高田義裕の人生論

今日の箴言

たった一つだけ言える事は、あらゆる事柄に対して、[急]の付く行いだけは、してはなら無いのである。例えば、車の急発進は危険だし、急に仕事が入って、それを急に行わなければならない場合は、仕事の質も雑になり、後で必ず誰かに迷惑をかける。要するに、物事はきちんと計画を立てて、準備万端にして行わなければ、良いものは、決して産まれないのであり、急ぐという事は、それらの事がおろそかになると言う事だからである。人間という生き物は、初めから、神によって、のんびり過ごす生き物として創造されており、緊急な時に対処出来る能力を与えられていないからである。よって、お金を儲けようとする事は、すべての人に良い結果を及ぼさない。何故なら、儲けようと思ったら、すべての事を急がなくてはならないのであり、急ぐという事は、忙しいと言う事であり、儲けようとすればするほど、スピードが要求されて行くからである。これは結局のところ、人々を疲弊させ、過労死に繋がって行くからである。私達のこの現代社会も、すべて、スピードを要求されるのではないだろうか。一度立ち止まって、周りの大自然を見てみるが良い。動物達は、急いでいるだろうか。いや、決して急いではいない。急いで成長するものなど、この万物に一つとして無いのである。逆に、急いでは、十分に栄養が届かず、成長出来ないのである。たとえ成長しても、それは欠陥だらけの奇形物となるだろう。そうである、すべての生き物の中で、急いでいるのは、人間だけなのである。この間違ったシステムは、何を産み出して来たか。それは、人間関係の相互の軋轢を産み出して来たし、地球環境も破壊して来たのである。すなわち、儲けようとする貪欲さは、すべての創造物を破壊するのである。貪欲さの成れの果ては、すべての絶滅である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どんな主張も半分当たっていて、半分間違っていること。これでは、プラスマイナスゼロであり、結局は、どんな主張も、一つとして何かを生み出せてはいないのである。そこには、ただ、議論だけが存在し、決して現状は変わらないと言うジレンマが、横たわっているのである。

2.物事を優先すると言う意味とは、ほとんどが重要で大切なものの中から、あえて一つを選ぶと言う事であり、後の事はスッパリ諦めると言う潔さが必要不可欠であること。すなわち、すべてのものを諦められない貪欲さのある者には、物事を優先するという事が出来ないのである。人生も同じである。あれもこれも実現したいと思っていては、結局のところ、すべてが中途半端になり、何も達成出来ないからである。人間の人生とは、やはり、一つの事に絞って、一つの事に集中する事が大事なのであり、ある一つの分野にかけては誰にも引けを取らないと言う覚悟が必要なのである。

3.人間、何事も、もうこれ以上は耐えられない、という様なピークの壁を乗り越えなければ、何も成し遂げられないし、身にも付かないこと。よって、すべての偉業には、産みの苦しみが必ず伴うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

小人と大人物

小人ほど損得にこだわる。例えば、あなたは今、一万円しか持っていないとする。当然使える金額に限度がある。あなたは、その一万円札をできるだけ無駄に浪費しないよう慎重に、細部に至るまで気を配ってそれを用いようとするであろう。これに対して、あなたは今、100億円持っているとする。あなたは非常に多く持っているので、一万円しか持っていなかった時よりもアバウトにお金を使える。これと同様に、小人は、一万円しか持っていない人間に例えられる。彼は、器量が小さく、せせこましい。ちょっとした損得にも敏感である。人の欠点を大げさに取り上げ、誰の下に付く方がより有利で得をするかばかりを考えている。他の人に自分の物を与えようなどという気はさらさら無い。むしろ、彼は、他の人に対する評価は物凄く厳しい。その割に、自分には甘い。彼は、常に損得を基準に付き合う人間を決めているので、好き嫌いが激しい。それに対し、大人物は、100億円持っている人間に例えられる。彼は器量が大きくて、おおらかである。人の欠点もおおらかに受け入れ、損得を基準に生きていない。彼の、他の人に対する評価は、非常に穏やかで優しい。その代わりに、自分には厳しい。また、寛大で、他の人に惜しみなく自分の持っている物を与える。彼はどんな人でも、受け入れて付き合うので、好き嫌いが無い。これが小人と大人物の違いである。何故彼は小人なのかと言うと、自分は少なくしか持っていないのに、それを増やそうとする努力をしない。すなわち怠惰なのである。しかし、何故彼は大人物なのかと言うと、自分が少なくしか持っていない事を恥じて自ら努力する。すなわち、勤勉なのである。よって人は人生において常に勤勉で謙虚でなければならない。

2.努力しない人間に将来は無い。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての物事は、循環している。例えば、宇宙の果てはどうなっているのか。それを果てしなく辿って行くと、いずれは、ある川の岸辺にある無数の小石の一つである原子にたどり着く。そう、我々の宇宙の果ては、その小石の原子の中にあるのである。時間についてはどうか。通常では、過去があって、次に未来があるが、その未来を果てしなく辿って行くと、遂には、過去にたどり着くのである。また、過去は、未来の後にあるが、過去をずっと果てしなく辿って行くと、遂には、未来に繋がっているのである。この様に時間も循環しているのである。ここで、この万物の全体像を、幾何学的に言い表せば、ちょうど、アラビア数字の8の様な形をしている。

高田義裕の人生論

今日の箴言

はっきりと言っておく。何も自分で成し遂げた事のない怠惰な人間ほど、自分は、やれば何でも出来ると思っている。しかし、逆に、何でも自分から積極的に物事にチャレンジして努力している人は、人生において、自分が望んだ4分の1すら実現出来ない、厳しい現実を経験しているので、自分は何も出来ない小さな存在である、と謙虚な気持ちを持っている。

2.自分を鍛えるという事は良いが、自分を鍛えるという事も元を正せば、自分自身の身に負担を強いる事であるから、余りにも自分を鍛え過ぎて、無理をする事により、自分の健康を損なってしまう様な事があってはいけない。要するに、何事も限度をわきまえておかねばならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて新しいものは、古くなる為にあること。

2.すべての定説は、覆される為にあること。

3.たとえ、一つ一つが、単純で簡単な事であっても、それは数が増えると、大変な脅威となるのである。例えば、水は、普段は、私達人間の思う通りに使用出来るし、全く水は、人間に従順で、おとなしい。しかし、いざ、極度の大雨や、地震による津波となった場合、水はまるで巨大な怪物となって人々を襲い、丸呑みにして行くのである。よって普段おとなしく見えるもの程、それが膨大に一気に来る時、それは牙を剥いた恐ろしいものとなる事を私達は、常に肝に銘じておかなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

人にとって、本当に、誤った道から立ち直らせる唯一の方法は、ショック療法しかないこと。この世の中の教育は、何でも初めから失敗させないように、まるで、決められたレールの上を走る電車のような教育の仕方をする。あなたは、盗んではなりません、あなたは、人を殺してはなりません、などと毎日言い聞かせて、口すっぱく言うが、それを聞いている子供は、将来、何も盗まない、人も殺さない人間になるかと言うと、決してそうではない。人は成人すると昔の面影もすっかり無くなり、別人のようになってしまうのである。すべての人は皆、小さい時から教育を必ず受けているはずなのに、この世の中はいつまでも、盗みや殺人は無くならない。これはどうしてかと言うと、何故人は盗んではいけないのか、何故人は人を殺してはいけないのか、というきちんとした理由と説明をしないで、ただ、そうしてはいけないと言うだけだからである。ただ知識だけでそれを知っているだけでは、罪を犯す抑止効果とはならないからである。そうしてはいけない理由を実際に身をもって背負わなければ、人は、本当に罪の重さを悟る事が出来ないからである。そう、実際に身をもって背負うという事は、いっぺん罪を犯さなければならないという事である。例えば、ある人が、誰かを殺してしまって、何の反省も無いとしても、その仕返しとして、自分の大事な子供を殺されたとする。この時初めて、人を殺したその人は、殺人が如何にいけない事かを、身をもって知るのである。すなわち、人は、取り返しの付かない事をしてしまって手遅れになって初めて、自分の犯した罪の重さを知るのである。これこそ真の教育に他ならない。要するに、人生を失敗させないように育てても、それは無駄な行為なのである。人は失敗して初めて教えられるのである。何故こう言うのかと言うと、神エホバでさえ、御自分の目の玉に入れても痛くない程に、愛している人類という子供に対して、あえて人が神を捨てた事柄の代償を人類に負わせる事を許す事により、人類を間違った道から立ち直らせるショック療法(荒療治)を選ばれたからである。何故なら、神はモーセを通して人に律法をお与えになり、聖書の出エジプト記20章13節からある様に、あなたは殺人をしてはならない、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、と書いてあるのである。しかし、これをもっと正確に言うならば、あなたは殺人をしてはならない、何故なら、あなたは必ず殺人をするからである、あなたは姦淫を犯してはならない、何故なら、あなたは必ず姦淫を犯すからである、あなたは盗んではならない、何故なら、あなたは必ず盗むからである、という事になるのである。すなわち、神は、律法を人類に背負わせる事によって、自分達の罪が必ず明らかになる様にされたからである。罪への自覚、これこそが真の教育なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

何が誉れのある事で、偉大な業績であるかと言うと、それは、何か珍しい事や、1万人に1人にしか理解する、もしくは、実現出来ない様な難解で、困難な事を達成する事ではない。それはひとえに、むしろ如何に困難な事を誰にでも簡単に、容易に出来る様にするかであり、また、以前には、何の繋がりも無いと思われていたもの同士の中にある共通する関係を発見する事であり、また、究極的には、以前には、決して繋がる事の出来なかったものをあえて繋げる事にあるのである。これらは何かの関係に似ていないだろうか。そう、それは人間関係である。例えば、以前は、敵同士であった者が、仲良くなる事であり、職場で、何かと意見の食い違う部下と上司が、実は、過去に、同じ苦しい経験をしており、それを知って、互いが仲良くなる事であり、国民の窮乏を見るのに耐えかねて、普段は、決して会うことの出来ない貧民の指導者とその国王が、互いに対話し合う事柄が実現する等の事なのである。そうだ、偉大な事とは、何かの分野で、誰も真似が出来ない程、飛び抜けて優れているという事ではないのだ。私達は、そこばかりに目を向けがちだが、実際には、以前には知らない者同士が、知り合う事とか、それまでは、互いに反目しあっていた者同士が仲直りしたりする事の方が本当に偉大な事なのである。よって、あなた方も、もっと自分の心を広くして、気の合う仲間達同士ばかりで付き合わず、もっといろんな人とコミュニケーションをしてみてはどうか。そうすれば、もっと人生は、豊かで幅の広いものになるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

人は、その親を敬い、それを愛さねばならない。なぜなら、目に見えるその存在無くしては自分が存在する事の出来なかった肉の両親を愛し、敬えない様であっては、ましてや、目には見えない神を愛し、敬うことなど出来ないからである。よって、自分は神を愛していると言いながら、目に見える仲間の人間を憎んだり、見下したり、殴ったり、殺したりしている者は、全くの偽り者であり、神の御名を冒涜しているのである。もし、神の名によって人殺しを正当化する事があるならば、神は彼を最も厳しく罰し、神の命の書からその名を拭い去られるからである。

2.この全世界の中で、最も偉大な事柄とは何か。それは、善行を行うこと、他の人を親切にすること、謙遜であること、他の人を敬うこと、などいろいろあるが、それに比べものにならない程、偉大なものがある。それは、諦めることである。鳥や動物達は、食物を得る為に、実に見事な能力と本能とを持って生きている。チーターは、最高時速100キロで走り、獲物を捕まえる。鳥は、何千キロもの距離を飛んで、移動し、渡りをする。それに対し、人間は、時速100キロで走ることも出来ないし、鳥のように飛ぶ事も出来ない。人間は他のあらゆる生き物から比べれば、遥かに劣った存在である。しかし、彼らには唯一、他のどの生き物にも持っていない素晴らしい特質がある。それは、我慢して諦める能力である。たとえ欲しい物があっても、お金が無いから、それを我慢して諦める。理想的な状態を思い描いて、精一杯努力したものの、遥か理想には届かなかった。それで人は、納得してそれを得ることを諦めるのである。他の生き物は、諦めるという事を知らない。彼らは食物を得られるまで諦めないし、生きる事に死ぬまで諦めない。しかし、人間は、たとえ空腹であっても、それを我慢して諦めるし、自分にとって掛け替えのない人間の為なら、自分の命を犠牲にして生きる事を諦めるのである。この一見無力の様に思える精神態度こそが、実は、一番人間を人間たらしめている偉大な特質なのであり、たとえ満ち足りていなくても、それで満足し、今ある物で生活し、生きようとする態度こそが、この全宇宙の中で最も全能な力なのである。まさに人間はこの物質世界にあって、他の生き物に対して神の様に偉大な存在なのである。なぜなら、聖書の創世記1章27節にあるように、[そうして神は人を御自分の像に創造してゆき、神の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された。]と書かれているからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人とは、非常に恵まれた、愛情たっぷりの環境で育てられてこそ、初めて全うに、当たり前の普通の人間になれること。よって、普通になるという事が実は最も難しいのである。なぜなら、大半の人は、親や周りの人達からたっぷりの愛情を受けて育てられて来なかったからである。人によっては、過度に厳しく育てられていたり、ほとんど親にかまって貰えなかった者もいる。それどころか、最近では、親から虐待を受けて死んでしまう子供達もいる。この様に私達は、完全に正しく、全うに、愛情を受けて育っていない為、何かしらの欲求不満を持っている。それを子供時代に、ずっと心に貯め続け、遂には、大人になって、その弊害が爆発するのである。ある人は、離婚という実を刈り取り、またある人は、殺人という犯罪を犯してしまうのである。この様に悪い方向に向かわざるを得なかった人達もいれば、世間からは著名で有名な立派な人になる者もいる。その人はなぜそれほどまで、立派になったのか。これもまた、幼少の頃から、恵まれずに育った事が原因であり、その苦痛とコンプレックスから逃れたい一心でそこまでに至ったのである。やはり、これらの人達も、普通の人から見れば、なんでそこまでしなければならなかったのか、よく理解出来ない所なのである。要するに、悪行に走った人も、普通以上に努力して立派になった人も、精神的には、決して健康な状態ではなく、むしろ、精神的奇形児なのである。なぜなら、ごく普通の人なら、犯罪など毛頭犯す気も無いし、苦しみを忍んでまで、余計な努力をする必要性も感じないからである。よって、自分は他の人よりも、立派で有名になった、と自分の事を誇っている者よ、あなたは心の病気なのである。嘆き悲しみなさい。また、自分には何の取り柄もなく、凡人であると、嘆き悲しんでいる者よ、あなたは全く健康なのである。喜び踊りなさい。