高田義裕の人生論

今日の箴言

人は皆、自分以外の身の周りにある物を増やし、富ますのでは決して無く、あくまでも、自分自身を富まし、増やさなければならないのである。

2.休息とは、あくまでも、常に2番目に位置するものであって、労した後に来るものであること。よって、休息が先に来ることは決して無いのである。

3.この世界で、何が最も苦痛を伴うエネルギーが必要なことと言って、間違いを正すという事ほど苦痛な事は無いのである。よって、たとえ、その人が明らかに間違っていたとしても、無責任に批判したり、咎めたりしてはならないという事であり、もし、どうしてもその間違いを指摘しなければならない場合は、指摘する側も、それを言うだけの覚悟と責任とを持って言わなければならないという事である。

4.隣人を自分自身の様に愛せたら、人と人の間に悪しき対抗心など決して起こるはずも無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

最近は、オスとメスという両極端な性質を、より、わざと強調することを良しとする、色気のフォルモンたっぷりの男女のカップルが多くなって来ているけれども、実際の男女の互いのあるべき姿と関係とは、その様な両極端さからは、抜け出た、バランスの取れた、中性で無ければならないのである。要するに、主イエスキリストにあっては、男は、女無しにあるのではなく、また、女も、男無しにあるのではないという事であり、それは、男女が、共にあくまでも、対等であり、どちらかが優勢になるわけでも無く、男女という観点(レベル)を超えて、あくまでも、一人の人という観点で物事を判断して行かなければならないのである。なぜなら、初めから、神は、人というものをお造りになったのであり、人とは、男と女の事であり、決して人とは、男を別にして女、女を別にして男のことを言うのではないからである。よって、今日、罪深い私達が、神の要求される人という基準に到達する為には、男女の区別無く、共に平等に、苦しい日々の戦いを戦い抜いて行かなければならないのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

分別が無いとは、人が自らで自らを良しとする、一人、鏡に向かって話すかの様に、虚しい態度の事なのである。よって、人は常に、他の人と、対話し、共鳴し、呼応して行かなければならない存在なのである。

2.およそ、人にとって、互いにあくまでも、対等に、協力し合い、助け合い、愛し合っていく事以上に、良いものは他には何も無い事を私は見い出すようになった。

3.何が恥で、どうしようもない事かと言って、他の人間の誰かに見捨てられるのなら、まだ、救いようはあるが、もはや、神からさえ見捨てられるのなら、これほど恥で救いようが無いという事は無いのである。

4.はっきりと言っておく。たとえどんなに素晴らしい事でさえも、いずれは飽きられるものであること。また、どんなに良い事であっても、いずれは廃れて行くこと。また、どんなに完璧であっても、いずれは衰退して行くこと。またどんなに正しいとされることでも、いずれは時間の経過と共に、間違いとされること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

はっきりと言っておく。神は、正しさの神なのでも無ければ、人が思い描く、理想の延長線上の究極にある存在なのでも決して無く、ただ、神は、現実の神なのであり、神のために神であるという事なのである。よって、人間の側が、神の存在を論じる立場には、初めからないということなのである。

2.神はすべてであるが、たとえすべてをもってしても、神には達し得ないこと。

心理学

人間、幼年時代や子供の時期は、非常に純粋であって、何事も受け入れる事において受動的な姿勢が豊かであり、例えれば、すぐに水を吸収するスポンジの様に素直で謙虚なのである。よって、それは、互いにただ、そばに居るだけで、他の人と心を通わす事の出来る、人の人生の中で唯一、恵まれている時期でもあったのである。しかし、一度、人が成人の段階に到達した場合、互いにただ、そばに居るだけで友情関係が生まれるわけでも無ければ、心を通わす事も出来るわけでは無くなるのである。すなわち、成人の段階になると、人生の経験値も増え、物事を損得や利害の関係で捉えようとする考え方が強くなるのである。要するに、かつて子供時代にあった純粋さは消えて無くなっており、心の状態が、不純物で混ざり、相手が自分にとって、敵か味方かという防御的精神で物事を判断する様になるのである。よって、大人同士が、心を通わせ合ったり、友情関係になったりする場合には、何事に対しても、自分の方から先に、意識して自発的に、より良い人間関係を保てる様に努力する必要性があるという事である。要するに、大人が、仲良くなるためには、何かの事で、互いに共通する価値観が存在しなければ、良い関係を築くのは難しいのであり、その意味において、子供時代には無かった、自己犠牲的精神と大人のルールを踏まえて行かなければならなくなって来るという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

はっきりと言っておく。この世の中の問題や苦しみは、決してそれを解決する仕方や、どうすべきかと言う解答が、見いだせない、もしくは、問題解決能力が全く無いということでは決して無く、あくまでも、既に明らかに解決の仕方が何であるかは、分かっているし、知られているにもかかわらず、それをあえて行わない、もしくは、行おうとしないことから、すべて成り立っているという事なのである。例えば、地球温暖化という問題の解決方法は、誰でも当の昔に分かっているはずである。すなわち、自動車の排気ガスの原因が大半を占めているからであり、人類は明日からすぐにでも、自動車に乗るのを止めれば良いのである。しかし、私達は自動車という交通手段が便利で快適な為、それを止めようとはあえてしないのであり、また、世界規模で廃棄プラスチックの環境汚染が深刻な問題となっているが、人間は、それを知りつつも、プラスチックの便利さや安価な材料という理由でそれを使うことをあえて止めないのである。すなわち、私達には解決方法も能力もあるのに、自分達の欲望の為に、それをあえて行おうとしない優柔不断さにこそ、問題があるのである。結局、人間は、取り返しの付かないレベルにまで達して、手遅れになるまで、問題を放置し、自分自身の身に害が降りかかって、命を失うようになるまで、自分達の欲望を止めようとはしないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間に必要な、生きるための導きとは、あくまでも、全きもの、完全なもので無ければならないこと。すなわち、そこにほんの少しでも不純物が混ざっていたら、それは、導きには確答しないのである。これは例えると、ほとんどは真水だが、ほんの少し毒が混ざっている飲み水に似ているからである。もし、それを一回だけ飲むということであれば、さして問題は生じないかもしれないが、もしこれを毎日摂取し続けるとしたら、体内に毒が蓄積し、いずれは、死を招くほどのものとなるのである。これと同様に、人を生かし続ける飲み水の如く、霊的食物とも言える、人にとっての導きも、全く純度100%の真水の様に、ほんの少しの間違いもないもので無ければならないのであり、もし、ほとんど正しいけれども、ほんの少し不十分な知識というものを、毎日取り入れ続けるなら、いずれ、人生の途上において、必ず行き詰まり、悲惨な結果を刈り取る事になるのである。要するに、例えどんな教えであっても、ほとんど正しいからと言って大丈夫だと、のん気な事を言っては済まされない事柄なのである。よって、すべての人の人生が必ずどこかで狂うのは、完全に正しい教育ではなく、中途半端に正しく、毒も少し混ざっている教育を受けて来たから故に起こることなのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

はっきりと言っておく。すべての断定は、否定される為にあり、すべての勝利は、破られる為にあること。すなわち、およそこの世界に、過去も今も、そしてずっと将来においても、確実にこれはこうであると結論付けられるものは決してないのである。この世界には、確実な答えなどというものは存在しないのであり、よって、単純にこれは治るとか、これは確実に効果があります、などという宣伝文句に決して惑わされてはならないのである。

2.はっきりと言っておく。その状態において、当然次に予想出来るような、無機質なものではない、全く不自然な程に、反発しようとする力(反作用)こそ、生命力(生きる)というものであり、険しい山を何十キロもある荷物を背負って登る、重力に逆らってさらなる高みを目指して歩むということが、命という活動力なのである。よって、性的衝動が生じたから、それに任せてセックスをする、もしくは、食欲を感じたから、食事をするという、いたって自然的行動の事を生きているとは言わないのである。要するに、ただ欲望のままに従って行動する事は、それだけでは、死んでいるのである。すなわち、ここで言えば、自らの内に、淫らな性的欲情が湧き出て来ても、それを抑え、その欲望に屈しない自制心こそが、生命力なのであり、空腹になっても、その食欲を抑える精神力こそが生きているということなのである。大半の人々は、自分の欲望に血に至るまで抵抗した事が無く、欲望のままに生きている点で、既に死んでいるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

万物の有り様は、定めのない時から、正直で、廉直であり、そのように見れば、すぐに手ですくえて拾えるほどに身近であり、単純明解に横たわっているものなのなのである。しかし、それをわざと難しく考え、物事を色眼鏡を掛けてねじ曲げるかのように、かつ、まるで地面を掘り起こして中のものを覗き込むようにして見、それらを常人のレベルでは、計り知れない事かのように現実を歪んで見ようとする事が、罪を犯し、正体をあばこうとする卑しくて貧しい人間の根本的精神態度であるということなのである。この傾向が、人と人との間に差別や階級、もしくは、憎しみや残酷さや侮蔑といったあらゆる心の悪い状態を生み出す苦しみの胎となったものである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人にとって、教育とは、最も必要不可欠なものであり、教育の仕方次第で人は、どのようにでもなるということである。すなわち、教育とは、悪用すれば、強力なマインドコントロールになるということである。

2.昼と夜とが毎日入れ替わるように、人は、昨日より今日、今日より明日、自分自身をより良い方に変化させて、成長し続けようと努力して行くべきであること。

3.たとえ、万人にとって、自明の理である事柄や、一般的に言って、暗黙の了解の事柄であろうとも、強いては、調査などする必要性のない程にまで、異質である事が、大多数の意見で、申し分の無い事柄に対してさえも、本当に正しい、物事に対する正しい姿勢とは、それをよく見もせず、調べもせずに、頭ごしに、そうであるとか、そうでないとか、正しいとか、間違っているとか断定してしまうことではないのである。それは、あくまでも、まずすべてを、とりあえず肯定する事から始まって行くという事であり、たとえ、それらが、最終的に、肯定出来るにしろ、否定されるにしろ、その各々の主義主張を認めた地盤の上で、それらを突き詰めて、延長された場合に、ようやく、その主張の正当性なり、矛盾なりが明確に析出出来るのである。要するに、議論より先に、まず、自由を与えて、それらを試させる事が、初めて、すべての物事の本質を知り、何が正しくて、何が間違いであるかを判断する正しい姿勢であるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

よく人は、人生において苦労しなければならない、と美辞麗句のように言うが、それは、あくまでも、苦労した事の無い人々の間でのみ、通用する概念であって、実際、本当に苦労している人、もしくは、否応なく苦労を強いられている人にとっては、苦労など何の意味も無い余計なものなのである。彼らからしたら、苦労を自慢出来る者など、なんて恵まれていて、人生に対する甘い認識しかない人だろう、としか思われないのである。その人達の心情は、苦労など無かったらどんなに幸福な事であろう、としか思えないのである。

2.聖書の創世記6章13節にある様に、神がこの世の中を滅ぼす十分の理由となったものは、この世の中の地上にいる、すべての人間が、暴虐を愛し、悪人となったからではない。それは、水に塩を入れる際、大量に塩を加えるなら、その塩水は、塩辛くて飲めないが、ほどよい量の塩分を水に加えるなら、それは、スープとして飲めるバランスが満ちた状態と言える。これと同様に、この世の中も、暴虐と悪に染まりきっているわけではなく、善と悪のバランスが、ちょうどいい状態になり、不法が永久に存続出来るほどにまで、安定した状態となる時が、まさに、いつ、滅びが来てもおかしくない条件が整っているということである。よって、現在、いつ、この世の中の滅びが到来してもおかしく無い状況なのである。