高田義裕の人生論

今日の格言

あなたはある人に対して100万円の負債があるとする。しかしあなたの能力上、一気に100万円を返す資力は無い。それではどうしたらよいか。それは100万円を分割して少しずつ返すという方法があるのである。これと同様に、あなたは非常に人生において困った時期があって、その時ある人に非常にお世話になり、命を助けて貰った。それでその人に負い目があるとする。あなたはその人に助けて貰った分、何とかしてお礼をしたいと思う。しかし自分の性格や能力上、その人に対して自分の命を犠牲にして捧げるとか、自分の大切なものを犠牲にしてまで相手の人に尽くすなどという大それた事が出来ない。あなたは自己嫌悪に陥るが、それは心配しなくてもよいのである。すなわち、先ほどの一気に100万円を返すほどの大きな自己犠牲を無理にする必要は全く無いのである。すなわち、その100万円分の負い目を100で割って小分けにし、毎日1万円ずつコツコツと自分のペースで返していけばよいのである。すなわち、具体的に言えば、助けて貰った相手の所へ毎日通って、夕ご飯を作ってあげるとか、相手の所に毎日通って話相手になったり、その人の悩みの相談にのってあげたりするなど、無理のない些細なお礼や親切を継続して示し続けていけばよいのである。すなわち自分が何か立派な聖人の様になって、人に対して奇跡的な施しをする必要など無いのである。要は自分の出来る範囲内で負債額を払ってしまえばそれでよいのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず。すなわち、今の勝利者は生きている間、敗者になる可能性を持っている。また、今の敗北者は生きている間、勝者になる可能性を持っている。

2.70億人の人間とは、70億人の正論に匹敵する。

3.世間知らずという意味とは、周りに対して自己中心的である事と同一である。

4.自分の1つの生き方を逃して(失敗して)悩んでいる者に対して言う事は、人間の生き方とは、決して1つでは無いという事では無いだろうか。

5.隣人に対する愛とは、自分自身の意図する高い次元(意味)での犠牲では決して無く、極めて低い次元(意味)での自己犠牲の事なのである。すなわち、自分に栄光が帰される様な、貧しい人に対して何百億のお金を寄付して目立とうとする事では無く、心の貧しい人の愚痴を聞く事であり、心の貧しい人のストレスによる暴力や罵りの言葉を受け入れる事であり、それを許す心であって、すなわち、自分より低い者に対して自分がさらに低く行動する事なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

生きているだけで希望がある。

2.神の存在を疑う者は自分の存在を疑う事に等しい。

3.完全主義にはなるな。徹底主義であれ。

4.すべて気持ちは思いよう、物は用いようで決まるのである。

5.人との戦いが悪であり、自分との戦いが善である。

6.自分に対して病的にまで自信の無い者は、実は人に対して並々ならぬ驕りを抱いている事に他ならないのである。その奥底の心理が表面に反面教師の様に出てくるのである。

7.日頃忙しい者ほど余暇が楽しいのである。

8.よく働く者は食事がうまいのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

恋愛論

好きな人と相性が良い人とは違う。よって好きな人と結婚するより、相性の良い人、すなわち一緒にいて、お互いに気を使う関係では無く、お互いに心からリラックス出来る相手を選ぶべきである。またセックスの相性が良い事を優先して結婚するべきでもない。相性が良い人がセックスの相性も良いとは必ずしも言えないからである。

2.人は価値観が同じ人と結婚するべきであるが、価値観が同じという事は、同じ価値観のゆえに利害的価値観も一緒である事により、不仲になる危険性がある。よって基本的な基盤となる価値観は同じでも、考え方は異なる相手と結婚した方が良い。例えば、神を信じているという2人の価値観は同じでも、性格まで同じであってはならないのである。神は多様性を愛しておられ、たとえ神を信じている同志でも、あなたが内気な性格であったなら、相手の方は社交的な性格であった方が良いのである。なぜなら、それによってプラスとマイナスが共に引き合う様に、お互いがお互いの弱点を補完し合う事によって多様性が生まれ、互いの絆は強まり、2人の関係は安定するからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

本当に澄んで綺麗な川に魚も住まない様に、真理に対してそれは清すぎて人々はそれを愛さなかったのである。

2.人の心は液体や気体にも勝って変幻自在に変化するものであり、何物にも勝って不安定で不確実なものである。

3.人を治めるのに最も肝心な事は、働きに対する報酬を与える事であって、それをしない、もしくは出来なくなった王朝こそが滅んでいったのである。それに対して神エホバは忠実な人々に対して、常に満ち溢れるほどに報いてくださるのである。

4.人間にとって難しい事柄は神にとっては簡単な事である。また、人間にとってたいそう価値のある賢い事柄も神にとっては愚かな事である。

5.いつの時代、どこの国の人々でも、自分達にとっての幸福と平和を常に求めているのに、それを叶えてくださる神エホバを愛さない者が多いというのは、何というおかしな悲しむべき、すれ違いであろうか。

6.はっきりと言っておく。この世で患難に遭いながらも、それでも神エホバを愛していない者は、患難を受ける事を否まない者なのである。あなたは患難を自分で引き寄せた事になる。

高田義裕の人生論

今日の格言

発想の転換

あなたは毎日同じような価値観で生きており、ある悩みを抱えているとする。しかしその悩みは常日頃の価値観を打破して見れば解消するかもしれない。例えば、世界地図を広げて見ると、私達は北半球に位置している。だから日頃から北半球が世界の中心であるかの様に考えてはいないだろうか。よって我々の常識から言えば、南半球にはほとんど大陸が無く、オーストラリアしかない。だから南半球は大陸が少なくてオーストラリアしかないから、オーストラリアの人は世界の中心には無くて、ポツンとひとつだけ下にある孤立した大陸だ。さぞ寂しいであろう。などと考えてはいないだろうか。しかし、逆にオーストラリアを視点の基準にすれば、北半球には大半の大陸がある。しかし南半球には私達のオーストラリアという大陸だけしかない。私達オーストラリア人は多くの大陸よりもひとつだけ突出して上の方にあるから、私達は世界の中心であり、世界のナンバーワンだ。と思っているかもしれないのである。また、あるAさんはあるBさんの事を彼女は内気でおとなしい人だ。友達が少なくて、さぞ寂しいであろう。と考えているかもしれない。しかし、BさんからしたらAさんは彼女は誰とでもすぐ仲良くなってしゃべるけど、彼女は寂しくて無理して社交的にしているのでは無いだろうか。友達が少なくても平気な私に比べれば、Aさんは余計な努力をして大変そうだ。と思っているかもしれないのだ。また、常日頃から出来るだけお金の支出を減らすために安いものばかり買ってお金がかからない様にしている人は、今日はこれだけ出費を減らす事が出来た。これだけ安く買えて大変うれしいと思っている。また金持ちは、贅沢で高価な食品ばかりを購入し、こんなに高価で美味しいものばかり買えて私は恵まれていて大変うれしいと思っている。しかし、安いものばかり選んで買う人から見れば、高価な商品ばかりを買う人はもっと安くて美味しい買い方があるのに、無駄にお金を払って損している。なんて損な事をしているのだろう、とほくそ笑んで冷笑する。しかし、金持ちは金持ちで、いつも安いものばかり買って、お金が無いのね、少ない給料からやりくりしなければならないから私みたいに何も考えずに大量に買えないのね、可哀想な人だ。と思っているのである。すなわちこれらに共通して言える事は互いが互いに逆の発想で物事を見ている事である。私達の常識は他の人から見たら非常識なのである。私達の考え方は絶対的なものでは無く、あくまでも、相対的なものである。よって、あなたの抱いている悩みも絶対的な価値観では無いのである。他の人から見ればそれは羨ましい事かもしれないのである。よってぜひ、たまには世界地図を逆さまに見る様にして、あなたの常日頃の常識を逆さまから見つめ直すと良い。すると今までの悩みがまた別の価値観を持ってあなたに新たな世界の境地を開いてくれるかもしれないからだ。

高田義裕の人生論

今日の格言

義なる者にとっては、すべては清いという意味の真意とは、あらゆるどんなひとつひとつの物事に対しても、常に良い部分だけを上手に抽出している人間の事を言うのである。すなわち、雨が降れば、明日は晴れるだろう、と前向きに考え、怒られたら、怒られた相手にでは無く、自分のどこに怒られた要因があるのかを尋ね求め、それを見いだしたなら、よくぞ怒ってくれました、と相手に感謝する事により、怒った相手がむしろ仰天する事であり、災いにあったなら、自分と同じ災いに遭っている人の気持ちが分かった、と喜ぶ事であり、貧しければ、貧しさを楽しむ心の余裕を持っている事であり、性格の悪い人と仕事をしなければならない時には、その人の何かしら良い面を積極的に探す人の事であり、なんにせよ、すべての事を肯定的に前向きに考える人の事を言うのである。よって義なる人によってすべての事柄は清くされ、精錬されるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

正しいとは正確である事である。また、悪いとは不正確であるという事である。すなわち、緻密な計算と厳密な調査、すなわち、正直さが正義なのであって、曖昧にする事、いい加減な事、すなわち嘘をつく事が悪なのである。例えば、線路を引くにしても、緻密な計算と厳密な調査をもって線路を引かなければ、電車は走る事が出来ないし、適当にいい加減にビルの土台を作ったなら、ビルは崩壊してしまうのである。よって正しさと悪とは二律背反の関係にあって、正しさの精度は悪の精度に比例し、悪の精度は正しさの精度に反比例するのである。これはどういう事かと言うと、より正しい事を追求していけばいくほど、悪という質も高くなっていくという事である。例えば、土で作った粗末な家で満足すれば、土で作った家はそれで正しいのである。それは手抜きでは無い。しかし、ひとたび、家の住み心地や快適さ、便利な機能やオシャレなインテリアなどに厳密にこだわっていくと、その人にとって土で作った家は悪なのである。彼は高いレベルのものを求めれば求めるほど、適当にいい加減に作った家や商品はすべて、手抜きの悪製品としか映らなくなるからである。すなわち正しさを追求して行けば行くほど、悪であるレベルの高さも量も高くなり、増えていくのである。しかし、そんなに正しさを追求せずに低いレベルで満足すれば、悪であるレベルの高さも量も低くなり、減少するのである。これはなんと皮肉な事であろうか。正しさを追い求める事が、悪の量を増やす事になるのである。これは日頃、真面目に生きるタイプの人間であればあるほど、自分自身に厳しい制限を課し、生きづらくしていくのに対し、物事を深く考えず、適当にのんびりと生きている人間にとって自分自身に厳しい制限を課す事も無く、生きるのが楽である事と同じなのである。すなわち結論として、真面目で正しい事が果たして良い事かと言うと、そうでも無いのである。なぜなら相手の過ちを許すという事は、相手の過ちを厳密に真面目に取り上げず、自分にとって適当にいい加減に曖昧にする事だからである。愛はその点、相手の過ちを許す点で曖昧でいい加減でなければならないのであり、悪も必要な要素である事を示している。すなわち、この多様性に満ちた世界にあって、真面目で正しい事がすべてでは無いという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

誰もが皆、自分というものを背負っているのである。

2.正しい事を行う事は不可能では無いが、難しい事である。悪い事を行う事は、可能であるばかりか、たやすい事である。

3.よこしまな願望を持つ者は、よこしまな悩みによって1人で悩むのに対し、健全な願望を持つ者は、人との共通の悩みによって、互いに共有する。

4.キャパシティ(容量)の関係で述べれば、神エホバと人との決定的な違いとは、例えば10部屋しかないホテルに12人がいたとすれば、人の観点でいけば、互いに争って勝った者がその部屋に入れば良いという事になるが、絶対者であり、全能である神エホバにとっては、10部屋しかないのであれば、もう一つホテルを建てれば良いという発想なのである。すなわち、この巨大なホテルとも言える地球において、人が溢れて住みにくくなれば、人の常識から行ったら、人を殺して人数を減らすしかないと考えるが、神エホバからすれば、それなら地球をもう一個作れば良いという発想なのである。なぜなら、神は蜘蛛の糸一本で地球を釣り上げることの出来る方であり、神エホバを人間の観点から推し量ってはならないのである。この人間の発想と神からの観点は隔絶の感があるのであり、私達人間にとって決してあらがう事の出来ない不可抗力な法則も、神にとっては外衣のように折りたたむ程度の変更可能な事柄でしかないという事である。それが絶対者の絶対者たる所以である。

高田義裕の人生論

今日の格言

脆いもの、失いやすいもの、壊れやすいものはすべて、これらは悪に起因するものであり、結論として悪とは脆いもの、失いやすいもの、また壊れやすいものなのである。これに対して愛は、決して絶えず、愛とは丈夫で長持ちし、誰にも簡単で、手に入れやすく、また単純明解で人にとって心地良いものなのである。

2.はっきりと言っておく。御子イエスキリストを飛び越えての真の神への信仰(崇拝)などあり得ないのである。

3.今の私達にとって必要な公理とは、現在の今の状況にとって、何が御子イエスキリストに通じる最善の道、もしくは方向であるかを選択していく事なのである。

4.すべて理知ある人間というものの特質とは、相手に要求するのならば、まず自分が率先して相手に与える事にあるのである。

5.すべて理知ある人間というものの特質とは、まず最初に気付いた者がそれを実践する事にあるのである。

6.理知ある自由意志を持つ人間の特質とは、満ち溢れるほどに持つことでは決して無く、自ら足りて満足を得ることなのである。

7.私達はたとえそれがどんなに正しく、理に適っていても、自分にとっての都合の良い正しさはこれを追い求めず、ただ神エホバによる正しさを追い求めるのである。

8.人間とは本来、怒るということが無くても生きていける生き物であり、人間とは本来、誇るということが無くても生きていける生き物なのである。