高田義裕の人生論

今日の格言

本質的に言って、いい女というものが存在するわけでは決して無く、ただいい女のフリができるかどうかに懸かっているだけであり、またいい男というものも存在するわけでは決して無く、ただいい男のフリがどこまでできるかどうかに懸かっているのみなのである。いい女のフリとは、甘え上手であるという事であり、いい男のフリとは、最後まで自分のすべてを見せないという事なのである。要するに男と女とはキツネとタヌキの化かし合いであり、ただ恋の駆け引きに勝つか負けるかだけなのである。すなわちいい女になりたかったら、またいい男になりたかったら、人生の経験を積むしか無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

死とは何か。それは新たな世界を開く扉である。小麦から教訓を得なさい。小さな小麦の種が落ちて死ななければ、次の新しい小麦は生まれてこない。すなわち小麦の死という犠牲によって新たな小麦が生まれてくるのである。生き物の命さえそうである。私達の体は細胞で出来ているが、今の細胞が自分の命を犠牲にして死ぬ事によって、新たな細胞が生まれ、それにより体全体が新陳代謝され、全体としての命が維持されるのである。では人はなぜ死ぬか。聖書ははっきり述べている。すなわち罪の報いが死であると。よって人は自分の罪の贖いのために自分の命を犠牲にし、死ぬ事によって自分の罪から解き放たれるのである。よって死人は生前の自分の犯した罪から放免されているのである。よって私達はまず死んで、自分に対して新たな命の種を落とすのである。そうして私達は神の支配するパラダイスで全く新たな命の体を享受するのである。すなわち永遠の命である。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中の本質が如何に機能的に言ってゼロであり、死んでいるものであるかという事は、如何にして言えるかというと、これは常にあらゆる場合に対して当てはまる事であるが、[常にある必要性が要求された時には、常にその必要とされるものは、その必要とされる所には決して無い]という事である。これは自然災害の時も、社会問題にしても、必要とされる救済策がそれが生じた時には全く手付かずのまま用意されていないという事を意味する。人間の人間に対する支配は常に後手であって、本来なら、自然災害や社会問題が起こる兆候を事前に察知し、問題が表面化する前に手を打たなければならないのである。これが本当のノーマルな政治であって、実際には問題が表面化し、多くの痛ましい犠牲者が出てからようやく腰を上げるのが実情ではないだろうか。この様に人間の支配する社会は問題が起こった後の原因の理由付けはいくらでも出来ても、問題が起こる前の予見は決して出来ないのである。すなわち今あるいろんな対策案はすべて多くの犠牲者の上に成り立っているのであって、この時点で人間が人間を支配する能力を持っていないという事を証しするものである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生は飛行機に例えられる。飛行機は飛び立つ前に十分に助走して加速度をつけないと飛び上がれない。実は飛行機にとって着陸するよりも離陸する時の方が一番力もいるし、難しくて危険なのである。人の人生もそうである。人は幼児期から徐々に成長して行くが、ここで十分に助走して加速度をつけないと、すなわち幼少の頃から十分に愛情を受けて順調に育って行かないと、いざこれから離陸するという、すなわち青年期に向けて飛び立つ時、上手く飛び上がれないのである。この時期がいわゆる人間の思春期であり、人間にとって一番力もいるし、難しくて危険な時期なのである。私はこの時期を悪魔が連れ去る日と呼んでいる。この時期を無事に越えた者は大空を飛んで行く飛行機の様に安定して人生の軌道に乗れるが、この思春期までに親の離婚や家庭の問題などで十分な愛情を受けて来なかった子供達は離陸に失敗し、そのまま墜落してしまう事が多々あるのである。すなわち思春期に問題を抱えてしまったら、その後の人生に甚大な影響を与えてしまうのである。人間の人生は思春期いかんで、ほとんど方向付けが決まってしまうと言っても過言ではない。この思春期という精神的に不安定になり、大人になるための、サナギから成虫になる蝶の様に激変する時期を親達は決して甘く見てはいけない。そう、小学校までは誰でも順調に育つのであるが、これが中学校になると状況は一変するのである。よって思春期を上手く乗り越える人生のコツはやっぱり親と子が普段から何でも話せる関係を築いておくか否かに懸かっているのである。常に親子で親密なコミュニケーションをとっていれば、いざ問題が生じた時でも、親は子供の異変を敏感に察知する事が出来、未然に問題を防げるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生は季節に例えられる。人は生まれた頃は母親の保護のもとで春の様にのどかに成長する。そして乳離れをした頃から、いろんな経験や知識を得る事に力を注ぐ。これはまるで稲作の田植えの時期の様である。小さな苗は百姓達の毎日の地道で大変な労働によって少しずつ育っていく。そして人生には夏という順風満帆な時節を迎える。この時こそまさに作物も人もぐんと成長する事の出来るチャンスの時である。そして人は年を重ね、田んぼの苗も十分育って穫り入れの秋を迎える。そう、春から夏にかけて地道に努力してきた収穫という報いを刈り取るのである。しかし人生の終盤になると、冬という厳しい逆境の時を迎える。冬は作物も育たず、厳しい寒さがすべてを覆い尽くす。人間の各人の人生はここで決定する。すなわち春や夏や秋はこの冬という厳しい試練と逆境の時を忍耐し、乗り越えるための準備の期間に過ぎなかったのであると、ようやく人は気付く。そう、春や夏や秋はのんきに何もせずに遊びほうける為にあったのでは無いのである。春や夏や秋という人生の比較的順調な時に、苦しい思いをして精神的にも肉体的にも努力して鍛えた分の蓄えを、何も得られない長い冬という逆境の時に、少しずつ取り崩して冬を乗り越えなければならないのである。つまり春や夏や秋に何もせずに怠けてきた者は冬という人生の逆境の時に何も蓄えていないから、その冬という逆境の寒さの厳しさに耐えられずに死んで行くのである。大半の人間は蓄えるべき春や夏や秋の時期を無為に過ごすから、いざ試練が及んだ時には時すでに遅し、なのである。すなわち少数の人間が、春や夏や秋の時期に遊びたいのを我慢し、食物を蓄える為に必死に努力しておいた分、何とか逆境を乗り越えられるのである。そしてこれも真実の言葉であるが、冬来りなば春遠からじ、であり、真っ暗な真夜中も過ぎれば夜明けは近いのである。そうして逆境という冬と真夜中を乗り越えた者だけが新たな春という夜明けを迎える事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

兵法序論

人生とは戦いであって、決してのほほんと生きれるものでは無い。よって常に私達には生きていく上で敵が必ずいるのであり、敵に対する対処法を持ち合わせていなければならないのである。

1.防御(ディフェンス)とは、常に自分を敵よりも強いと見せかけて、相手を怯え上がらせる事によってその間に安全地帯まで移動し身を守るものである。

2.攻撃(アタック)とは、常に自分を敵より弱いと見せかけて、相手を油断させる事により、自分の陣地に引き入れ、自分が優位にたった時に一斉に不意打ちをかけるものである。

高田義裕の人生論

今日の格言

物質をどんどん切り刻んで、小さくして行くと、最後には原子核と電子に辿り着く。それでは時間をどんどん切り刻んで、0.1秒、0.01秒、0.001秒、0.0001秒という風に小さくして行くとどうなるか。何と時間を小さく切り刻んで行くほど、その切り刻んだ分の時間が増えているのである。要するに時間は小さくする事は出来ないのである。よって時間は増え続けても減り続ける事は無いのである。それとは逆にエネルギーは時間が経てば経つほど減り続けるのである。よってエネルギーと時間は互いに反比例の関係にある。すなわちエネルギーが少なくなればなるほど時間は増加し、エネルギーが多くなればなるほど時間は減少するのである。また、時間が増えれば増えるほどエネルギーは減少し、時間が減少すればするほどエネルギーは増加するのである。よってエネルギーが0の時、時間は最大値を取り、エネルギーが無限大の時、時間は0となるのである。よって時間とはエネルギーを消費するものとして表される。これをエントロピーと言うが、エントロピーの増加は時間の増加に等しい。よって時間が無限大になった時、マイナスエネルギーも無限大となる。よって時間とはマイナスエネルギーの事である。例えば、自動車を運転している時はエンジンの駆動というエネルギーが必要であるが、ブレーキをかけて減速した時、それはマイナスエネルギーが増加した事だから、減速した分だけ時間を消費した事になる。するとブレーキをかけて時間が減少したという事は先程の定義に従えば、ブレーキを踏んだ事によってそれだけエネルギーが増加した事になる。するとマイナスエネルギーも増加し、エネルギーも増加した事になる。そうである。マイナスエネルギーとはエネルギーの事なのである。よってマイナスエネルギーとは時間の事でもあったから、エネルギーとは時間の事でもあるのである。何とこの様に議論を続けて行くと、矛盾が生じてしまうのである。すなわち時間とエネルギーは反比例の関係だったのに、それを元に議論を続けて行くと、最後には時間はエネルギーに等しくなってしまうのである。すなわち時間が増えるほどエネルギーも増え、時間が減少するほどエネルギーも減少するのであり、エネルギーが増加するほど時間も増加するのである。よって結論として、時間とエネルギーは反比例の関係にあると仮定すると、結局は、時間とエネルギーは比例の関係にある事が導き出される。よって時間とエネルギーは互いに等しい。

高田義裕の人生論

今日の格言

もしするか、しないか迷うのであれば、その場合はしない方が良い。

2.はっきりと言っておく。たとえ神のためにすべてのものを失ったとしても、むしろ、それを何1つ失わなかった者の方よりもましなのである。あなたは後に神からその幾倍もの報いを受けるのである。

3.聖書の薦めているエッセンスとは、人は自分の為に他の誰をも模範にしたり、頼ったりする対象は神以外には見出せないという事である。すなわち自分自身も、親も、友人も、高貴な者も、他のどんな者も、自分にとっての指針となってくれる様な存在では決して無いのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

人間の心ほど理屈では分からないものは無い。例えば量子力学では、電子は粒子の性質を持つが、波としての性質も合わせ持つ。これは人間の心で例えれば、私は自分の事が嫌いかと言えば好きだし、かと言って自分の事が好きかと言えば嫌いだ、と言っている事に等しいのである。そう、理屈や論理や理性では人間の心は理解出来ないのである。この互いに矛盾した感情を合わせ持っているのが人間の心であり、自分の心ですら本人自身ははっきりと説明出来ない不満や葛藤や悩みがあるのである。精神科医はそれを何とか理屈をつけて理解しようと努めるが、それは現代医学の誤りであり、限界なのである。この曖昧模糊としたはっきりしないやり場の無い気持ちは誰でも持っているはずである。人間はとにかく自分達の理解出来ないものは排除しようとする性格を持つが、私達の心自体が理解し難いものであり、それ故に人は自分の心を排除しようとする。そう、それは自殺という形となって現れる。人間は自分の理解出来ないものが不快で仕様がないのだ。そこで心の病を持っている人間が到達すべき救済の最後の手段は神への祈りである。神はすべての考えに勝っておられる方であり、あなたがまだ自分の気持ちを言い表せていないうちから神はその人の気持ちを既にご存知である。であるから、一切の考えに勝る神の平和に道を譲り、常に自分の誓願を神の前に注ぎ出し常に祈りをするようにすべきである。そう、もはや理性による科学万能の時代は終焉を迎えたのである。これからは理性を超えた神の存在を認める霊性が必要とされる時代である。私達人間は最終的には神に頼らない限り、生きてはいけない存在である事が暴露される時代となるであろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

正しい事をすべて知っているだけでは何の意味も成さず、正しい事のある部分だけを重んじていてもそれは何の意味も成さず、正しい事をただ羅列して並べてみても何の意味も成さないのである。ただ全体として、あらゆる正しさの諸要素がどう正しく組み合わされ(配列され)、バランスがとれていて、その結果、全体として正しいかどうかで初めてそれは有用なものとなるのである。よって我々人間の知恵とはあくまでも部分的なものに過ぎず、物事の全体を見通す事が出来ないのである。物事の全体を見通してこそ、初めて物事の本質が理解可能なのであり、その意味では私達人間には能力の限界がある事を謙虚に認めなければならない。それでは物事の本質である全体を見通す事の出来る者は誰か。それは神である。なぜならこの世界のすべてを造ったのは神御自身であるから。要するに神の造ったものを人間は完全には理解する事が出来ない。よって人間自身も神によって造られたものだから、人間自身すら人間の本質を知り尽くす事は永久に不可能なのである。よって人間には常にどんなに道を探求しても、到達出来ない未知の領域が残る。人間はそこに大いなる残余と神に対する畏怖の念を感じ取らなければならない。しかし神御自身にさえも神御自身のための、まだ未到達の目的を持たれてあるのである。