高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて、物事を成し遂げる為には、一握りの勇気と少しのお金と地道な努力の積み重ねが必要なだけなのである。

2.自由の定義とは、ただ漠然と何でも許容されているという様な、無意味な状態を指すのでは無く、自由とは、自分より遥かに強い立場にある者からの束縛から解かれている状態を初めて指すのである。もしあなたが会社員なら、あなたは自分より上の上司からの束縛から解かれていないのであり、あなたが政治家なら、あなたは自分より上の支配者からの束縛から解かれていないのであり、あなたが経営者なら、あなたは毎月の売り上げの数字の束縛から解かれていないのである。すべて皆、何かの奴隷状態にあって、自由を満喫している者など1人もいないのである。

3.神からの裁きの音信は、この世の中において、成功を収めている者、能力のある故に自らに誇る理由を与えられている者、すなわち、この世の中で富んで恵まれている者達にとっては、彼らが富めば富むほど、その損傷の深手は大きいものであること。よって、神はこの世の中において、惨めな者、貧しい者、見下げられた者、取るに足りない者、すなわち、この世の中において貧しくて恵まれていない者達を選んで、有る者が無になる様にされたのである。なぜなら、誰も神の御前で誇る事が無い為である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

物事に対して、荒療治、すなわちショック療法でやらなければ、人間にとって本当の変化や治癒は期待出来ないのである。例えば、あなたは異性からフラれるのが嫌で、いつまで経っても好きな人に告白出来ないか。自分が傷付く事を恐れていては、決してそれ以上前に進む事は出来ないだろう。勇気を奮い起こして相手の異性に告白して、そしてフラれてもそれでいいではないか。そこであなたは自分の全存在を全否定されたと感じるかもしれないが、それでショックを受け、自暴自棄になるのでは決して無く、好きな異性にフラれた今こそが、自分という全人格を見直し、自分をチェンジするための良い機会だと肯定的な見方をし、なぜ相手にフラれたのかよく考え、行動する事によって、初めてあなたの人生は前へ動き出すのである。また、いつまでも真剣勝負をせず、自分に都合のいい妄想に耽って自分を甘やかす状態から抜け出し、何でもいいから、自分はこれだけは他の人に負けないという分野で他の人と真剣勝負をして見れば良い。自分の全力を出してたとえ、相手に敗北したとしても、自分は負けるはずが無いというプライドがズタズタに引き裂かられても、その現実を受け入れられる精神力を持って、初めて自分のレベルを思い知らされる事によってのみ、人間は真剣に人生に対して取り組む姿勢が生まれるのである。よって自分にとって嫌な事柄から逃げてはいけない。たとえ、逃げてもそれは必ず、どこまでも追いかけて来て、いずれは自分の望まない仕方で悪い報いを払わされる事になる。そうなってしまってからではもう遅いのである。歳を重ねて自分の問題から逃げて来た者は、後には、何の報いも無い、苦しみと苦労だけの地獄が待っているのである。それは歳を取れば取るほど不利なものとなるのである。どうせいずれは苦労しなければならないのなら、まだ、若いうちに、自分から自分の苦手な問題に身を投ずるべきなのである。そうして経験する苦しみや苦労は後になって、あなたの良い報いとなってあなたを保護するであろう。

高田義裕の人生論

今日の箴言

物事の初まりとは、すべて、最初に生み出す事から始まるのでは無く、まず最初に学ぶ事から始まるのである。よって人生、すべてにおいて、学ぶ事だけに徹して行けば良いのである。

2.人間関係は、決してこれら消極さを意味する、退屈な、惰性的で、馴れ合い的な、お互いの傷を舐め合う様なものであってはいけないのである。

3.一生懸命努力し続ける事が、人間にとって何事にも代え難い精神安定剤なのである。人は何かに集中している時、その時は自分の悩みや病気の事を忘れるのである。逆に人は悩みがあったり、病気である時には注意力散漫であり、一つの事に集中出来ないのである。

4.良薬口に苦し、であり、それと同様に神の、人にとって有益となる掟も、私達不完全な人間にとっては耳の痛い、厳しく苦い音信なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

神の弱さは、人間より強く、神の不足さは、人間にとっては、与えて余りあるのである。

2.私達は、行動する手間を取りたく無いくせに、欲望ばかり一人前なのである。これは、端から見れば、滑稽で情け無いものであり、私達自身にとって、恥ずかしい事なのである。まさに私達は歳を重ねても、いつまでも子供の発想であり、いつまで経っても大人になれないのである。

3.私達は、人としての中身が追い付いて行かないから、せめて、外見だけでも良くして、自分を良く見せようとする事に必死なのである。

4.堕落した人間は、堕落した囲いの中でしか生きられないのである。彼らにとって、神聖さや貞潔さは毒を意味するのである。

5.この世の中のすべての営みの発端は、取り敢えずこれをやって行こう、やって行くしか無い、という不自由で選択肢の無い動機から来ているものばかりなのである。あなたはどうか。今やっている仕事はあなたがしたくてやっている仕事だろうか。おそらく、そうでは無いだろう。それはあなただけでは無い。ほとんどの人もそう感じているのである。すなわち、自分のしたい事をして食べていける人は少ないのである。

6.人間、並の者なら誰でも、少し人気が出たり、波に乗ると、ついつい油断してしまい、セクシャルハラスメントを犯してしまうのである。

7.人間は、自分が最初から自分で造り出したものについてのみ、真理(真実)を獲得する事が出来る。

8.人生とは、その最初から未定(未完成)なものなのである。

9.人生とは何か。それは与える事である。

10.人間にとって、生き続けるという事は、努力し続けるという事と同一なのである。

11.死ぬまで人生の現役である様にしなければならない。

高田義裕の人生論

今日の箴言

急激な変化は、人にとっては死を意味するのである。よって、今現在、間違っているとしても、正しい事を急に、無理やり強要する事は間違っているのである。人間は間違いを正すのには、膨大な量の時間が必要なのである。よって間違いを直すにしても、各人のペースで少しずつ徐々にやって行かなければその人は立ち行かないのである。

2.人生の目的とは、生きている間、いかにどれだけ自分の為に蓄えるかでは決して無く、いかにどれだけ他の存在に与えられるかにのみ、かかっているのである。

3.あなた方は、神のものは神に、そして隣人のものは隣人に、そして自分のものは自分自身に返さなければならないのである。そしてすべてのものは、究極的には全部、神のものなのである。

4.あなた方は、互いに愛し合わなければならない。なぜなら、あなた方は互いに愛し合わないからである。

5.神の、私達に対して約束された事柄はすべて、神という存在を本当に信じていなければ、決して果たされないものばかりなのである。ここが信仰の必要として来るところである。

6.あなた方は、隣人のいかなる魅力的なものでも、決して、欲しては(盗んでは)ならない。

7.実力の無い者ほど、口数が多いのである。

8.神の目的は、人類のもはや、どうしようもない罪深さという、マイナスエネルギーを、そのまま生命力という逆の方向の、プラスエネルギーに瞬時にして転換する事なのである。

9.この邪悪な世の中で、より高い立場にある者ほど、神の裁きの日において、より大きな痛手を被るのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

日本人が日本人の事を駄目だ、と言ったら、それは客観的態度と言えるであろうか、それとも主観的態度と言えるだろうか。そのどちらも言える。すなわち、日本人が日本人の事を悪く言っても、それは日本人が言っている事だから、多分に主観的であり、感情的であり、正確で、冷静な判断とは言い難い。しかし、日本人が日本人の事を悪く言う事は、それは日本人の事をよく知っている日本人である故にこそ、真実性の重みを帯びている。それは客観的態度であり、内省的であると言える。では、これをそっくり人間に当てはめて考え、人間が自分自身の事を自分は駄目である、と言ったなら、それは客観的態度であろうか。それは所詮自分の事を自分に言及している点で、どうしても自分に都合の良い考え方という主観の域を出ないものであるから、客観的で正確な分析とは言い難い。しかし、逆に、自分の事を自分は駄目であるという事は、自分自身の事をよく知っているのはその人本人しかいないから、それを言う事は他の立場の人間がそれは間違っているなどとは言えない。すなわち、多分に内省的であり、冷静で客観的態度であると言える。要するに、数学においては、α=-αという矛盾を認め無いが、この世界においては、それ自身がαでもあり、-αでもあるという自己矛盾を抱えている事柄は無数に存在するのである。

2.何でも手に入れる事が幸福なのでは無い。むしろ、どんなに努力しても手に入れられなかった事の悔しさを感じる事こそが、人間にとって本当の幸福なのである。例えば、あなたは初恋をした事はあるだろうか。年上の異性の事を好きになり、相手に対して憧れ続けるのだが、決してその恋は実る事は無い。その好きでも決してそれを手に入れる事の出来なかった悔しさと無念さと切なさが、今でも心の中の熱い永遠性を持って、自分の心の純粋さと言う財産になっているのでは無いだろうか。もし、それが簡単に手に入るものであるのなら、それほどの時が経過していても、色あせる事の無い永遠性という価値は得られなかった事であろう。すなわち、永遠の憧れを持ち続ける事こそが、人間の心を純粋にし、幸福にしてくれる唯一の源なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

常に忘れてはならないのは、大きな成果も、小さな一歩の延長線上にしか存在しないという事である。よってどんなに小さな事であっても、それを行い続けなさい。その継続が後に大きな成果を生むのである。

2.人間にとって、人生ははかなく短い。よって大切な事は、自分のあまり興味の無い事など無理してする必要など何処にも無く、自分の興味のある事だけをすればそれで良いのである。

3.内気な人に対して、引っ込み思案だから、引っ込み思案のままで良いのでは決して無く、引っ込み思案だからこそ、少しでも自分の事を知ってもらえる様に、他の人以上に、周りの人と接触して行かなければならないのであり、それを実行するのは苦しいかもしれないが、このパラドックスをきちんと認識しておかなければならないのである。

4.賢いとは、すべての事を知っている事では無く、自分自身の事を知り尽くしているという事を初めて指すのである。その意味において、人は自分自身の事が一番よく分かっていない存在なのであり、すなわち、賢い者は1人としていないと言う事である。

5.まず、自分が幸せでなければ、他の人をも幸せにする事は決して出来ない。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

現実主義も度を越すと、超現実となり、空想となること。

2.物が豊かになってしまった分、人々は助け合わなくても、1人で十分暮らしていけるようになった。それで人々は、互いのコミュニケーションをする手間(努力)を鬱陶しく、面倒なものと考えるようになってしまったのである。それによって、人間関係が甚だしく、希薄なものになってしまっているのが現在の状況なのである。これが人々の孤独を助長し、孤独が人々の心を蝕み、あらゆる異常な犯罪の温床となってしまっているのである。

3.この世の中は、すべて最終的に心掛けで決まるのである。だから、たとえ同じ事をしても、普段から良い心掛けをしている者と、普段から悪い心掛けをしている者とで、結果が全く違って来るのである。

4.人は自分が正しいと信じている事を貫き通す為には、他の人から嫌われる事を恐れてはならないという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間にとってコンプレックス(劣等感)は大きな起爆剤として、その人のモチベーションを高め、向上心を促し、自分のレベルを挙げるのに威力を発揮するが、それはある程度までで、コンプレックス(劣等感)が強すぎて、自分自身の自尊心が激しく傷付けられる様であっては、心の健康を害し、病気になって2度と立ち上がる事は非常に困難なものとなる。すなわち、コンプレックスが少な過ぎても、コンプレックスが強過ぎても人は向上出来ないのである。すべては、ちょうどいいバランスであり、コンプレックス(劣等感)も適度なレベルのものでなければならないのである。ここでちょうどいい絶妙のバランスの量をα量としよう。よって、それ以外のものをアンチα量としよう。この世の中にはアンチα量なもので溢れかえっているのである。すなわち、全体の量を1として表し、コンプレックス(劣等感)が多過ぎる事は、α量+α量=1と表される。なぜなら、アンチα量の最大値は1-α量だからである。逆に全体の量を1として表し、コンプレックス(劣等感)が少な過ぎる事は、nα+b=1と表す。よって、2α=1であり、1に2αを代入すると、nα+b=2αとなる。よって整理して、b=2α-nαとなる。これをnα+b=1に代入して、nα+2α-nα=1となる。よって2α=1となる。すなわち、α=2分の1となる。結論として、すべての物事に対する絶妙のバランスは、全体の半分に等しい。

 

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は規則ではそれを制御する事は出来ない。例えば、あなたはタバコを飲んではならないとか、あなたは離婚してはならないとか、~ねばならない、という禁止文句で人はそれには決して従わない。人間は損得で生きる生き物であり、かつ、人間は倫理的に生きる生き物であるのである。例えば、ある人が不倫をして、その結果、離婚したとする。彼は離婚する前に牧師からあなたは離婚してはならないと戒めを受けていた。なぜなら、離婚は神の御意志に反するというのがその牧師の意見であった。しかし、彼はそれを知りながらも不倫の誘惑に勝てず、別の既婚者の異性と寝てしまったのであった。しかし、この事が原因で、離婚した為に、既に2人の間にいた子供は精神的に酷くショックを受けた。愛し、信じていた両親に裏切られたのだ。彼は心の拠り所を無くし、精神的に病んで鬱病になってしまった。しかし、精神病院で精神科医に治療を続けてもらう事で何とかその鬱病を克服する事が出来た。彼は今では普通に働いて結婚もしている。しかし、彼の固く決意している信念は、決して不倫しない事であり、夫婦喧嘩をしても決して離婚しない事であった。なぜなら、親の離婚というものが、いかにその子供達に癒しがたい傷をつけるかを身をもって経験しており、いかに人間の人生にとって狂いを生じさせる無駄であり、損失な事であるかを味わい知っていたからである。この様に人は自分自身の身に直接損失を与える事を経験しなければ、それをしてはならないという意味を悟る事が出来ないのである。もう一つの事例を述べよう。ある人格者がいた。彼は神を心から信じて、愛していた。しかし、一つだけ問題があった。それは彼は普段はおとなしいのだが、何か人から迷惑を受けるとすぐにかんしゃくを起こし、短気で気性の激しい人間であったからである。彼は自分の気性の荒いのを既に自覚していたし、それを直そうと思っていたが、なかなかそれを改める事が出来なかった。しかし、ある時、神を全く信じていない人から、あなたは神を信じていると言いながら、他の人にかんしゃくを起こして、怒りの感情を露わにしている。私はあなたが本当に神を信じている人間だとは思わない。あなたの神は偽り者だと言われた。彼はそれを聞くとがっくり肩を落とし、自分の深く愛している神の評判を、自分の性格の欠点のせいで、神など信じていない人から中傷された事を深く恥じた。そして彼は、神を愛しているという倫理感の故に自分の性格全体をすべて見直し、この短気な性格を全く根絶しなければ、神に誉れを帰すことなど出来ない事を悟り、必死に努力して、遂にはその短気な性格を直す事が出来た。この様に人は、自分の持っている倫理感、すなわち、良心が深く傷つかないとそれをしてはならないという意味を本当に悟る事が出来ないのである。