高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて、知識自体に何か価値があるのでは決して無く、すなわち、すべて、知識の内容であるソフトに値打ちがあるのでは無く、ハードであること、すなわち、その今の状態よりも先の事を知っているということ、つまり、情報の先取り自体にのみ価値があるのである。ただ、その事を悟らず、その情報そのものや、知識の内容自体に価値があると思い込んでしまうこと、これが偶像崇拝の意味するところなのである。すなわち、偶像崇拝とは、行動を停止すること、思考の停止に他ならない。例えば、ある自動車メーカーがあって、今最新のモデルの自動車を発売したとする。しかし、それも何年も経つうちにそのデザインも、その機械の性能も時代遅れになって古くなって行く。だからすべての自動車メーカーは、その後、次々と新しいフルモデルチェンジを行って進歩して行くのである。しかし、ある1つの自動車メーカーが2018年に製造した最新の自動車を発売した後、その2018年製の自動車が我が社の作った自動車の中で最高のものであると評価し、それ以上自動車を改良して新しいフルモデルチェンジをする事を止めてしまったらどうなるか。すなわち、それでもう最高のものだと思い込み、思考を停止してしまったらどうなるか。確かに2018年の時点では、これと無い最高の自動車であったとしても、この後、何年も経つうちにその自動車の性能もまた古くなり、時代遅れになって行く。時代は刻々と変化しており、その流動性は激しい。常に人間はその流れを先読みし、時代の変化に対応して行かねばならない。しかし、ある1つの自動車メーカーは、2018年度製の自動車にこだわり続け、その後の改良なり、新しいアイディアなり、新車開発を怠り、2020年になっても2030年になってもその同じ車を売り続けるなら、最後にはどうなるだろうか。そう、他者の自動車メーカーの激しい競争について行けず、遂には倒産してしまうのである。これを1人の人間に置き換えて見るならば、ある1人の人が、ある思想に取り憑かれ、この思想こそ最高の教えだ、と思ってそれ以上、他の人々と関わるのを止め、それ以上考える事をせずに思考を停止し、その思想を偶像として崇拝し続けるならどうなるか。その人は人間社会の激しい流れについて行けなくなり、全く孤立し、そこだけが時間が止まってしまった様な状態になり、遂には、生きて行けなくなるのである。すなわち、廃人となってしまうのである。これが偶像崇拝の恐ろしい結末であり、人はこれこそ最高のものだ、というものを手に入れる事を目標にしているかもしれないが、それは、自分自身を破滅に至らせる非常に危険な考え方なのである。よって、人はこの世の中で最高の存在に成ろうとか、最高のものを手に入れようとする陥り易いその思考パターンを捨て、常に進歩する事に終わりは無く、人は永遠に努力し続けるしかない存在である事を十分に認識しておく必要がある。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰もがそれに対して暗黙の了解事であり、それを吟味して疑うことなど夢にも思わず、むしろ、疑う事を忌むべき事である、とさえ思われている、まさに世の中での常識事であり、人々の行動の指針であり、源泉となって来た権威ある命題の部類の中には、数多くの事実無根であり、実際には、全くの見当違いである事柄が存在しているのであり、現代社会においても、誤って知識として奉られ、権威の元に置かれているものが、余りにも多いのである。例えとして挙げれば、それは、あらゆる古今東西の有名な思想家や、知識人が好んで取り上げた疑問的題材、すなわち、[人はなぜ生きているのか]や、[人生とは何か]や、[生きるとは何か]などに代表される諸命題なのである。これらは実際には、決して解答の出ない、その初めから存在していない空理であって、全くの愚かな質問の系図に属するものなのである。それらに限って言えば、生きるという事に対して、その様な評論家的で他人事の様に、生きるという事を客観視している事自体が一種、異常で異質な状態なのである。生きるという事は、誰に対してもその本人にとって常に目の前の現実であり、客観視して考えるという隙間さえ与えられないほどの現在進行形的な主観そのものの事なのである。人は考えている時、自分は今、考えているなどとは思わないし、意識していないのである。これと同様に、人は生きている時、自分は今、生きているなどとは思わないし、意識していないのである。生きている事を客観視している事自体が、本当にその人が生きていない証拠である。今、サッカーの試合を見ている観客は、サッカーの試合を客観的に見ているのであり、それは実際にサッカーしている選手では無いからそう出来るのである。同様に、サッカー選手の様に、実際にサッカーの試合に出場している者はサッカーの試合を客観視などしている暇は無いのであり、人生とは何か、などという事を考えている時点で、その人は自分の人生という試合に出場していない、ただの観客なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は何でも知りたがるが、すべてを知ることが、必ずしも人間の幸福であるとは限らないのである。

2.それに従わざるを得ない程の決定的証拠や、非の打ち所がない公正さ、あるいは、ただ感心せざるを得ない、誰もが納得するほどの容易な説得力を出し尽くしてしまう事には、実は全く何の意味も無く、そこまで言い尽くしてしまう前に、相手にそこまでを自ら考えさせ、悟らせる様に、あえて曖昧にする事こそが人間関係の極意なのである。すなわち、全部言ってしまったらそれでお終いなのである。よって、答えをあえて、ボカして相手に考えさせる事に初めて意味があるのであり、それこそ良い教育の仕方なのである。

3.何が[悪]かと言って、正しくもなければ、悪くもない事、もしくは、何が悪いかをあえて、はっきりさせないこと、またしないこと、すなわち、その様な生ぬるさ、慢性さ、優柔不断さ、いい加減さ、曖昧さこそが最大の[悪]なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神エホバなる唯一無二の全能者であり、自分達の造り主であり、すべてのものの創造者である、真の天に住んでおられる父なる方から、人間は自ら離れ、神との直接の会話やその関係の親密さとコミュニケーションを失ってしまった。今日の海の波の様に、無秩序なさまに、ただ、あてもなくさざめく不穏な全人類のすべての営みによる多大な貴重な命と血の犠牲によって、かろうじて立っている諸体制や諸体型、いや人類そのものにとって、誠の神の代わりとして機能している権威あるもの、例えば、大多数の総意や、政府機関などのものが、突然、跡形も無く、それまでようやくコツコツと築き上げてきた歴史ある、すべての人間が、頼みの綱としてきた富と貴重な財産が一瞬にして崩れ去り、取るに足らないものとされる、神に拠る最後の審判の日に、人類が経験する狼狽ぶりは無理からぬものがあり、深く同情せずには居られない。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私も含めて、大半の人は、お金が無いから、お金を使えないので、自分の体と頭を使える時に、使えるだけ、使えるうちに適度な仕方で使うべきである。なぜなら、自分の体と頭を使う事に関しては、誰からも何も言われないし、それだけは、自分の自由であり、また、ただであるからである。

2.この世の中の、神を知らない人々の努力と労苦には、全く感心させられる。しかし、ただ1つ言える事は、その、せっかくの労力の向ける方向が適正かどうかについては全く別問題なのである。すべてこの世の中の有様とは、その本質を述べると、およそこの世の中に、固定された唯一の権威などと言うものは存在し得ないのであり、すべて、互いの立場に優劣というものは無く、言い換えて言うなら、すべての要素は権威たるものなのである。よって、ここで問題になって来るのは、すべて、使用する為の材料とも言うべき事柄は既に用意されているのであり、用は、その用い方いかんによって決まるという事である。すなわち、悪とは、何か固定された、それだけで悪という性質を持った純粋な要素が存在する事を意味しているのでは決して無く、悪とは、ある対象に対して、ある正しい用い方をするべきであったのにもかかわらず、それに対して間違った仕方、すなわち、不適正な仕方で用いてしまった場合にのみ、互いに生じる弊害の事を意味するのである。よって、この世の中のあらゆる人間の行っている、どんな誠実な努力も、それが、不適正な方向だけに偏って成されているという現状において、この世の中の諸体制は、非常に無駄の多く、アドバンテージの低い、悲惨で、機能効率度がゼロに近い末期的状態であるという事である。ただ1つ大事な事である事は、罪を悔い改めた人々や、神の名によって義を実践している人間達の事では決して無く、それらの者達を救い、成長させてくださる神エホバだけであるということ、すなわち、これだけを常に思いの中に控えて置かなければならないのが本来の人間の本分なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

10万円稼いだままで、そのままお金を取っておくよりも、その10万円で1つの情報を買え。それを元手に20万円にする為である。今の世の中は、既に腕力の権威は失われたのであり、情報を誰よりも先に知っている事が勝利の切り札であり、権威であり、力なのである。今日、情報化時代と言われて久しいが、これは単に、知識や情報を溜め込み、詰め込む収集家の意味では無い。そんな事は人工知能の方が人間より遥かに上手であるのである。そうでは無く、ある情報が必要になった時、その情報をいち早く利潤に変えられる、常に新鮮で、タイムリーな、無駄の無い創造的活動の事を言うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近になってようやく分かって来た事で、あらゆる人々が、また私も含め、人がごく当然の権利だと思っていた事柄で、決して当然な事では無いというルールとは、人同士が会話する事に関して、相手に対して質問をしても、それは当然の権利であり、要求であると思って、相手から当然返答が来るなどと決して思ってはいけないのである。むしろ、人間の初歩的権利とは、質問に答えないというところにあるのである。よって、私もあなた方も、自分の質問に相手が答えてくれないからと言って、決して相手に不満や怒りを感じてはならないのである。あくまでも、質問された側は、その質問に答える義務は無いのである。これこそ、人間の自由の権利なのである。よって、あなたが相手に質問する時は必ず、自分の側がその質問をする事が出来る立場にあるかを考えてみる事である。もしかすると、あなたには、その質問をする資格が無いかもしれないからである。よって、相手に不適切な質問をした場合、あなたは、相手の権利を、笑顔に拠る暴力によって、侵害した事になる。よって、質問する時は、まず、その質問が当然成立出来る様な状況に前もって自らを設定し、準備するべきなのであり、また、そう出来るレベルにまであなたの立場がなっていないとすれば、質問の内容をこちらが、相手の気持ちを計らって、相手が答え易い質問をすべきなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間とは、実際には生きる事に関して、漠然と生きていければそれに越した事は無いのである。しかし、現実はそう、たやすくはその様に出来てはいないから、わざわざ、ある目標を掲げるというスタイルを取るのである。そうすれば、生きて行く事に関して、不器用な者でも、何とか生きる方向付けを見つける事が出来るからである。

2.人間の為すべき事とは、まず第一に、お互いがお互いに愛し合って行く事を、自分の能力に応じて、自分らしさによって、実践して行く事である。そして、第二に、何事も、誰からも愛想を尽かされた誰にも同情されない、愛されていない者達を愛すること、すなわち、彼らに対して溢れるほどの愛情を与えるべき事なのである。それこそ神の道である。神を信じる者、神を愛する者達はこの事を考慮に入れておくべきである。なぜなら、すべての人を生かしているのは神であり、神は義なる者にも邪悪な者にも御自身の太陽を昇らせ、親切にしてあげても感謝しない者達に対しても最後まで愛を示しておられるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近ようやく分かってきた事であるが、人は良い事を行うこと、良い心になること、立派になること、すなわち、聖人の様になることが人生の心構えでは無く、目的でも無い事である。その様な事は、二の次にやって行けば良い事であり、最も大切な事は、あくまで、ありのままの自分を見せられる様に努力して行けば良いという事である。人は日々、自分の本当の姿を偽って、無理をして自分を人に良く見せようとするのでは無いだろうか。そんな必要性は全く無い。人間は嫌われる必要も無いが、好かれる必要も無いのである。裏表のある人格を捨てよ。あなたが他の人達といる時の自分と、自分1人でいる時の自分とを一致させよ。ありのままの自分を人に見せられる様に努力せよ。要するに、もっと気楽に考え、人間関係を堅苦しく、深刻に考える必要は決して無いのである。いつも人の機嫌を伺って、その場の空気を読む事などしていると、精神的に参ってしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

昨今、人間は昔からそんなに変化していないのに、現在、ストレス社会が社会問題として浮上して来たのは、実際、人間一人一人の心の状態が、自分の立場ばかりを重んじ、自己主張の強い利己主義的傾向になって行ったからである。この事によって、その様な傾向が比較的薄かった昔の人々は、現代人の多くがストレスと考えるものをストレスとは見なさず、また感じなかったのである。よって、ストレスの原因はほとんどが、そのストレスを感じている人間達自身が、無意識に創り出してしまっているというのが真実のところである。よって、彼らは余りにも自分の立場を意識し過ぎている、すなわち、損得を考え過ぎているのである。これは、生産性の向上とコスト削減を重視する現代社会の現代病の1つであろう。よって、あまり自分の立場を意識しない様にし、自分の都合よりも、まず他の人の立場を優先して気遣うという利他的精神を培うよう努力するならば、ずいぶんとストレスが軽減され、肩の凝らない、堅苦しくない、楽な人間関係が築き上がって行くと思われる。