高田義裕の人生論

今日の格言

まじめであることの息苦しさ

人間は罪を犯したい存在である。人間=罪を犯したい、と定義すれば、日頃、罪を犯す者は当たり前であり、日頃、罪を犯さない者は異常だということになる。すなわち、日頃、罪を犯さない人達は、皆、罪を犯したい欲望を我慢しているということが露呈される。これは、例えれば、溶岩を溜め込んだ火山の様であり、いつ大噴火、すなわち、重大な罪を犯しても不思議ではない状態である。人は禁止されればされるほど、それを破りたくなるのであり、してはいけないことをするほど、気分がスカッとし、ストレスが発散されるのである。人はまじめであることにストレスを感じる。まじめに振る舞うことに息苦しさを感じ、生き辛さを覚えるのである。よって、日頃、まじめ過ぎる人ほど、ある日、突然、大きな罪を犯す確率は高い。人がまじめさを保つのは、大変な労力を要するのであり、私達は他の人がまじめに振る舞うことを、日頃、当たり前に思っていないか?それは甚だ見当違いなことなのである。むしろ、他の人のまじめな振る舞いを、日頃から褒めるべきであり、場合によっては、報酬を与えるべきである。よって人は、日頃、まじめに振る舞うことによって生じるストレスを何かしらの形で発散させなければならない。なぜなら、それによって、人が常日頃、まじめな態度を保つためのモチベーションに繋がるからである。まじめであることが当たり前の社会は、むしろ、異常であり、すべての人に常に笑顔と品の良いマナーを当たり前のように要求する社会は、感情労働を無意識に強いる強制労働社会であり、人間の自由意識を搾取する不健全で、甚だ、不健康な社会なのである。誰でも、本音を言えば、男女の区別なく、かって気ままに振る舞いたいし、いろんな欲望を満たしたいし、いろんな異性とセックスを楽しみたいし、特に男性に関しては、ポルノビデオを見たい。すなわち、まじめさを要求される職業に就く人ほど、そうでない人達よりもストレスを溜め込んでおり、アブノーマルな性犯罪や欲望の衝動に駈られている。例えば、警察官や教師や医師や聖職者という模範的立場にいる人ほど、アブノーマルな欲求を抱きやすい。よって、私達はある悪い習慣を克服したと考えているなら、私達はいまだにそれを克服すべきほどにも克服してはいません。よって、我々は死ぬまで、あらゆる誘惑、もしくは、ギャンブル依存性、アルコール依存性、セックス依存性、ポルノ依存性、ドラッグ依存性、買い物依存性と戦い続けなければならないのである。よって、人は他の人の抱えている問題は自分たちと同じものなのだ、と考えて、自分の心を広げ、他の人を思いやる点で自分の心の寛容さの許容範囲を拡張しなければならないのであり、自分を他の人と比べて、優劣を競う対抗心を辞め、むしろ、互いの罪を告白し合う点で率先し、互いに心の本音をたやすく言い合える環境を作りあげていかなければならないのである。これこそが本当の健全で健康な社会の在り方なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

我々は実在しているのか?

我々の世界は実在しているのか。相対論に基づけば、我々のこの世界が唯一[絶対]なのではない。無限の世界が存在し、我々の世界はその1つに過ぎない。その意味においては、我々の存在は実在とは直接に関与しない。これを相対主義と言う。例えば、Aという直線があるとする。そのA直線上に我々は存在していると考える。しかし、直線は1つではなく、無数に存在するから、我らA直線上の世界以外に、B直線上の世界もあれば、C直線上の世界も同時に並行して存在する。このように同時に並行して存在しているため、A直線上の我々は、B直線上の世界や、C直線上の世界を直に観察することはできない。要するに、観測という行為は、観測する対象が自分たちの観測しようとしている世界より、時間的に遅れているか、それとも、時間的に先に進んでいるかの場合にのみ、観測する対象を観測することができるのである。言い換えれば、我々の目で見えるものは、常に過去のものか、それとも、未来のものかに限定される。私達が宇宙の星が見えるのも、その星の光が幾億年もの昔に輝いたものが今、見えているわけであり、我々の視覚に映る草木や風景も、視覚神経を通して眼球に達するまで時間が経過しており、我々の見る世界は常に数秒過去のものを見ていることになる。よって、量子力学の世界において、極微な電子を観測しようとするとき、光子の光を当てた時、電子の現時点の状態を見ることができない。すなわち、光子を当てる前の電子の状態か、光子を当てた後の電子の状態しか観測できない。これが電子の存在を確率論的にしか予想できない理由なのである。よって、物質の最小単位である電子は実在していることとは直接に関与しない。よって、光は粒子でもなければ、波でもないことが理解できる。逆に言えば、光は粒子でもあれば、波でもあると言うことができる。なぜなら、粒子は我々の世界では、ボールのようなものであり、ボールは現在の位置が分かれば、将来の位置も予測できる性質を持つから、それは多分に未来的であり、波とは、石が水面に落ちた後に起こる現象であるから、それは多分に過去的なのである。それでは、実在とは存在するのであろうか?ここでは実在を真理と置き換えてもよいだろう。果たして真理、すなわち、現時点での本当の値、正確な数値、本当の実在世界は存在するのであろうか?例えば、時刻が狂っている時計があるとする。それが1つだけしかなければ、何の意味もないが、それぞれにすべて時刻が狂っている時計を無限に用意したならどうなるであろうか?そうすれば、その中に必ず時刻の正確な時計が存在することは自明の理である。よって、相対論に基づけば、無限の相対世界が存在するのであるから、その中に必ず、真の実体、すなわち、実在する世界が存在するのは自明の理である。よって、真理はどこかに必ず存在することになる。よって、皮肉なことに、相対的存在が絶対的存在を証明する役割を果たすのである。