高田義裕の人生論

今日の箴言

私達にとって、最大の慰めの言葉の一つは、悔い改める者を、神エホバは快く許してくださるという、人に悔い改める時間と猶予とを与えてくださっている、思いやりのある言葉なのである。

2.無分別から無分別が出るのではなく、悪から悪が出るのではなく、病から病が出るのではない。それらは、真理というものが、まず最初に大前提にあり、それから逸れることによって出たものなのである。

3.どんなに時代が移り変わっても、ただ一つ変わらない、また注意しておかねばならないことは、自分自身の身は、自分で守るしかないというサバイバル的な自衛の精神なのである。

4.苦しみが、一人歩きしているのではなく、基準(正常)から逸れることによって苦しみが生じるのである。よって、逆説的であるが、悪や苦しみが確かに存在することは、誰もが無条件に認めることであるが、それが、皮肉なことに、正しい神エホバが存在するということを、同時に証ししているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たとえ、どんなに立派な理由があるにしても、それによって、自分が驕り高ぶる結果になるものであるならば、それはすべて、忌むべきものである。聖書は、むしろ、驕り高ぶるよりは、自分自身を愚かな者と見なしなさい、と薦めているからである。何故なら、自分の美しさと聡明さに自惚れて、自分が神に成ろうとした最初の者は、悪魔サタンだからである。

2.この世では、真実は、常に脚光を浴びて、表舞台に出てくることはないのである。何故なら、この世の大部分は、偽りを基礎として成り立っているからである。常にこの世界は、きれいなところだけを見せて、本当の現実である醜くて、悲惨な状態を人々の目から覆い隠しているからである。

3.偽りは、常に目立つことを好むのに対し、真実な者は、常に、自分の栄光を覆い隠す。

4.私達人間にとって、救いとは、切望のことであって、勝利や栄光に類するものでは決してないのである。

5.ただ、無知であった為に、違反を犯すよりも、はっきりとそれが悪いと知りながら違反を犯すこと、それこそが、聖書の言う罪なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

何らかの宗教に入る動機は、常に積極的姿勢で、自分の人生を向上させる能動的姿勢でなければならない。心の救いや拠り所を求めて入るのならまだ良いが、決して現在の、今ある自分の問題からの現実逃避の為の、安易で消極的な動機であってはならないのである。そういう心の不安定なふらふらした若者の弱みに、怪しげな宗教組織やカルト教団は漬け込んでくるのであり、彼らは言葉巧みに正義をふりかざしながら、あなたを餌食にして連れ去ろうとするからである。そういう宗教組織が、自分達の都合の良い洗脳思想を若者達に植え付け、正義の為に自分の命を犠牲にして自爆テロなどに利用するからである。彼らは表向きは立派な信条や信念を声高らかに宣言するかもしれないが、実際には、戦争を商売にして生活しているに過ぎないからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

命とは何だろうか。それは文である。文章になる前の文字一つ一つは、それだけでは何の意味も成さず、死んだものである。しかし、一度、その文字が、文法という秩序によって、一つの文となる時、そこに初めて、一つの内容という意味が与えられ、その時に、文字一つ一つに、命の息吹が生じ、あるものは名詞、またあるものは動詞や接続詞などと言った役割が与えられ、文字は生き生きと働き始めるということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、自分の考え、自分の理解に頼れば良いのならば、神に祈ることなど、初めから必要無いのではありませか。日頃、注意して見れば分かる様に、真の神の崇拝者は、事あるごとに、祈ることを求められていますが、偽りの教理は、度々しか祈らないのです。しかも、神に対して、自分の言葉で祈ることを許さず、一方的に強要され、もったいぶった、祈る者にも理解出来ないような呪文のようなものによってです。それは本当は、偽りを隠す為の、真実味があるように思わせる目くらましでしかないのです。しかし、今、誰であっても、自分の言葉によって祈ることを許しておられる、また祈ることのできる、真の神エホバとは、何と真実で偉大な方なのでしょう。まさに、感謝すべきことです。

2.良いことが、一人歩きしているのではなく、すべて良い事柄は、エホバ神から出るのです。よって、単に良いことをしても、上手く行きません。なぜなら、それは神から出ていないからです。例えば、すべての宗教は、善行を重んじていますが、それを行う動機が、神からのものでなければ、意味を成さないのです。すなわち、どんなに良い事柄であっても、その動機が人からのものであれば、それには何の力もありません。しかし、神を愛する故に、善行を行うなら、それには力があるのです。よって、あなた方は、神を動機として、互いに親切にし、愛し合って行きなさい。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は、自分で創りだした事柄についてのみ、真実を知ることができる。それでは、誰が真理を知ることができるのか。それは神である。なぜなら、神が真理を形造ったから。また、人間を本当に理解できるのは、誰か。それは神である。なぜなら、人間自身を造ったのは神だから。よって人間は人間のことを最後まで理解出来ないのである。よって、人間ではなく、神が創りだした世界には、人間の

到達し得ないものが最後まで残る。この大いなる残余を感じながら、我々人間は常に謙虚でなければならない。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間の本性とは、いつ明らかになるかと言うと、他の人の目や、影響力の無い、1人でいる時の、密かな時間の時に、その人が密かに行う事柄によって明らかにされるという事である。

2.御子イエスキリストを、私達の為に犠牲として与えて、自らが多大な犠牲を払われた神エホバほどの方が、この世を裁く動機として、苦々しい憎しみや、傲慢な優越感や、激発的な怒りに任せて裁くはずが無いのである。この世を裁く神の動機とは、裁くことによって、この世が救われる為なのである。

3.神の良識は、人間の良識の及ばぬ時もある。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は常に、その時に応じた成長をしていかなければならない。すなわち、人が、子供のときには、子供は子供と交わらなければならないし、人が若者になった時には、若者は若者と交わらなければならないのである。鉄が鉄を研ぐように、人が人を研ぐのであり、子供が、青年と交わっても、若者が年寄りと交わっても、それ自体は、たとえ楽しくても、それでは人は、成長しないのである。要するに、子供を研ぐ者は同じ子供であり、若者を研ぐ者は同じ若者なのである。

2.私達人間にとって、イチから形造ってゆく事が、私達人間の生き方なのでは、決して無く、既に与えられている事に関し、感謝の念を示して、それを活用していく事が、私達人間の生き方なのであり、私達人間の生きるという本質なのである。すなわち、私達の命は、私達自身がイチから造ったものではなく、神から与えられたものであり、私達はその与えられた命に感謝し、その与えられた命を充分に活用して生きていくことが、私達人間の使命なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

万物の創り主であり、全能者であり、唯一、真の神エホバに、自分自身の思い煩いをすべて委ねるという事は、一度神に頼ったからには、自分は、もはや、それに対して思い煩わないという事を意味するのである。それはまた、自分の問題を、自分の能力によって、対処しよう、解決しようとしないという事である。

2.むしろ、人は、生きていく上で、率先していくよりも、何事にも忠実であることによって、学ぶことが多いのではないだろうか。

3.益にならないとは、それは、そのまま有害であることと同一である。

4.自己満足の神と、真実の神との決定的な違いはこれである。すなわち、前者は、一つのことから一つしか生み出せないが、後者は予想外の益も生じるという、一つから2つも3つも得る事が出来るという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真の公理とは、何物にも付随せず、初めも無く、終わりも無く、何ものからも生まれたものでは無い、真理そのものであること。

2.初めも無く、また終わりも無いということは、それはまた、初めでもあり、終わりでもあるということを同時に満たす。

3.神エホバは、αであり、Ωであり、最初であり、最後であり、その初めも無く、その終わりも無く、その初めであり、その終わりであること。すなわち、神は真の公理であり、真理であること。

4.最近、人間について、まだ想像もしていなかった新たな発見とは、他の人は私にとって、達し難い不可抗力と言って良いほどの素晴らしい能力を、ごく平然と持っていたということである。よって、今まで私は、人と人とは、同じ一線上で優劣を比べられると思っていたが、それはとんでもない勘違いだったのである。人と人とは、もともと比べられないし、比べる対象ではないのである。これはまるで、同じ魚でも、イワシとマグロはどちらが優れているのだろうか、と問うようなものだからである。たとえ、同じ魚という種類であっても、イワシはイワシ特有の、マグロには無い不可抗力的な見事な能力を有しているし、マグロもマグロ特有の、イワシには備わっていない不可抗力的な見事な能力を有しているのである。また逆に、イワシはイワシ特有の弱点を持っているし、マグロはマグロ特有の弱点を持っているのである。これでイワシとマグロは全く別の生き物であり、同じ一線上で優劣を比べられる基準など存在しないのであり、もともと比べる対象ではないのである。同様に、同じ人間という種類であっても、一人一人は、全く別の生き物なのであり、同じ一線上で優劣を比べられる基準など存在しないのである。よって人は、もはや、自分と他の人を比べて、自分の方がより劣っているとか、自分の方がより優れているとかという考え方はせずに、自分が生まれながらに既に与えられている、また、自分が今既に持っている能力だけに、気持ちを集中して、その能力を磨く努力に全力を傾けるべきであり、また、自分が生まれながらに既に持っている弱点を少しでも直そうという努力に全力を傾けるべきなのである。そうすれば、自分を他の人と比べて、劣等感を持って苦しんだり、自分と他の人を比べて、独り善がりの、間違った優越感も抱くことが無いよう保護されるのである。