高田義裕の人生論

今日の箴言

人にとって、教育とは、最も必要不可欠なものであり、教育の仕方次第で人は、どのようにでもなるということである。すなわち、教育とは、悪用すれば、強力なマインドコントロールになるということである。

2.昼と夜とが毎日入れ替わるように、人は、昨日より今日、今日より明日、自分自身をより良い方に変化させて、成長し続けようと努力して行くべきであること。

3.たとえ、万人にとって、自明の理である事柄や、一般的に言って、暗黙の了解の事柄であろうとも、強いては、調査などする必要性のない程にまで、異質である事が、大多数の意見で、申し分の無い事柄に対してさえも、本当に正しい、物事に対する正しい姿勢とは、それをよく見もせず、調べもせずに、頭ごしに、そうであるとか、そうでないとか、正しいとか、間違っているとか断定してしまうことではないのである。それは、あくまでも、まずすべてを、とりあえず肯定する事から始まって行くという事であり、たとえ、それらが、最終的に、肯定出来るにしろ、否定されるにしろ、その各々の主義主張を認めた地盤の上で、それらを突き詰めて、延長された場合に、ようやく、その主張の正当性なり、矛盾なりが明確に析出出来るのである。要するに、議論より先に、まず、自由を与えて、それらを試させる事が、初めて、すべての物事の本質を知り、何が正しくて、何が間違いであるかを判断する正しい姿勢であるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

よく人は、人生において苦労しなければならない、と美辞麗句のように言うが、それは、あくまでも、苦労した事の無い人々の間でのみ、通用する概念であって、実際、本当に苦労している人、もしくは、否応なく苦労を強いられている人にとっては、苦労など何の意味も無い余計なものなのである。彼らからしたら、苦労を自慢出来る者など、なんて恵まれていて、人生に対する甘い認識しかない人だろう、としか思われないのである。その人達の心情は、苦労など無かったらどんなに幸福な事であろう、としか思えないのである。

2.聖書の創世記6章13節にある様に、神がこの世の中を滅ぼす十分の理由となったものは、この世の中の地上にいる、すべての人間が、暴虐を愛し、悪人となったからではない。それは、水に塩を入れる際、大量に塩を加えるなら、その塩水は、塩辛くて飲めないが、ほどよい量の塩分を水に加えるなら、それは、スープとして飲めるバランスが満ちた状態と言える。これと同様に、この世の中も、暴虐と悪に染まりきっているわけではなく、善と悪のバランスが、ちょうどいい状態になり、不法が永久に存続出来るほどにまで、安定した状態となる時が、まさに、いつ、滅びが来てもおかしくない条件が整っているということである。よって、現在、いつ、この世の中の滅びが到来してもおかしく無い状況なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、過去がどうであったかでは無く、現在はどうであるのかで常に評価されるべきであるし、かつ、勝負すべきなのである。例えば、昔は、名を馳せ、人々から注目を浴びていたけれども、現在、その面影も無く、力尽きてしまっているならば、それは評価されないのであり、かつての栄光にいつまでも、しがみ付いていては、その人はどんどん朽ち果てていくのである。しかし、過去において、悪行の限りを尽くし、極悪人であった者が、徐々にその行動を悔い改め、現在では、全く人から尊敬される立派な人格者に成長しているならば、過去の事は問題視されず、高く評価されるのである。この様に、人間はいつも現在進行形で頑張り続けなければならないのであり、人は、まさに墓場に行くまで人生は終わらないと考え、努力し続ける態度を貫かねばならない。

2.この世の中の有様は、いつでも万全に整えられている事の無い状態であるから、あくまでも、この世の中で生き抜いて行く為には、万全を求めるのでは決して無く、今、手元に持っている僅かなものを利用し、何とかそれを工夫して、自分の目標を達成出来る様に、取り組まなければならないのである。そこに初めて、自分だけの知恵なり個性が生まれてくるのであり、それが人を他の人から区別する力量の差となって 現れてくるのである。

3.何がこの世の中で最も困難なことかと言って、人の心を変化させる事ほど、難しいものはないのである。

4.あくまでも、老人は、昔の若い人達であって、最初から年寄りであったわけではないことを、若い人は再確認しておくべきこと。なぜなら、若いあなたも確実に年老いて行くからである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人にとって、人生とは、なるようにしかならない、という事が結局の答えであり、真理であること。また何事も、行った分だけしか得られないという事も、厳しくも、また当然であること。

2.すべて、譲るが勝ち、負けるが勝ち、自分の方から下りるが勝ち、であり、最後に勝ちたければ、そうすることである。

3.人は何でも、自分でやってみようとすると、一人では出来ないし、一人でやっても虚しい事に気付く。よって、人とは、その初めから、支え合うと書くのであり、人間にとって、互いに助け合い、協力し合うこと以外に何もないということなのである。それは、あくまでも、人間同士が互いに対等な立場であることを踏まえてのことである。

4.マインドコントロールはいけない事だと言うけれども、人間は誰でもすべて、意識する、意識しないに関わらず、何かに必ずマインドコントロールされているのである。これは、人間が生きていく限りにおいては、避けえない事柄であり、何かを行うに際して、何らかの支点、もしくは、基準が必要不可欠だからである。その基準が、他者からマインドコントロールされたものか、自分で自分にマインドコントロールをかけたものかの違いだけであって、もし、基準がなければ、人は何をして良いか分からなくなって、路頭に迷ってしまうからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人にとって、真剣に生きるという事は、何事も泣きたい時には真剣に泣き、笑いたい時は、真剣に笑い、怒る時には、真剣に怒るということを意味しているのである。よって何事も、ただ、いい加減に無責任に話すのではなく、いざという時には責任をちゃんと取れる範囲内で、よく考えて話さなければならないのである。また真剣に怒るというのは、いつもイライラして怒っていたり、相手に怒りをぶちまけるという意味では決して無く、常に、相手の身になって冷静な怒り、すなわち、制御された怒りでなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中の人々は、有名な人が、同時に、人間的にもレベルの高い立派な人物であると思いがちであるが、それは必ずしも一致しないこと。あくまでも、俗に言う、皆が、立派だと思う人々は、ただチャンスの時に、それを逃さず、その時の流れに乗れた運の良かった部類の人々であり、もしくは、ただ、目立つか目立たないかの違いだけを扱っているに過ぎないからである。人の真の価値は、その様な事からは推し測ることは難しいのであり、はっきり言って、たとえ有名で無くて無名であっても、人間的に価値があって、立派な人は、無数にいるのである。ただ、言えるのは、大半の人が、それを知らないし、知ろうともしていないという事だけなのである。

2.人間、最後にモノを言うのは体力があることと、精神力の強さだけであること。それがある人が、最後の最後には生き残れるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私は、日々失敗せずに、すべてを上手くやろうとして、ようやく、それが失敗することであることを見い出した。それは、人間は何事も、大事なものを失って初めて、その価値を知る事が出来、かつ、人間は何事も失敗して初めて物事を悟る事が出来るという事である。

2.人間にとって、一番多い時間は、自分一人でいる時である。また人間にとって、一番重要で価値のある事とは、人が見ていないところで、いかに努力し、いかに立派に行動しているかのみにかかっているのである。

3.人生を真剣に生きるという事は、互いに傷つくという事であるのだ。また、人生を新鮮に保つには、常に、適度に緊張感を持った人間関係を保つことによって初めて得られるのであり、異性との適度のスリル感を持った駆け引きも、人の心をリフレッシュさせ、人間を成長させてくれるものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人生とは、生き抜けるかどうかは、全く自分次第で、どうなるかは決められていない、まさに、タイムリーで、激動している様なものであること。

2.劣等感は、必ずしも悪いこととは言えないこと。なぜなら、その劣等感を持っている故に、人は自分を成長させようという、一番力強い動機とシグナルとなってくれるからであり、劣等感の無い者は、何も成長しないからである。

3.何事においても、物事をするのに、手遅れは無いという事である。たとえ、周りの人達より明らかに出遅れていたとしても、その本人がそれを行う必要性に真に気が付いた時こそが、その本人にとっての絶好の、かつ、最良の時期であり、好機(チャンス)であるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何でも、一人でやらねばならないということは、自分は一人しかいないのに、それだけで、2、3人分の仕事を強いられるということを意味するのであり、これは人にとって本来、割に合わない理不尽で過酷な状況なのである。実際には、ある程度健康な人でも、その人が全くストレスを感じず、健康に生きて行く為には、数だけで言えば、100人のサポートが必要なのである。ましてや、心や体に障害を持った人に対しては、300人以上のサポートが必要とされるのである。それに対して、現実は、残酷以外の何ものでもないのである。要するに、私達がよく耳にする、(自分の身は自分で守るしかない)という教訓は、この世の中で生き残るための事実ではあっても、決して真理でも無ければ、美徳でも決してないということである。しかし、人は、この様に、自ら、避けえない逆境、もしくは、理不尽さに対して、その苦しみから精神的に少しでも楽になるために、それらのことを肯定化、もしくは、神聖化してしまう傾向にあるのである。これは死を美化し、肯定する哲学的思考にも見られるものである。そして更に、その残酷さに追い打ちを駆けるのが、利己的精神であり、それは自分は、一人分で十分なのに、それで満足せず、一人で10人分でも100人分でも持っていることである。この様な事が可能なのは、もちろん最初に述べた貧困層にある人々の、一人で何人分もの仕事を強いられる、あらゆる奴隷労働、過重労働に支えられているからこそ、初めて可能なことなのである。要するに人より何倍も所有している者はその人に全く自覚は無くても、世界中のほとんどを占める奴隷労働に対して加担しているも同然なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人が全く勘違いし易く、そうして、決して勘違いしてはならない最も重要なものの一つは、例えば、自分が他の人のしぐさなり、行動パターンを見て、彼は明らかにこうである、と解釈せざるを得無い様に見えても、他の人の事情は、全くそういうつもりではないということである。要するに、人は、自分の小さな価値基準を、すべてに通じる絶対的なものと無意識のうちに思い込んでおり、実際それをはるかに超える他の事実なり事情というものが全く見えていない盲目的状態であるということである。また、人は、自分以外の他の人がしている事に対して、傍観者になり、何か余裕がある偉い者であるかの様に楽に眺められるということなのである。しかし、もし、同じことを自分がしてみるならば、実際には、天と地との差ほどある全く別の事柄となり、いかにそれがそんなに甘くないものであるかということが分かるのである。要するに、頭でその事を何となく分かった様に思うことと、実際に自分でそれをやってみる事とは、全くの別物なのである。よって人は、何事も実際に行って見なければ何も分からない存在なのである。