高田義裕の人生論

今日の箴言

与えられていることに慣れてしまった者は、自分が与えるということを全く知らないこと。

2.他の人に、悪口を言われて、それを非常に気にしてしまっている人に対して言えることは、たとえ、それを言われるだけの要素をあなたが持っていたとしても、それをあえて言う、その人の人格が問われるべきであり、言われる方ではなく、あくまでも、言う方に問題があるということである。また、人の言う様々な悪口は、その動機が、その人の一時的に出る、ストレスが原因であったり、とっさに出るきまぐれが原因であるのであり、決して真剣さのあるものでないから、それを言われた側の本人であるあなたが、それを真剣に、毎日考慮に入れ、気にし続けることは、全く損であり、無駄なことであるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

互いに親密な関係とは、互いに裏切ることの出来無い関係、すなわち、どちらかが倒れれば、もう一方も倒れてしまうという関係のことと言い換えることができる。

2.私達人間は、自分の歩みを導くことさえ、自分では出来ない存在なのであり、すなわち、すべての人間は自分の本来あるべき道から、逸れてしまっているのである。よって、人生において、苦しみや挫折を経験しない者など一人としていないということなのである。もし、そうでないと言い張れる者は、それに対して、ただ、無自覚でいるだけか、それとも、嘘を言っているかのどちらにしか過ぎ無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人が成功するか、しないかは最終的には、運で決まるのであり、日頃の生活態度の努力の積み重ねによって、運は、自分に引き寄せることができること。

2.必ずしも、すべてのことをいちいち細部にわたって知る必要は無く、そうしなくても、すべてを知ることは可能であること。それは、あくまでも、あらゆる物事には、要点、もしくは、要というものがあり、それさえまず、きちんと押さえておけば、後はそれを土台として、肉付けして行き、応用することができるからである。

3.人が、他の人の外面を見て、望ましいと思ったり、羨ましいと思っても、その感情は、他の人を、勝手気ままに、きまぐれで、あくまでも、自分の都合の良い甘い見方で、実際の実像を曲げて、極端に一部分だけを見ているだけなのであり、実際は、その人がそのようになるまでの、大変な事情と、そうなるだけの大変な代償を払っていることという全体を見落としており、かつ全く考慮に入れていないということである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

怠惰さは、根拠の無い誇りを、育くむだけであること。よって、いつでも、勤勉で真面目に働いて、自分の心身全体を使っている者は、それによって、自分自身の身の程も知り得ることができる分、むしろ、態度が、謙虚で、謙遜であること。

2.人間、一つだけ言える、生き方や接し方のコツとは、たとえ、自分の本心を99%見抜かれていたとしても、相手に唆されて、自分の口から、そうです、と言ってしまわない限り、決して大丈夫であり、相手は何も出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真実の言葉として、もし、あなたが、他の人のある欠点を、ものすごく不快に感じ、余計に気になるようなら、それは、あなた自身の内に、その同じ欠点が、その人以上にあるということを証明するものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は、私達が生まれてきた時から定められた、私達の行うべき仕事の量は、神から減らしてもらえることは、決してないけれども、しかし、その分の仕事を行うべき確かな理由だけは必ず、初めから与えられているのである。

2.私が、最近気付かされたこととして、人間、たとえ本来すべての人が、同じレベルに到達すべきような当たり前の正しさに対してでさえ、それを行うことには、各々個人差による限界があるということである。すなわち、正しいことを行うことに関してでさえ、能力の優劣は確かに存在するのであり、しかし、それ自体は、決して不自然で悪いことではないのである。人は、すべての人に対して、等しい正しさを求め、それを植え付けようとするが、それは間違った教育の仕方なのである。よって、各人は、自分の立場なり、限界をわきまえない、過度の努力をすることは、各人にとって、非常に危険なものとなるから、それを避けることに、注意深くなければならないのである。すなわち、正しいことができなくても、それは悪いことではないのである。よって当然のように正しさを要求してくる厚顔な者達には用心せよ。

3.人の上に自分を高めている者は、全く無自覚に、取り柄のない人間は、すべて、見捨てるべきである、という考え方に賛同していることになること。その価値観で生き続けていくと、いずれ、自分の能力が尽きた時に、自分もまた、人から見捨てられてしまうこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

仕事をした後は、必ず、休憩を入れなければ、体を壊してしまうように、人は、成功をした後は、必ず、失敗しなければならないのであり、成功し続けるということは、まるで、休憩を入れずに、仕事をし続けるようなものなのである。もし、何の失敗も経験せず、常に成功し続けるということは、本人にとって、非常に危険なことであり、非現実でナンセンスなことなのである。もし、それが続くとしたら、人はいずれ、精神的にも、体力的にも参ってしまって、人格が壊れてしまうのである。

2.人間は、本来、一方的にしか生きられない生き物なのである。なぜなら、人はたとえ、どれだけ逆境に立たされても、人は生きている限り、悩んでばかりでは居られず、結局のところ、プラス思考と希望とを持って、明るく生きていかざるを得ない存在だからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人生とは、決してすぐには解決し、もしくは解消されない問題、もしくは、治癒出来ない傷みや、癒すことの出来ない、慢性的な傷を抱え、それを背負いながら生きていくようなものなのである。よって私の人生とは幸福であるはずだ、という思い込みや、私の病気は必ず治るはずだ、という期待を持てば持つほど、現実とのギャップが生じて、苦しみが倍増するのである。よってそのような根拠の無い曖昧な先入観と理想論を捨て、現実をありのままに受け止め、自分の問題や病と日々付き合っていくことを決意するなら、苦しみや傷みは、半分に減って、何とか持ちこたえて行けるようにまでなるのである。この自覚と決意こそが、真の大人の世界観であり、一人前の人間としての世界観なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、まず先に、得よう得ようとするから、すべて失敗するのである。本当の正しい順序とは、まず、与えてからでなければ、どうして得られるでしょうか、ということなのである。例えば、友達が欲しいと思うなら、相手が来てくれるのを待っていても、それは、永遠に来てくれないのであり、まず、自分の方から相手の人に声をかけて友達をつくっていくようにしなければならないからである。

2.初めから、人生とは、失敗と書くのである。よって、失敗をいちいち恐れてはいけないのである。

3.初めから、人間は、愚かと書くのである。よって、どれだけ愚かな行いをしようが、それにいちいち悔いていては、身がもたないのである。

4.初めから、人間は、助け合いと書くのである。よってどれだけ、お世話になっても、それにいちいち負い目を感じていては、身がもたないのである。また、どれだけ相手のことを助けてあげても、それをいちいち数え挙げていては、誰も寄り付かなくなるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰であれ、一人の人を侮る者は、すべての人を侮ることになる。

2.知恵と真理を知ることが、人間にとっての真の幸福の道であると信じて、それを集めることに没頭する者に対して、その終わりは、自分自身への様々な傷みや問題の集積に他ならないこと。すなわち、人は、知識を増し加えた分だけ、また次から次へと問題をも増し加えることになるのである。これは、まるで、多くの貴重な宝や財産を手元に集める分だけ、それを維持したり、管理したりするのに、少ししか持っていない者よりも、余計にコストがかかり、気苦労も要してしまうということである。人生は、よくマラソンに例えられる。すべての人がゴールまで向かって走るのであるが、その走る際、マラソン選手は、できるだけ、何も身に付けずに、身軽になって、自分の身一つで走ろうとするだろう。しかし、一人だけ変わった人がいて、体に幾つもの黄金の金を身につけて、酷そうに走っている。観客は皆、それを見て、笑ってこう言う。あの人はなぜ、あの様な重たい荷物を持ちながら、走っているのか。それでは、酷いに決まっているではないか。マラソンの意味が分かっているのか、と。そう、マラソンという人生において、多くの物を所有することは、最後には、もう走れなくなって、リタイアするマラソン選手のような者なのである。彼らは自らのその富の故に、自らの人生を滅びに陥れるのである。