高田義裕の人生論

今日の格言

倫理学序説

真の権威とは何か?それは同胞を殺すことである。例えば、ネズミが同胞であるネズミを殺すことはないし、またそれは許されない。ネズミを殺して食うものは、常にネズミより上位な存在である猫であり、鷹であり、ライオンである。これは言い換えれば、猫や鷹やライオンはネズミを殺す権威を持っているということである。よって、人間にとって、同胞の人間を殺すことを正当化できる、いかなる正義もいかなる偉大な思想も持ってはいない。よって、真の正義とは、正義のために正義を犠牲にしないことである。すなわち、人の命を救うために人の命を犠牲にしないことである。それでは人を殺す権威を持っているのは誰か?それは神である。なぜなら、神は人間より遥かに上位な存在であるから。

高田義裕の人生論

今日の格言

ウクライナの皆さん、本当に気の毒な事です。ロシア軍によって、壊滅的な打撃を受け、食糧や水に事欠いていると聞いています。特にウクライナの都市マリウポリに現在は、ロシア軍の攻撃が激化していると聞いています。あるマリウポリの男性の方で、都民のために、命懸けで水や食糧をかき集めて努力をしておられる方が言っておられました。ウクライナのために神に祈っても無駄であり、それより、実際的に水と食糧を支援してください、とのことでした。しかし、私はそれでも、あえて、全能の神エホバに祈ります。神よ、どうかウクライナの人々の苦境を思いやってください。彼らに全世界におられる神を信じる方達からの実際的な食糧支援と水の支援が届きますように。特に今、激戦区になっているマリウポリの全都民と全兄弟姉妹達に対して、実際的な形で水と食糧が供給されますように。彼らに神に祈っても無駄であると思わせないでください。それで喜ぶのは、神への信仰を捨てさせようとする悪魔サタンの思うつぼです。むしろ、ウクライナの人々があなた、エホバ神からの実際的援助を得て、彼らが神エホバの御名を賛美できますように。マリウポリでは、餓死者が出て、自分達の可愛がっていたペットさえ食べたり、くぼみに溜まった汚水さえ飲んでいると聞いています。なんとむごいことでしょう。ぜひ、彼らをロシア軍の検問所からなんとかすり抜けて、苦しんでいる民間人のもとへ食糧と水が届きますように。また、この機会を通して、彼らだけでなく、全世界であらゆる苦しみを受けている難民やすべての人々にあなた、エホバ神からの援助がありますように。これらの切実な祈りを、御子イエスキリストの御名を通して、あなた、神エホバにお捧げ致します。ア-メン。

高田義裕の人生論

今日の格言

神の王国と義をまず第一に求めなさい。

この世の中で貧困にあえぎ、虐待を受け、数多くの問題で悩みを抱え、苦しんでいる者達に言う。あなた方はまず、第一に神の王国と義を求めなさい。そうすれば、あなた方に必要なものはすべて与えられるからです。それではなぜ、私達は神の王国と義をまず第一に求めなければならないのか?それは、私達が最初の人間夫婦アダムとエバの子孫だからである。アダムとエバは、禁断の木の実を食べることにより、あえて意図的に神エホバに反抗の精神を示し、神の主権を退けたからである。それにより、罪が世に入り、我々は皆、生まれつき神に対する罪人として生まれてくるからである。よって、すべての苦しみや病気の原因は、神に対する罪から生じてくるのである。まさに聖書にこのように書かれてある。マタイによる書、22章37節、イエスは彼に言われた。あなたは心を込め、魂を込め、思いを込めて、あなたの神エホバを愛さねばならない。これが最大で第一のおきてです。なぜ、イエスはこのようなことを言われたのか?それは、私達人間が、生まれつきエホバ神に対する反抗の精神を宿しているからに他ならない。もし、私達が神に対して生まれつき反抗の精神を宿していないなら、イエスはあえてそんなことを私達に言う必要はなかったからである。例えば、私達が水に不足する砂漠地帯に住んでいたら、その町の正しいおきては、まず水を第一に大切にしなさい、というものに違いないからである。もし、水に何不自由しない温暖な気候の土地に住んでいたのなら、そんなおきては必要ないのである。これにより、私達がエホバ神のご意志に対して、ある種のアレルギー反応を示すのは、確かに、過去において、神エホバに対する主権の論争がサタンにおいて引き起こされたことを証明するものなのである。よって、水不足の町で水を大切にしないことは、死に直結するのと同様に、神エホバのご意志を大切にしないことは、我々にとって死を意味するのである。よって、水不足の町で、水を大切にするなら、物事は上手くいき、それは命を守るのであり、それと同様に、我々が神のご意志を大切に守るなら、必ず物事は上手くいき、それは私達の命を守ることになるのである。まさに聖書にこう書かれてある。マタイによる書、6章31と32節、それで、思い煩って、私達は何を食べるのか、何を飲むのか、何を身に着けるのか、などと言ってはなりません。これらはみな、神を知らない諸国民がしきりに追い求めているものなのです。あなた方の天の父、エホバはあなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。ですから、神の王国と義をいつも第一に求めなさい。そうすれば、これらほかのものはみなあなた方に加えられるのです。

高田義裕の人生論

今日の格言

あらゆる地域にいる全諸国民に言う。まもなく必ず起こる世界的大艱難のための準備をせよ。もうすぐこれまで起きたことがないような世界的大災害が人類をおそうからである。あらゆる地域で、大地震、大雨、雹、火山噴火、食糧不足、戦争が瞬く間に同時に起こるからである。その日はまさに恐ろしいものとなる。今から直ちに自分の家のすぐ横に地下室である防空壕を作れ。そう、今からすぐに家の下か、庭にシェルターを作るのである。いざという時は、身を地面に伏せるように、あなた方の心も地下室のようにへりくだらなければならない。いざという時は、身を低くした者こそ、救われるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

現代社会における最大の偶像崇拝による闇

我々21世紀における最大の偶像崇拝とは何か?それは、固定観念であり、思い込みであり、決めつけに他ならない。私達は毎日の生活の中で、どうせ何をやっても変わらないと決めつけていたり、これは間違いなく悪いと決めつけて固定観念を持っていたり、あの人は嫌な人だ、と決めつけて思い込んだりしていないか?これこそが、思考停止状態であり、最大の偶像崇拝なのである。すなわち、相手と対話すること、お互いに継続して話し合い続けること、お互いに譲り合い、良好な関係を保ち続けることを否定する行為なのである。要するに、そこには、自分にとって、世界が敵か味方かの二通りの価値観しかないのであり、これは人を堕落させるものである。この多様性に満ちた深くて広大な世界は驚くほど複雑であり、到底、敵味方という軽率で、狭量な考え方では、はかり知ることは出来ないのである。よって、我々人間は、お互いに対話すること、相手を理解しようと努め続けることを止めてはいけないのである。我々は常に考え続けなければならないし、コミュニケーションを止めてはいけないのである。もし、話し合い、対話し合うことが、それ以上無駄なことならば、我々には元から口はないからである。しかし、私達は生活する上で、食べ続けていかなければならないし、他の人とおしゃべりすることを必要としているからである。よって、この多様性に満ちた世界を東西の冷戦のようなただ2つの価値観しかないと思い込んではいけない。単に民主主義勢力のアメリカが正しくて、独裁政権国家であるロシア勢が悪い、という軽率な固定観念を持ってはいけない。この点においても我々は常に考え、和平を模索し、話し合わなければならないのである。すなわち、アメリカ勢にはアメリカ勢の言い分があるのであり、ロシア勢にはロシア勢側の言い分があるのである。よって、相手を単に、敵か味方かという浅はかな思考停止という偶像崇拝を止め、我々はとことん話し合い、互いの譲歩が導き出せるまで、対話し続けなければならないのである。大昔からあるキリスト教の聖典である聖書に再三、戒められている偶像崇拝とはこのようなことを指しているのである。よって、最大の偶像崇拝とは、相手のことをよく知りもしないで、勝手に決めつける態度にあるのである。よって、人間は何事もすべての事において、よく調べもせずに性急に判断してはならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

私、高田はこの世の中の世界情勢、人身売買や、殺戮、戦争によって、苦しめられている人達、いじめによって、自殺した人達、貧しさのため、今日食べる物さえない人々、そして、人間以外のすべて苦しんで死んでいった生き物達、そして、天地が創造されてから、生まれてきた全創造物が受けてきた苦しみ、また、私自身の毎日の生活苦による労働の苦しみ、恐れに対し、ひどく苦しみ、まさに自分の目の前が真っ暗になり、自分の力を全部使い果たして、力尽き、まことの神エホバにまさに倒れ込んだ。すると、神エホバはまさに私の体をしっかりと支え、抱き抱えてくださった。よってすべて、何らかの事情により、苦しんでいるすべての諸国民よ、あなた方はまさにすべての力を使い果たして倒れこむ様に、エホバに寄りかかれ。するとあなたの神エホバはまさにあなた方をしっかりと受け止め、抱き抱えて下さる。なぜなら、唯一、まことの神エホバに全く依存することが、人間にとっての真の自由であり、真の自立を意味するからである。あなた方が救われないのは、神が始終、救いの手を差し伸べているのをあなたが振り払おうとするからなのである。それは、自分が生きているのは、すべて神の力に依ることを認めることをせず、自分達の力に依るものとすることによって、自分自身の手柄にしたいのであって、あなたのその欲望のための誇りが邪魔しているからに他ならない。よって、そのようなよこしまな誇りをすべて捨てて、すべてのことを神エホバに栄光を帰せよ。そうすれば、必ず、あなたの苦しみはたちどころに消え去るからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

今から39年前にアメリカで制作された反核戦争映画、The day after [1983年制作、アメリカ]が現実になろうとしている。私がこの映画を見たのは、小学校6年の12歳の時だった。当時はアメリカとロシアの冷戦時代だった。私はこの映画を観て、核戦争の恐ろしさで身が震えたものだった。しかし、39年後の現在、西暦2022年3月未明において、その恐怖はまさに現実のものになろうとしている。アメリカ本土に核爆弾が投下されるこの映画は、まさに、現在の新たなアメリカとロシアと中国間の冷戦時代を予兆するものであったのだ。まさか、自分が51歳のおっさんになっている現時点で再び冷戦時代の始まりが来るとは思ってもみなかった。聖書にある終末がまさに現在の2022年の疫病である新型コロナウイルスの世界規模での蔓延を契機として始まったのである。これから世界は世の終わりに向かって、疫病、戦争、自然災害、地震、食糧不足などの災害が複合的に同時にやって来る大艱難に突入するのである。よって、我々クリスチャンは神に対する自分達の信仰を究極にまで試されることになるだろう。聖書のヨハネの黙示録に一回だけ出てくるハルマゲドンはまさに現在進行形で始まったばかりなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

第三次世界大戦の勃発

2022年3月6日現在、大国ロシアはウクライナに侵攻した。これは何を表すか?そう、第三次世界大戦の勃発の引きがねとなるのである。共産主義勢力である大国ロシアと中国は共にアメリカ資本主義勢力の西側諸国ヨーロッパや日本、台湾が再び冷戦時代に逆戻りする。ロシアはアメリカの制裁に対して武力を行使するであろう。アメリカもそれに対して同様に武力でロシアに応えるであろう。共産主義中国は台湾に武力でもって侵攻を開始するであろう。こうして世界規模にまで戦火は飛び火し、第三次世界大戦が勃発するのである。世界の諸国民よ、第三次世界大戦はまもなく起こる。あなたは不意を突かれることなく、有事に備えよ。遂にアメリカ本土に核爆弾が投下されるであろう。しかし、ロシアと中国などの独裁政権国家はアメリカ西側諸国勢力に打ち勝たないであろう。ハルマゲドンによる世界の終わりまで最終的にアメリカ、イギリス強国が優勢にとどまるであろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

勝ち組と負け組

あなたは自分が仕事もなく、頼れる相手もおらず、孤独であり、自分は負け組の1人だと思っていないか?決してそうではない。本当の負け組とは、何もすることがない人のことを言うのである。すなわち、多くの財産を所有し、何の苦労も悩みもなく、人生において、何もすることのない人、要するに考え続けることをやめた者こそが真の負け組なのである。よって、たとえ、何も所有しておらず、苦労を強いられ、悩み続けているということは、言い換えれば、あなたはまだ、自分の人生という戦いからドロップアウトしているのではなく、人生という敵に対して真正面から戦っているのであり、バリバリの現役軍人なのである。よって、あなたが苦しみから逃れたいと思い、自らの命を絶つなら、それが初めて負け組であるのであり、自らの命を絶たず、苦しみ続けている時点で既に勝ち組なのである。よって、何事も物事が順調に進み、難なく成功することが勝ち組なのではないのである。よって、結論として、現状に満足し、思考を停止した状態こそ、真の負け組なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

数学、及び、論理学による等式一般に対する懐疑論part2

人類は知的探求の長い歴史での苦闘の果てに、何もないことを表すゼロという概念を発見した。これにより、10進法が形作られ、計算の仕方が格段に進歩し、容易になり、我々人間の現代社会になくてはならない普遍的ツールとなった。がしかし、私は最近、ゼロの概念に非常に疑念を持つようになった。それは何もない状態を表すゼロの存在自体の実在性に疑いを持ったからだ。なぜなら、何もないことが、何もないことを成立させることはできないからである。例えば、何も入っていないコップはなぜ、何もないという状態を成立させるのか?それは多分にコップという入れ物、すなわち、容器が存在するからだ。もし、入れ物、すなわち、容器が存在しなければ、何もないという条件も成り立たないのである。ゼロも同じである。何もない空の状態ゼロは、それ自体でゼロを成り立たせているのではない。それは、ゼロを成立させるには、どうしてもゼロ以上の有限値である空っぽの瓶を想像せざるを得ないからである。要するに、ゼロはゼロ以上の有限値の存在で成り立っているのである。よって、ゼロ自身はゼロ自身を成立させることができない。すなわち、我々は普段、暗黙の了解の内に手軽にゼロの概念を使用しているが、実際にはゼロの概念そのものが自明な事柄ではなく、あくまでも証明を必要とするのである。よって、我々は、まだゼロが存在することの証明を知らないのだから、勝手にゼロを使う訳にはいかなくなったのである。これは、数学の計算全般における危機である。なぜなら、まだ証明されていない不確かなゼロという概念を我々は何の疑いもなく、計算に用いているからである。また、1=1も、我々は暗黙の了解の内に自明な事柄として受け入れているが、これもまた、証明を必要とする厄介な命題である。なぜなら、同じ1でも、1周目の1なのか、それとも、2周目の1なのか分からないからである。数学においては、推論する際、何周目の1であるかまでは区別したり、考慮せずに、すべての1は同じ1として扱うからである。これは例えれば、人間の人生を100メートルトラック競争に例えれば、ある時、二人の人が全く同じ位置であるA地点に並んで走っていたとしても、ある人は50周目のA地点であり、もう1人の人は、まだ2周目のA地点を走っているかもしれないからである。これは明らかに同じA地点でも意味が違うのである。であるから、同じ1であっても、中身までは同じではないということである。しかし、数学の推論において、すべての1は同じ1とみなすから、これも、思考における厳密性において、甚だ不完全であることが言えるのである。よって、数学は物事の真理に直接に関与しない。すなわち、あくまでも、仮定のもとに構成する、思考の相対的なツールの1つに過ぎないのであって、我々のこの現実世界を完全に模倣することはできないのである。