高田義裕の人生論

今日の箴言

ある身体障害者がいた。彼はパラリンピックで、右足の膝から下の部分が無いのに、100メーター競争で世界新記録を叩き出した。悪魔はそれを見て神に言った。彼を見て下さい。彼は片足が無いのにあれだけの運動能力を出せるのです。もし、五体満足であれば、いかほどのものとなれるでしょう。そこで、神は奇蹟的に彼を癒やして右足を元通りにさせた。そうして神は彼がそれ以上の能力を出せるのか見守った。ところが、彼は自分が五体満足になったとたん、自分の名声と地位を利用して淫行の限りを尽くし始め、暴飲暴食し、以前の引き締まった筋肉質の体とは程遠い、みるみるのうちに脂肪の付いた肥満体になってしまった。そうである。人間は恵まれ過ぎていては堕落してしまうのである。人間は自分に何かが足りない時、むしろ能力を発揮し、すべてが揃っている時以上の働きをするのである。すなわち、ハングリー精神が人を向上させるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

題名    わずかしか貰わない者が最後には、多く貰う事になる。

[解説]

現実社会において、多く稼いでいる者と少なく稼いでいる者がいる。それでは、全人生という長いスパンで考えて、生涯でどちらの方が多く稼ぐだろうか。もちろん多く稼いでいる方に決まっている、とあなたは言うであろう。ところが実はそうでは無い。例えば、ある人は年収が1000万あるとしよう。そしてもう1人の人は年収が180万あるとしよう。ひと月に換算すると、多い人は月83万も貰っている。それに対し、少ない人は月15万しか貰っていない。この状態は長く続くと思われていた。しかし、現実はそう甘くは無かった。リーマンショック並みの不景気が突然起きたのである。多く貰っている人も、少なく貰っている人も共に職を失った。年収1000万あった人は、毎月の生活費が収入に応じて高かったため、一気に生活レベルを下げなければならなくなった。それだけならまだ良いが、月83万の収入の内、70万以上の支出があったため、収入がマイナスに転じた。それで彼は借金を背負わなければならなくなり、コツコツ貯めておいた貯金を取り崩すほか無くなった。そして少しの間は持ちこたえたが、貯金もわずかになり、彼は再就職の道を進まざるを得なかった。必死に仕事を探してもなかなか見つからず、ようやく仕事を見つけたが、その収入は月でわずか15万円であった。彼はその金額では、毎日食べていくのが精一杯で、貯金する余裕も無かった。それに対し、年収180万円の人は、職は失ったけれども、毎月15万の生活費の中から5万円ずつコツコツと貯金していたので、暮らしは以前ほど変わらず、そんなに苦しくは無かった。それに、毎月15万円くらいの給料の仕事なら、探せばいくらでもあったし、借金も無かったので、余裕を持って良い条件の仕事口を探す事が出来た。新しい職場は、なんと月に22万円の収入があった。昔より7万円もアップしたのだ。そうして彼はその7万円を毎月5万円ずつ貯金していた通帳に加えて、合計12万円も貯金出来るようになった。どうであろう。日頃多く稼いでいる人は、日々の生活も贅沢にしがちであり、突然の災難の時には一気に転げ落ちてしまうのである。しかし、日頃多く稼いでいない人は、日常の生活も切り詰めて質素に暮らしているから、突然災難に遭っても、普段の生活にそんなに大きい変化も受けずに安定しているのである。すなわち、多く稼ぐ者はまた、いざという時には、多くを失うのであり、その損失もまた大きい。しかし、わずかしか稼がない者は、いざという時にはわずかしか失わないのであり、その損失もまた小さいのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

親ある子にとって、子の都合の悪い時だけが親でなくて、子の都合の良い時だけが親であるとは決して考え無いように、神エホバの子である私達人間も、自分達の都合の良い時だけに神エホバに従い、自分達の都合の悪い時には神エホバに従わないというわけには決していかないのである。

2.神エホバの御言葉とは、常に選択できる余地があるという事に着目すると、神の言葉とは[人はどのように生きなければならないのか]という事柄に対して述べられているのでは決して無く、[人はどう生きれば幸せになれるか]という視点で述べられているのであって、強制では無いという事である。しかし、結果的に神の言葉通りに生きなければ、人は不幸になるので、神の言葉は、人の生き方そのものに直結しているという事なのである。

3.日々、できればすべての人々の前に自分の最善を供えなさい。しかし、神エホバの前には常に自分の最善を供えなさい。

4.御子イエスキリストは、[お互いに与え合い、お互いに忍び合い、お互いに愛し合いなさい]と言われたのである。よって一方の人が他方に与えるままであったり、他方が一方から与えられるままであったり、一方が他方に対して忍ぶままであったり、他方が一方から忍ばれるままであったり、一方が他方を愛するままであったり、他方が一方から愛されるままであったりしてはいけないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは常に努力し続ける事を止めず、常に心のアンテナを張って、つぬに見張っていなさい。あなたの業がいつ、どこで成功するかは分からないからである。また、あなたは常に誰の事も非難したり悪く言ったりしないようにしなさい。あなたがいつ、どこかで思いがけず誰かに助けて貰う事になるか分からないからである。あなたは普段悪口を言っているその人に助けて貰うような事になるかも知れず、そうなった時に、決まりの悪い思いをすることの無いためである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間はどんな存在にも成れる。上空へと羽ばたく真っ白な鳩のようにも成れれば、腐敗した死肉を喰らう黒いカラスのようにも成れるのである。すなわち、人間は、最高の存在にも成れるし、最悪の存在にも成れるのである。このように人は、非常に多様性に富んだ、あらゆる未知の可能性を秘めている素晴らしい生き物なのである。例えば、淫行の限りを尽くした女が、誰の子供か分からない子を公衆便所で産み、それを放置して死なせた。それを密かに見ていた男が、それを警察に通報しない口止め料として、その女を自分の性の奴隷として犯しまくる。それによって産まれた子供をまた放置して死なせ、2人は警察に逮捕され、刑務所行きになる。その刑務所内でその男は男達から輪姦される。女は看守から密かに呼び出され、性的暴行を受け、その苦しみから逃れる為に独房内で自殺する。このようになる人も居れば、ある人は、犯人の男から自分の愛する子供を性的に暴行を受け、挙げ句の果てに殺された。犯人の男は逮捕され、死刑の宣告を受け、処刑された。しかし、その犯人の男には、自分の愛する子供がいた。すると、犯人に自分の子供を殺されたその人は、身寄りのいない犯人の子供を引き取り、死んだ自分の子供同然のように可愛がって育てた。そしてその子は立派に成人して、性的に搾取されている子供達を助けるための非政府組織、NGOを立ち上げ、そのリーダーとして世界を飛び回っている。犯人の子供を育てたその人は最後までその子に過去の事実を告げずに、その子の父親としての役割を演じ切り、死んだ。そんな神の様な人もいるのである。この様に人間とはピンからキリまで幅広い領域を持てる生き物なのである。

2.例えば、足が骨折した時、その折れた足はそれが治った時、足が骨折する以前よりも丈夫で強固になる。同様に人間も、厳しい逆境に突然見舞われて苦しみのあまりその心が折れてしまう。しかし、ひとたびそこから立ち直った後には、その人の心は逆境に遭う以前よりも強くなり、苦しみを耐える面で免疫力がつく。

高田義裕の人生論

今日の箴言

資力の乏しい人は誰からも好かれ無い。なぜなら、何も無いくせにプライドだけは高いからである。これは他の人から見れば、なんて生意気な奴だとしか感じられないだろう。しかしここで、視点を変えて、その本人の立場に立って考えて見るならば、本人からしたら、何も無いからこそ、プライドが欲しいのである。何も無い人にとって、プライドだけが唯一の心の拠り所であり、心の支えなのである。彼らはそれだけで、かろうじて自分の自尊心を保っているのであり、そのようにして、誰も自分の仲間になって貰えないからこそ、態度だけは大きく見せて、周りの人間からナメられないように武装しているのである。よって、どうか彼らを許してやって欲しい。彼らは実は寂しがりやであり、本当は心の繊細な人達なのである。彼らはその人生の途上において、常に邪魔者扱いされて来たから、他の人を敵視しているのである。彼らには純粋な愛情が甚だ不足している。彼らには愛が必要なのである。それも一時だけの愛では無く、長い期間にわたる愛情を必要としている。確かに彼らは態度は生意気かもしれないが、それは長い間、十分に愛情を受けて来なかった事によって、フラストレーションが徐々に積み重なって、そのような風貌になってしまったのである。彼らとて本当はそんな態度しかとれない自分自身に対し、辟易しているのである。これを熱い愛情を注ぐ事によって、その幾重にも重なって出来た、心のかさぶた(うろこ)を少しずつ剥がして行かなければならないのである。すなわち、人は自分の悪い部分を治す為には長い時間を必要とするのである。最低でも人は自分の内面を精錬する為には10年間はかかるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

人からの是認を受ける者は偽り者であり、神エホバから受け入れられる者が初めて人からの是認を受けるのであり、神エホバから是認される者は永遠の命を受けるのである。

2.現代の社会は、物質的豊かさが精神的豊かさを殺したような状況にあるのである。それにもかかわらず、人々は物質的豊かさへの追求を捨てられないでいるのである。人間という創造物にとっては精神的充足が最も大事であるのにもかかわらずである。

3.人間が自分の人生を有意義で価値あるものにしたいという欲求はそれ自体、神エホバの像に従って創造されたという経過上、正常なものであるけれども、自分だけに関する事柄だけが何か意味のある価値のあるものであるとみなそうとする事が邪悪な推論なのである。すなわち、自分の人生を他の人とのつながりによって意義ある価値のあるものにしていこうとする事が正常な推論なのであり、自分1人だけで意義ある何か価値のある事柄を達成しようと思う事が邪悪な事柄なのである。すなわち、邪悪とは貪欲さの事なのである。

4.正しい事柄を行わず、悪い事柄を行うのもそれは[悪]である事柄であるけれども、悪を悪として識別せず、正しい事を正しい事として認めない心のかたくなさも[悪]である事柄なのである。

5.聖書の知恵ある神の言葉とは、決して学識経験者の知的好奇心を満足させる為に書かれているのでは決して無く、人間が事実として受け止める為に書かれているものなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は正しく生きるべきだ、と言われる。ある親は、自分の子供の人生を決して失敗しないように、まるでレールを引いてその上をなぞって行くようなステレオタイプの決まりきった、そして、安定した道を踏み行かせようとする。なぜなら、親自身が若い頃、好き勝手な事をして、散々痛い思いをして失敗して来たからである。それで、せめて自分の子供にはそのような無駄で苦しい思いをさせたく無いという一心でそうするのである。しかし、そのような子供の育て方は果たして子供にとって幸福かと言うと決してそうでは無い。ここで考えて見よう。親自身はなぜ自分のした事が無駄で失敗したという事に気付いたのであろうか。それは、自分が好き勝手に無茶苦茶な事をした結果、初めて気付いたのである。人類の歴史もそうでは無いか。人間は過去からずっと争い合い、殺し合い、血で血を塗る残酷な歴史を持っている。その人類の好き勝手で、無茶苦茶な経験があるからこそ、今の現代では、昔のして来た事の反省があり、戦争はしてはいけないものであるという正しさを認識出来たのである。すなわち失敗しない人生などあり得ないのである。よって、失敗しない正しい人生を歩ませようとする事は全く正しく無い、間違った教育なのである。親は自分の努力して築き上げた人生の知恵なり経験を子供の心に移植する事など出来ない。人は親からお金を相続する事は出来ても、心の財産は相続出来ないのである。1人の人間が誕生したのであれば、それはまた一文無しからのゼロからのスタートなのである。たとえどれだけ、良い事を教え込んでも、子供の心には入って行かないのである。よって、人は誰か別の人が決めたルールに従って生きるのはその人にとって少しも益にならないのである。。たとえ、親の言う通りに生きたとしても、何やら生きているのか、死んでいるのかわからない、煮え切らない思いで、悶々とした気持ちでその子は終生を過ごすであろう。それよりも人はたとえ失敗してでも、自分のしたい事、もしくは、自分自身で決定した事を行うべきなのである。たとえそれで痛い目に遭っても、最後には、それは自分自身が決めた事だからしょうがないと割り切る事が出来るし、納得出来るのである。これこそ大事な事なのであり、失敗しようが成功しようが、そんな事は大事な事では無く、ただ我が人生に一片の悔いなし、と言える事が人間の人生で最も大切な事なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

1.私達はクリスチャンとしての行状を、使い古された言葉や、提唱された法律の前に自らを推薦するのでは無く、私達はクリスチャンとしての行状を、すべての人々の良心に推薦するのである。

2.聖書に拠る救いとは、こうあるべきだ、こうに違いない、という自己暗示によるみかけの安心感の事では決して無く、事実によってもたらされる、決して揺るぎない確信から来る心からの安心感の事なのである。

3.私達人間にとっての真理とは、お互いが自分達の神エホバを心を込めて愛する事と、私達人間がお互いがお互いを心から愛する事のたった2つだけなのである。

4.何と言っても、人間一人一人には、その人特有の心の偏り、すなわち、心の傾向という性向があるのである。それをまず本人が気付くという事が、自己認識の基本である。

5.聖書から結論出される人間一人一人の立場というものは、次のように定義できる。まず、すべての人間の根源である最初の人間夫婦アダムとエバの、神エホバに対する故意による反抗的精神によって、彼らから産まれてくるすべての子孫は、その子孫には直接責任が無いのにもかかわらず、無条件に不完全さを受け継ぎ、すべての者は罪の内に産まれてくる。そして、その罪深い傾向が、長い期間、何らかの仕方で処置されなかった為に、あらゆる形の種類の不完全さによる弊害が生じ、人々は悪を悪とは自覚しなくなるほど、悪を行うのに凝り固まってしまったのである。よって、すべての人間の心の性向として、権威という対象に対して何らかの反抗的態度が見受けられるのである。それは自分の親に対してであったり、教師に対してであったり、社会に対してであったりするのである。それで神エホバはアダムとエバ以外のそれらすべての子孫に対して、御自身の救いの道を施す事を決意され、昔には、イスラエルの人々に対して御自身の意志を示されたのである。しかし、イスラエルはまた、堕落の道を自らが選んで、神エホバから離反した。なぜなら、その方の厳密な表現である御子イエス・キリストに信仰という形で近付こうとはしなかったからである。それにより、本来は救われる範疇には決して入って居なかったイスラエル以外の他の諸国民に救いの道が予想外に開かれたのである。聖書にはまさにこう書かれてある。新約聖書、ルカによる書14章16節から24節に、イエス・キリスト御自身が語られた言葉で、[イエスはその人にこう言われた。ある人が盛大な晩餐を設けていました。そして大勢の人を招いたのです。そして彼は晩餐の時刻に自分の奴隷を遣わして、招いておいた人たちに、おいでください。もう用意ができましたから、と言わせました。ところが、彼らは皆一様に言い訳をして断わり始めました。最初の者は彼に言いました。私は畑を買ったので、出かけて行ってそれを見てこなければなりません。お願いします。お断わりさせてください。また別の者は言いました、五くびきの牛を買ったので、それを調べに行くところなのです。お願いします、お断わりさせてください。さらに別の者は言いました、妻をめとったばかりなのです。そのため、参上できないのですが。それで、奴隷はやって来て、これらのことを主人に伝えました。すると、家あるじは憤って奴隷に言いました。急いで市の大通りや路地に出て行き、貧しい人、体の不自由な人、盲人、足なえの人などをここに連れて来なさい。やがて奴隷は言いました、ご主人様、お命じになったとおりに致しました。でも、まだ場所が余っております。すると主人は奴隷に言いました。道路や柵を巡らせた場所に出て行き、無理にでも人々を入って来させて、私の家がいっぱいになるようにしなさい。あなた方に言うが、招かれていたあの者たちには誰にも私の晩餐を味わわせないのだ。]

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は幸せになろうとして幸せになる事は出来ない。あなたは、本当にその物事に集中している時、自分は今集中している、と意識するだろうか。意識してはいない。いやむしろ、意識していては、集中出来ないのである。よって、同様に、自分は幸せになるのだ、と意識した瞬間に、幸せはどこかに飛んで行くのである。すなわち、幸せになろうと意識する事によって、それは欲望の対象に変化してしまうからである。しかし、こうも言える。幸せとは、いつもその人自身の心が決める。なぜなら、あなたが今、私は幸せだ、と実感し、意識する事が幸福感だからである。幸福感こそ幸せに他ならない。この時の意識は欲望では無い。例えば、人に親切にする時、親切にされた側は、あなたの純粋な助けたいという気持ちに親切にされた、と喜びを感じるのであり、もし、自分は親切にしてやろう、そして相手にいい人だと思わせようという動機で親切にするなら、親切にされた側はすぐにその狡猾さを見抜き、この人は自分をいい人だと私に思わせたくてわざと親切そうに見せているだけだ、と嫌悪感を抱くであろう。すなわち、そこに利得を得たいという欲望が入り込んでしまっては、すべては台無しになってしまうのである。よって、物事を行う時は損得抜きで、ただひたむきに純粋な気持ちで行うなら、それはすべて成功するのである。