高田義裕の人生論

今日の箴言

予期せぬ時に、予期せぬ勇敢さを示せる者が、初めて真の勇敢な者であること。

2.予期せぬ非常事態に陥った時、それに瞬時に対応できる賢さが、初めて真の賢さであること。

3.知恵を付ければ付けるほど、自分はいかに何も知らないのかということを思い知らされるのである。

4.何事においても、犯罪を犯す加害者は、気軽にそれを行うが、それを受ける側である被害者の心情は、天と地の差ほどのものであり、被害者のダメージは相当のものであり、まさに、とんでもないショックなものなのである。もし、加害者がそれを知っていたなら、うかうかと、たやすく人に危害など、加えられるはずは本来、普通、無いのである。これはすべて、人が他の人を自分自身のことの様に当てはめて考えずに、自分のことばかり考えて行動するという愛の無い、人に対する想像力の欠落した、利己的愛の精神によって引き起こされる悲劇なのである。

5.子供の頃は、何も考えずにでも、それでやってこれたが、いざ、大人に成って、まともに現実と自分が向き合い、等身大の自分に気づくとき、今まで楽に過ごせた分、現実は鬼の様に、気絶するくらい、厳しいものとなって、襲いかかってくるのである。私にとって、日々の暮らしは、苦しさの余り、まさに呆然とした感覚で、やっと生きている感じである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界は、善と悪というただ2つの要素だけで説明がつくほど、単純で簡単なものではないこと。すなわち、この世界には、善でもなければ、悪でもない事柄が無数に存在すること。

2.本音の言えないこの世の中とは、まとも(正常)な世の中なのだろうか。

3.会社の人間関係において、あなたにとって、苦手意識を感じる相手は、実はあなたに好意を抱いている。逆に、あなたが好意を感じている相手は、あなたのことを快く感じていない。

高田義裕の人生論

今日の箴言

究極にまで、下にならなければ、どうして究極にまで上になれるであろうか。究極にまで怯えたり、怖い思いをしなければ、どうして究極にまで勇気があって強くなれるであろうか。究極にまで恥をかかなければ、どうして究極にまで立派な者になれるであろうか。究極にまで、悪くならなければ、どうして究極にまで、良くなれるであろうか。究極にまで、苦しまなければ、どうして究極にまで、幸福になれるであろうか。よって私達は、中途半端に下であり、中途半端に上であり、中途半端に勇気があり、中途半端に強く、中途半端に立派であり、中途半端に悪くて、中途半端に良く、中途半端に幸福で、中途半端に不幸であり、中途半端に苦しくて、中途半端に楽なのである。要するに、私達は凡人なのであり、本当の幸福とは何かを知らないのである。

2.何事も、苦しみが心地良さに変わるまで、その苦しみと戦っていきなさい。

3.敵のいない生き方など、どんな人生であろうか。はっきりとした敵のいない者には、また、はっきりとした味方もいないのである。人は、常に張りのある、適度の緊張感を持って生きて行くべきなのである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、自分に不足している所、不完全さを、埋め合わせたり、捨てることに努力するのでは決してなく、あくまでも、それを、ただ、ありのままに受け入れる、もしくは、受けとめる勇気と素直さを培う努力をすべきなのである。よって、人の生き方とは、常に上を目指し、自分の欠点を取り除き、良い者になる、というやり方が人の生き方では決してないということである。むしろ、自分の欠点や不完全さを十分に認識し、それと共に共存してやっていける道を模索して行くことなのであり、自分の限界を知り、それに応じてやっていくことが、はるかに現実的で正しい方法なのである。例えば、ある病を抱えている患者が、自分の大金を叩いて、いろんな治療法を試しても、病は全く治らず、遂には、怪しげな治療法にまで手を出し、余計に持病が重くなるのと同様である。人は、そのような不確かで雲をつかむような、奇跡を期待するべきではなく、むしろ、持病と闘い続け、持病を治すという態度を捨て、上手に持病と共に付き合って行くことのほうが現実的で正しいことなのである。よって、すべての人が、いずれは良い基準にまで到達するべきであるという理想論的な考え方は間違っているのである。

2.人間はまず、父親(母親)であるより、夫(妻)であり、夫(妻)であるより、男(女)であり、男(女)であるより、一人の人でなければならないのである。