人間ほど、自分は何でも出来ると思いがちであり、逆に、何でもやっている人間ほど、自分は何も出来ないと思っていること。

6.より強い者ほど、恐ろしさを知っており、真に強い者ほど、真の弱さを知っていること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書の聖句にあるように、人が、各々の災いに見舞われる原因のすべては、その当人の、欲望の咎によってのみ、引き起こされるのであって、いかなる他の人や、外部からの力や影響力によって、引き起こされるものでは決してないこと。