高田義裕の人生論

今日の格言

今から39年前にアメリカで制作された反核戦争映画、The day after [1983年制作、アメリカ]が現実になろうとしている。私がこの映画を見たのは、小学校6年の12歳の時だった。当時はアメリカとロシアの冷戦時代だった。私はこの映画を観て、核戦争の恐ろしさで身が震えたものだった。しかし、39年後の現在、西暦2022年3月未明において、その恐怖はまさに現実のものになろうとしている。アメリカ本土に核爆弾が投下されるこの映画は、まさに、現在の新たなアメリカとロシアと中国間の冷戦時代を予兆するものであったのだ。まさか、自分が51歳のおっさんになっている現時点で再び冷戦時代の始まりが来るとは思ってもみなかった。聖書にある終末がまさに現在の2022年の疫病である新型コロナウイルスの世界規模での蔓延を契機として始まったのである。これから世界は世の終わりに向かって、疫病、戦争、自然災害、地震、食糧不足などの災害が複合的に同時にやって来る大艱難に突入するのである。よって、我々クリスチャンは神に対する自分達の信仰を究極にまで試されることになるだろう。聖書のヨハネの黙示録に一回だけ出てくるハルマゲドンはまさに現在進行形で始まったばかりなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

第三次世界大戦の勃発

2022年3月6日現在、大国ロシアはウクライナに侵攻した。これは何を表すか?そう、第三次世界大戦の勃発の引きがねとなるのである。共産主義勢力である大国ロシアと中国は共にアメリカ資本主義勢力の西側諸国ヨーロッパや日本、台湾が再び冷戦時代に逆戻りする。ロシアはアメリカの制裁に対して武力を行使するであろう。アメリカもそれに対して同様に武力でロシアに応えるであろう。共産主義中国は台湾に武力でもって侵攻を開始するであろう。こうして世界規模にまで戦火は飛び火し、第三次世界大戦が勃発するのである。世界の諸国民よ、第三次世界大戦はまもなく起こる。あなたは不意を突かれることなく、有事に備えよ。遂にアメリカ本土に核爆弾が投下されるであろう。しかし、ロシアと中国などの独裁政権国家はアメリカ西側諸国勢力に打ち勝たないであろう。ハルマゲドンによる世界の終わりまで最終的にアメリカ、イギリス強国が優勢にとどまるであろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

勝ち組と負け組

あなたは自分が仕事もなく、頼れる相手もおらず、孤独であり、自分は負け組の1人だと思っていないか?決してそうではない。本当の負け組とは、何もすることがない人のことを言うのである。すなわち、多くの財産を所有し、何の苦労も悩みもなく、人生において、何もすることのない人、要するに考え続けることをやめた者こそが真の負け組なのである。よって、たとえ、何も所有しておらず、苦労を強いられ、悩み続けているということは、言い換えれば、あなたはまだ、自分の人生という戦いからドロップアウトしているのではなく、人生という敵に対して真正面から戦っているのであり、バリバリの現役軍人なのである。よって、あなたが苦しみから逃れたいと思い、自らの命を絶つなら、それが初めて負け組であるのであり、自らの命を絶たず、苦しみ続けている時点で既に勝ち組なのである。よって、何事も物事が順調に進み、難なく成功することが勝ち組なのではないのである。よって、結論として、現状に満足し、思考を停止した状態こそ、真の負け組なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

数学、及び、論理学による等式一般に対する懐疑論part2

人類は知的探求の長い歴史での苦闘の果てに、何もないことを表すゼロという概念を発見した。これにより、10進法が形作られ、計算の仕方が格段に進歩し、容易になり、我々人間の現代社会になくてはならない普遍的ツールとなった。がしかし、私は最近、ゼロの概念に非常に疑念を持つようになった。それは何もない状態を表すゼロの存在自体の実在性に疑いを持ったからだ。なぜなら、何もないことが、何もないことを成立させることはできないからである。例えば、何も入っていないコップはなぜ、何もないという状態を成立させるのか?それは多分にコップという入れ物、すなわち、容器が存在するからだ。もし、入れ物、すなわち、容器が存在しなければ、何もないという条件も成り立たないのである。ゼロも同じである。何もない空の状態ゼロは、それ自体でゼロを成り立たせているのではない。それは、ゼロを成立させるには、どうしてもゼロ以上の有限値である空っぽの瓶を想像せざるを得ないからである。要するに、ゼロはゼロ以上の有限値の存在で成り立っているのである。よって、ゼロ自身はゼロ自身を成立させることができない。すなわち、我々は普段、暗黙の了解の内に手軽にゼロの概念を使用しているが、実際にはゼロの概念そのものが自明な事柄ではなく、あくまでも証明を必要とするのである。よって、我々は、まだゼロが存在することの証明を知らないのだから、勝手にゼロを使う訳にはいかなくなったのである。これは、数学の計算全般における危機である。なぜなら、まだ証明されていない不確かなゼロという概念を我々は何の疑いもなく、計算に用いているからである。また、1=1も、我々は暗黙の了解の内に自明な事柄として受け入れているが、これもまた、証明を必要とする厄介な命題である。なぜなら、同じ1でも、1周目の1なのか、それとも、2周目の1なのか分からないからである。数学においては、推論する際、何周目の1であるかまでは区別したり、考慮せずに、すべての1は同じ1として扱うからである。これは例えれば、人間の人生を100メートルトラック競争に例えれば、ある時、二人の人が全く同じ位置であるA地点に並んで走っていたとしても、ある人は50周目のA地点であり、もう1人の人は、まだ2周目のA地点を走っているかもしれないからである。これは明らかに同じA地点でも意味が違うのである。であるから、同じ1であっても、中身までは同じではないということである。しかし、数学の推論において、すべての1は同じ1とみなすから、これも、思考における厳密性において、甚だ不完全であることが言えるのである。よって、数学は物事の真理に直接に関与しない。すなわち、あくまでも、仮定のもとに構成する、思考の相対的なツールの1つに過ぎないのであって、我々のこの現実世界を完全に模倣することはできないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

数学、及び、論理学による等式一般に対する懐疑論

1=1ではない。なぜなら、1から1を引くと0であるからである。それは言い換えれば、1から1を取り出すと0であるからである。例えば、全体から部分を取り出すことはできるが、全体から全体を取り出すことはできないのと同じである。例えば1000ccのコップから1000ccという同じ値の水を取り出せるのはなぜか?それは1000ccの大きさを超えた厚みのあるコップという入れ物があるからこそ、可能なことなのである。よって、1=1を成立させるには、1そのものよりも大きい最小公倍数2を用意し、2から1を引かなければならない。すなわち、2ー1=1である。よって、[1=1]=[2ー1=1]である。よって、1とは1のことではなく、1=[2ー1]なのである。よって、ユークリッド原論にある、公理1、同じものに等しいものは互いに等しい、は誤りなのである。すなわち、同じものに等しいものは互いに等しくない、のである。よって、同じものを同じである、と言うためには、同じものの2倍から同じものを引かなければならないのである。これこそ、より厳密で正確な公理となるのである。よってここで、数学、及び論理学の根底を支えている等式の原理に疑問が差し挟まれた。これにより、数学全体に渡る論理の無矛盾性の証明の仕方に誤りがあることが示された。

高田義裕の人生論

今日の格言

エホバの日

旧約聖書ゼパニヤ書1章14節、エホバの大いなる日は近い。それは近い。しかも非常に急いでやって来る。エホバの日の響きは悲痛である。そこでは、力ある者も叫び声を上げる。その日は憤怒の日、苦難と苦悶の日、嵐と荒廃の日、闇と陰鬱の日、雲と濃い暗闇の日、角笛と警報の日である。

[解説]なぜ聖書の預言にあるエホバの日は非常に急いでやって来ると言えるのか?それは、神エホバは天地創造を7日間で終わらせたのであるが、神にとっての1日は、人間にとって1000年間を意味する。今は終わりの日であり、ハルマゲドンの日なのである。悪魔サタンは神の人類に対する支配主権の正統性に異議を唱えた。それで、神は悪魔サタンであるルシファーに全人類を一時的に支配してみる権威を与えた。本来なら、神の人類に対する支配主権の正統性が立証されるまで、およそ6万年かけることもできた。しかし神は今人類の歴史6千年の終わりまでに悪魔サタンの人類に対する支配を短くされた。すなわち60000÷6000=10である。これは例えれば、一時間は60分であるが、その十分の1である6分で来られたことになる。救急車は呼べば、一時間もかからないのではないか?私達の経験では遅くとも、5、6分で来るはずである。そうである、エホバは救急車の様にすぐに来るのである。次の聖句に注目せよ。旧約聖書ハバクク書2章3節、この幻はなお定めの時のためであり、終わりに向かって、息をはずませてゆくからである。それは偽ることはない。たとえ遅れているように思えても、それを待ち続けよ。それは必ず起きるからである。遅くなるこれはない。それで、第一の災いである疫病が過ぎ去った後、その次に来るものは全世界規模での食糧不足であり、飢饉である。全人類よ、自らの救いのために天と地を創造された方、唯一、まことの神エホバを崇拝せよ。

高田義裕の人生論

今日の格言

どうあるべきかをわきまえ知っている事と、どんな事も不可能ではない事は互いに同値な事である。すなわち、我々人間がどんな事も可能にできないのは、我々自身が我々自身に対してどうあるべきかを知らないからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

数学の厳密性に対する懐疑性

A=Aという等式は誰もが疑う余地のない自明な事柄であると思われる。しかし、よく考えて見ると、この現実世界に1つとして同じものはないことにも気付かされる。すなわち、工場で作られる全く同じ製品であっても、それはA=Aとはならないのである。なぜなら、同じ製品でも、作られた時間が違うし、作られた製品は同じ場所には置けず、隣に置くしかない点でその位置も違うからである。しかし、論理学の世界では、敢えてそれらの細かい相違は考えないことにして、A=Aは成り立つことを前提として論議を積み上げていくのである。これこそが、論理学の限界であり、数学という厳密性の限界であると言える。なぜなら、論理の世界は、敢えて現実世界の曖昧模糊とした事情は割愛し、あくまでも単純で純粋な仮想空間を設定して成り立つことで威力を発揮するものだからである。例えば、精密機器の製造する場所は、埃や塵の全くない特別なクリーンルームで作られる。しかし、現実の空間は埃や塵で満ちている。よって、数学の厳密性とは、あくまでも埃や塵という現実にある曖昧さを扱わない点において、現実世界を正しく表現することはできないのである。すなわち、皮肉なことに、数学の厳密性はその厳密性を重視し過ぎるゆえに、本当の現実世界を厳密に説明し、解明することができないのである。これこそが論理学の利便性の良さであると同時に論理学の限界でもあるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

無限の不条理

この世界を1つのジグソーパズルに例えて見よう。もし、この世界が五つのピースだけでできていたとしたら、世の中の仕組みは非常に単純であり、あらゆるすべての問題は簡単に解決できるであろう。しかし、現実はそれとは全く逆で、世の中は解決するのが困難な非常に複雑な問題で満ちている。であるならば、この世界は無限のピースで成り立つ非常に複雑で目の細かい巨大なジグソーパズルであるに違いない。しかし、そうすると、不可思議なパラドックスが生じる。なぜなら、ピースが五つしかないジグソーパズルでは、1つ1つのピースは全く形が違うから、他の位置にはめ込むことはできない。しかし、もし数が無限のジグソーパズルなら、そのピースの1つ1つの形の違いは、電子顕微鏡で見ても判別できないほどわずかなものに過ぎないはずである。そうすれば、極端に言えば、その位置に本来は入らないピースでも、無理やり入れれば入らないことはないのである。いやむしろ、ジグソーパズルのピースが無限個存在するなら、どの位置にどのピースを入れてもさして問題はないことになる。これが無限という概念の不可思議なところであり、もしそうならば、すべてのピースは皆同じものとみなして良いことになる。すなわち、この世界のすべての問題は1つの方法で解決できることになる。すなわち、この世界はたった1つのピースでできていると結論しても良いことになる。しかし、現実の世界は、解決し難い問題で満ちている。これを無限のジレンマと言う。