高田義裕の人生論

今日の格言

答えを求めてはならない。

我々は常に答えを求めている。最高の人生とは何か?最善とは何か?最も効率の良いやり方は何か?どうすればもっと儲かるか?すなわち、我々は常に正解という終着点を追い求めているのである。我々は各々、自分の人生の最高を求めて必死に働き、苦しみもがく。全人類の歴史もそうであった。人類は自分達の真の居場所、もしくは帰るべきホームを求め、もがき苦しみ、戦い続けてきた。それでも得られません。私達はもがき続け、戦い続けます。最高の自分になりたい。最高のパートナーと巡り会いたい。これこそ、人類の大きな歯車を回す原動力であり、個人個人のモチベーションを保つ唯一のエネルギーであり、本能であり、欲望であることを。例えば、科学者達はこぞって物質の最小の単位を求めている。何が存在の究極の形であり、原因であるかと。では、素粒子は最小であり、全物質を成り立たせている究極の答えなのか?いや、決してそうではない。素粒子の先にはもっと小さい無限の粒子が存在しているのである。これは追い求めても切りのない永遠のループである。例えば、我々はすべてを知りたいと思い、更なる富を追い求める。そう、すべてのものを自分の場所に集中してかき集めたいのである。では実際にはどうか?ガラスコップに水を溜められるのは、ガラスコップの粒子が世界で一番小さいからではない。それはあくまでも、水の粒子よりガラスの粒子の方が小さいから水を溜めておけるだけのことである。すなわち、それらは、比較した相対的関係を利用した、に過ぎないからである。よって、私達は自分の人生を成功させる近似値は知ることは出来ても、自分の人生を成功させる正解値は知ることはできないのである。すなわち、今、我々が自分の人生において、もがき苦しむ原因ともなっている苦しみを取り除く、はっきりとした解決方法を知ることはできないということである。我々の現実世界は、もっと曖昧模糊としており、はっきりとした右でも左でもない曖昧な座標軸しか示してくれないのである。正にここにこそ、究極の存在である神が必要となってくる必然的理由がある。我々は皆、人生という迷路のただ中にいる。自分の目の前にある壁は、途方もなく高くて大きく、どちらの方向に行けば出口に出られるのか、見当もつかない。しかし、神はそれらより遥かに高い天から迷路を見下ろすことができる。そう、我々の人生という迷宮の答えは神のみぞ知る、ということなのである。よって、全人類は各自すべて、唯一であり、真の神であるエホバに自分の人生の正しいルートを案内してくれるナビゲーターとして、彼に指示を仰ぎ求め続けていかなければならないのである。もし、それをあえて無視して、自分の気持ちの赴くままに進めば、この人生という途方もなく大きくて、複雑な迷路から脱出できなくなるどころか、いつかは必ず行き詰まって、後戻り出来なくなり、永久にさ迷ってしまうことになるのである。