高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書の主張は、どんな時でも、論証もしくは、説得の言葉によって訴えているのでは決して無く、人々の良心、良識、常識、正常心に訴え続けているのである。

2.聖書の主張は、どんな時でも、人々に強要する為に書かれているのでは決して無く、人々に推薦し、懇願しているのである。

3.経験的に言って、エゴイズムを育てる培養土は、怠惰さである。よって、エゴイストは、基本的に怠惰な者達であるのである。

4.人の人生とは、つつがなく、その場限りの、全力を出していない、その時だけを取り繕うとする態度で取り組めるものでは決して無く、まさに、自分のプライドも、誇りも、余裕も全く無く、常に、必死で、全力で、本気で取り組まなければならないものだったのである。

5.人生を生きていく上で、物事を単純に好きか、嫌いかだけで決めて行動していないか。世の中はそんなに単純で甘いものではない。すなわち、すべての現象を、全肯定したり、全否定したりするのではなく、また、あるものは好きだから、という理由だけで拾ったり、あるものは嫌いだから、という理由だけで捨てたりしては、人生を狂わせ、破滅させてしまうのである。よって、すべての現象に対して正しく生きる為には、(あらゆるものは使い方次第である)という態度を持つべきである。例えば、Aさんという人は、自己主張が強いから、私は嫌いだ、とAさんは悪い人と、決めつけるのではなく、また、Bさんという人は、おとなしいから、私は好きだ、とBさんをいい人と、決めつけるのではないのである。正しい見方は、あらゆるものは使い方次第なのであるから、AさんもBさんも、どちらも自分の都合の良いように利用するのである。すなわち、確かにAさんはわがままだけれども、その代わりに悩み事を話しても、それを他の人に言い広めたりしない。だから、Aさんは自分の悩みを聞いてくれるカウンセラーとして、キープしよう。また、Bさんは優しいけれど、その代わりに個人情報をツイッターで書き込んで他の人に広めたりする傾向にあるから、Bさんには、個人的な事柄は話さないようにし、その代わりに、普段仕事をする時はBさんは、何も言わないから、一緒に仕事をする時だけのパートナーとしてキープしよう、などというふうにするのである。こうすれば、誰が味方か、敵か、という浅はかな論理で自分の生活を振り回すのでは無く、すべての人と利害の一致により、仲良く出来るのである。これこそが知恵の道である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界は、利害の一致によって成り立っているように思えるが、実際には、損得を度外視した、利他的愛の一致によって初めて成り立っているのである。確かに、人間の社会は、非常に利己的で、損得の勘定で動いているが、それらを支えているのは、損得抜きに私達人間に、美味しい果物や野菜や穀物を与えてくれている地球の大自然の恩恵なのである。私達はこの自然界から、奪い去ってはいても、決して何も与えていないのてある。なぜなら、人は森林地帯を野焼きにして畑を作り、生活していけているのであり、自然界から、石炭や石油を抽出し、それを利用して生きているのであり、ただ自然界から奪いはしても、自然界に対して何の恩返しもしていないのである。それどころか、自分達が貪欲に儲ける為に、自然環境を破壊し、産業廃棄物を垂れ流しにしているのである。昨今の、世界規模で起きている自然災害は、皆、私達人間社会が引き起こしたものなのであり、自然からシッペ返しを受けているのである。要するに、悪が悪を支えることはできず、善が犠牲となって悪を許容しているに過ぎないのである。すなわち、悪とは、相手から奪い取ることを意味しているのであり、義とは、価なしに貴重なものを与え続けることを意味しているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真に、自分の意志を持って、ポリシーの元に生きている人間達は、しっかりと地面に根を下ろしている稲穂にも例えられる。これに対し、信念を持たない、自分の意志を持たず、その時その時の状況の変化によって、右往左往する人間達は、不穏に変化して止まない海の波にも例えられる。

2.論証、または、論理とは、誇り、ひいき、甘え、好奇心、貪欲、ご都合主義、栄光、名誉、傲慢、推察、仮定、憶測、傾いた見方、身内ウケ、などの不純物を一切取り除かれた上で、筋道を立てて考え、順序正しく築き上げて行った後に、結論出される事柄の過程のことを言う。

3.自分は、何でもできるという非現実で、不実な考え方から、自分はできる時に、自分のできる限りのことを行うという現実的で謙虚な考え方に、変えなければならない。

4.自分が本気で、何に取り組めば良いのか、判断しかねる時に、それを判断する為の良い方法として、自分が極限状態に置かれたことを仮定してみると良いのである。例えば、この後、自分の余命が幾ばくかで、長くは生きられないという状況になった場合を想定して見て、取り敢えず、一ヶ月ほどは、何か一つだけ自分のしたい事が出来る期間が残されているとする。そういう立場に立った場合、自分は果たして何を行うだろうか推論して見れば良いのである。その時に、思い付く事柄が、自分が今、本気で取り組むべき事柄であるはずである。

5.人の、その時の気分の高揚の高まりによって衝動的に語った事柄は、全くの推論の域を出ないものであり、私達は、常に冷静に、真実な事にのみ、耳を傾けるべきであるし、また、真実な事にのみ信頼を置くべきなのである。よって、大げさに語る者は、自分の能力以上の事を、無責任にも語ったのであり、せん越にも、不遜にもそれを語ったことになるのである。そのようにするよりは、何も語らない方がまだ良いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

相手が、明らかに悪いと判断出来る場合でも、相手のことを裁かないことが、人が人を裁くことは出来ないという意味である。

2.実は、劣等感と虚栄心とは、表裏一体である。

3.部分が、全体を駆逐することは出来ない。そうするには、こちら側も、全体で対処するか、もしくは、全体よりさらに大きい全体によって、すなわち、全体を部分と見なせる程の、さらなる全体によって、全体を征服してしまうかの2つの方法しか無いのである。

4.単なる罪人は、何の意味も成さないが、悔い改めた罪人は、以前罪人であったその経験の故に、その欠点が、今では、その人にとって、何事にも代え難い貴重なポリシーに変化するのである。そのように、ある欠点を持った人間がそのままであれば、それはその人にとって欠点のままで終わるが、ひとたび、その欠点に気付いて理解を示し、それを努力して悔い改めた時、初めて、自分と同じ欠点を持つ他の人の気持ちを許すことのできる、立派な人格者となるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

キリストイエスの音信の最も重要なかなめを、要約して言うなら、何事も、自分で決めつけないこと、すなわち、自分の考えを基準に行動しない、ということに尽きるのである。よって、あなた方は常に、神に頼りなさい。もし何かの事で悩み、苦しんでいるのなら、心から熱烈に神に祈りなさい。神は誰であれ、必ずあなたのことを顧みてくださるからである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

あらゆるすべてのものに勝っているからこそ、それを初めて神と呼ぶのである。

2.人間は、誰しも、自分に都合良く出来ていること。それで、人は、あくまでも、自分に都合良く考えなければ、生きていかれないということを、意味していること。すなわち、すべての人間には、自分のペースとリズムが存在するのであり、それが乱されると、どんなに簡単なことでも、行うことが出来なくなるのである。

3.すべては、何が悪いかでは決して無く、ただ、従順ではないということ、すなわち、初めから、あることが決定されていて、それを守るべき理由を確かに知っているにもかかわらず、それを破ること、もしくは、踏み超えるということが、初めて、悪いということなのである。よって、悪いとは、ある取り決められたことに対して、従わない、または、それに反するということなのであるから、その従わない理由や、反抗する理屈が、どれだけ正しいもので、全く正当なものであっても、それは問題とはされないのであり、それが正しいことには、決してならないということなのである。すなわち、ある掟を破る理由や、従わないことの根拠が、問題なのではなく、あくまでも、その破った行為そのものが、問題なのである。人間がなぜ神に対して罪人と呼ばれるのかと言うと、それは、神が人間が守るようにお決めになったルールを、人間側は、それを守るべきことを十分認識しておきながら、あえて、それを破った反抗的精神の故なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あくまでも、巨大で避けられない程の、必ず起こる大災害や、大きな出来事は、それがむしろ、規模的に大きければ大きいほど、より事前に、それを確実に予知することができるということである。なぜなら、それは、その規模が大きいということは、その存在に至るまでのエネルギーも、大きいということであり、それはそのエネルギーが溜まるまでには、相当の時間がかかるのであり、おいそれと、ちょっとした外的圧力くらいでは、変化したり、変更はされないということなのである。すなわち、それが起こる規模が大きい程、それが起こる確率性も高く、それが起こる前の事前現象も、何年も前からサインを発している為である。すなわち、大きいということは、それだけ、目標物としては、非常に安定していて、捉え易く、観察し易いということも意味しているのであり、より強いものはまた、弱点も多いということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

生き物とは本来、人間も含めて、注意を怠ると、傲慢になり易く、ともすれば自分自身の益だけのことを考えがちで、すぐに堕落してしまう性向を持っているということである。これは、すべての万物が、何もしないでおけば、いずれ荒れ廃れて、朽ち果てていくという、熱力学の第3法則が働いているのと同様のことなのである。例えば、人間が作った精密機器などは、非常にデリケートに出来ているから、それを正確に保つ為には、細心の注意と、丹念な品質管理が必要不可欠である。ましてや、それ以上に精密に、複雑な構造をしている生物である、人間には、私達が想像を絶する賢い知恵と知識が必要不可欠であり、我々は非常にデリケートな生き物なのである。すなわち、人間が常に、正常に動き、働く為には、想像を絶する大きなエネルギーと、無限なまでの深い愛情という導きと管理が必要不可欠なのである。よって、すべての万物の造り主であり、あらゆるすべてのものの要求を満たし、すべてのものの世話をしておられるエホバ神こそが、それに確当する存在なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

今日の栄光は、明日の挫折であること。なぜなら、昼が来た後には、必ず夜が来、収穫の秋が来たなら、その後は、必ず厳しい冬がやって来るからである。よって、順境の時や、春の時期は、自分を富ましたり、贅沢に、面白可笑しく暮らす為にあるのでは決してなく、その後に必ず訪れる厳しい逆境や冬の時期をなんとかしのぐ為の、少しも無駄に出来ない準備期間でしかないということなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

健康の定義とは、具体的に言って、物質的にも、精神的にも、何かが欠けている欠落感とか、何かが余計で、負担感を感じる、ということが無い、充実した状態のことを言うこと。

2.見える人を愛せない者が、見た事の無い神など愛せる訳が無い。また、見える人を許せない者が、見ることの出来ない神を許せる訳が無い。また、見える人を褒めることが出来ない者が、見た事の無い神を讃えることができる訳が無い。また、見える人を恐れない者が、見ることの出来ない神を畏れるはずが無い。また、見える人に、辛抱出来ない者が、見ることの出来ない神を辛抱できる訳が無い。また、見える人に対して、謙遜に出来ない者が、見えない神に対して謙遜になれる訳が無い。また、見える人と共に分かち合い、共有することの出来ない者が、見ることの出来ない神と共に、知り合い、親しくなれるはずが無い。