高田義裕の人生論

今日の格言

我々は実在しているのか?

我々の世界は実在しているのか。相対論に基づけば、我々のこの世界が唯一[絶対]なのではない。無限の世界が存在し、我々の世界はその1つに過ぎない。その意味においては、我々の存在は実在とは直接に関与しない。これを相対主義と言う。例えば、Aという直線があるとする。そのA直線上に我々は存在していると考える。しかし、直線は1つではなく、無数に存在するから、我らA直線上の世界以外に、B直線上の世界もあれば、C直線上の世界も同時に並行して存在する。このように同時に並行して存在しているため、A直線上の我々は、B直線上の世界や、C直線上の世界を直に観察することはできない。要するに、観測という行為は、観測する対象が自分たちの観測しようとしている世界より、時間的に遅れているか、それとも、時間的に先に進んでいるかの場合にのみ、観測する対象を観測することができるのである。言い換えれば、我々の目で見えるものは、常に過去のものか、それとも、未来のものかに限定される。私達が宇宙の星が見えるのも、その星の光が幾億年もの昔に輝いたものが今、見えているわけであり、我々の視覚に映る草木や風景も、視覚神経を通して眼球に達するまで時間が経過しており、我々の見る世界は常に数秒過去のものを見ていることになる。よって、量子力学の世界において、極微な電子を観測しようとするとき、光子の光を当てた時、電子の現時点の状態を見ることができない。すなわち、光子を当てる前の電子の状態か、光子を当てた後の電子の状態しか観測できない。これが電子の存在を確率論的にしか予想できない理由なのである。よって、物質の最小単位である電子は実在していることとは直接に関与しない。よって、光は粒子でもなければ、波でもないことが理解できる。逆に言えば、光は粒子でもあれば、波でもあると言うことができる。なぜなら、粒子は我々の世界では、ボールのようなものであり、ボールは現在の位置が分かれば、将来の位置も予測できる性質を持つから、それは多分に未来的であり、波とは、石が水面に落ちた後に起こる現象であるから、それは多分に過去的なのである。それでは、実在とは存在するのであろうか?ここでは実在を真理と置き換えてもよいだろう。果たして真理、すなわち、現時点での本当の値、正確な数値、本当の実在世界は存在するのであろうか?例えば、時刻が狂っている時計があるとする。それが1つだけしかなければ、何の意味もないが、それぞれにすべて時刻が狂っている時計を無限に用意したならどうなるであろうか?そうすれば、その中に必ず時刻の正確な時計が存在することは自明の理である。よって、相対論に基づけば、無限の相対世界が存在するのであるから、その中に必ず、真の実体、すなわち、実在する世界が存在するのは自明の理である。よって、真理はどこかに必ず存在することになる。よって、皮肉なことに、相対的存在が絶対的存在を証明する役割を果たすのである。

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