高田義裕の人生論

今日の格言

あらゆる地域にいる全諸国民に言う。まもなく必ず起こる世界的大艱難のための準備をせよ。もうすぐこれまで起きたことがないような世界的大災害が人類をおそうからである。あらゆる地域で、大地震、大雨、雹、火山噴火、食糧不足、戦争が瞬く間に同時に起こるからである。その日はまさに恐ろしいものとなる。今から直ちに自分の家のすぐ横に地下室である防空壕を作れ。そう、今からすぐに家の下か、庭にシェルターを作るのである。いざという時は、身を地面に伏せるように、あなた方の心も地下室のようにへりくだらなければならない。いざという時は、身を低くした者こそ、救われるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

現代社会における最大の偶像崇拝による闇

我々21世紀における最大の偶像崇拝とは何か?それは、固定観念であり、思い込みであり、決めつけに他ならない。私達は毎日の生活の中で、どうせ何をやっても変わらないと決めつけていたり、これは間違いなく悪いと決めつけて固定観念を持っていたり、あの人は嫌な人だ、と決めつけて思い込んだりしていないか?これこそが、思考停止状態であり、最大の偶像崇拝なのである。すなわち、相手と対話すること、お互いに継続して話し合い続けること、お互いに譲り合い、良好な関係を保ち続けることを否定する行為なのである。要するに、そこには、自分にとって、世界が敵か味方かの二通りの価値観しかないのであり、これは人を堕落させるものである。この多様性に満ちた深くて広大な世界は驚くほど複雑であり、到底、敵味方という軽率で、狭量な考え方では、はかり知ることは出来ないのである。よって、我々人間は、お互いに対話すること、相手を理解しようと努め続けることを止めてはいけないのである。我々は常に考え続けなければならないし、コミュニケーションを止めてはいけないのである。もし、話し合い、対話し合うことが、それ以上無駄なことならば、我々には元から口はないからである。しかし、私達は生活する上で、食べ続けていかなければならないし、他の人とおしゃべりすることを必要としているからである。よって、この多様性に満ちた世界を東西の冷戦のようなただ2つの価値観しかないと思い込んではいけない。単に民主主義勢力のアメリカが正しくて、独裁政権国家であるロシア勢が悪い、という軽率な固定観念を持ってはいけない。この点においても我々は常に考え、和平を模索し、話し合わなければならないのである。すなわち、アメリカ勢にはアメリカ勢の言い分があるのであり、ロシア勢にはロシア勢側の言い分があるのである。よって、相手を単に、敵か味方かという浅はかな思考停止という偶像崇拝を止め、我々はとことん話し合い、互いの譲歩が導き出せるまで、対話し続けなければならないのである。大昔からあるキリスト教の聖典である聖書に再三、戒められている偶像崇拝とはこのようなことを指しているのである。よって、最大の偶像崇拝とは、相手のことをよく知りもしないで、勝手に決めつける態度にあるのである。よって、人間は何事もすべての事において、よく調べもせずに性急に判断してはならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

私、高田はこの世の中の世界情勢、人身売買や、殺戮、戦争によって、苦しめられている人達、いじめによって、自殺した人達、貧しさのため、今日食べる物さえない人々、そして、人間以外のすべて苦しんで死んでいった生き物達、そして、天地が創造されてから、生まれてきた全創造物が受けてきた苦しみ、また、私自身の毎日の生活苦による労働の苦しみ、恐れに対し、ひどく苦しみ、まさに自分の目の前が真っ暗になり、自分の力を全部使い果たして、力尽き、まことの神エホバにまさに倒れ込んだ。すると、神エホバはまさに私の体をしっかりと支え、抱き抱えてくださった。よってすべて、何らかの事情により、苦しんでいるすべての諸国民よ、あなた方はまさにすべての力を使い果たして倒れこむ様に、エホバに寄りかかれ。するとあなたの神エホバはまさにあなた方をしっかりと受け止め、抱き抱えて下さる。なぜなら、唯一、まことの神エホバに全く依存することが、人間にとっての真の自由であり、真の自立を意味するからである。あなた方が救われないのは、神が始終、救いの手を差し伸べているのをあなたが振り払おうとするからなのである。それは、自分が生きているのは、すべて神の力に依ることを認めることをせず、自分達の力に依るものとすることによって、自分自身の手柄にしたいのであって、あなたのその欲望のための誇りが邪魔しているからに他ならない。よって、そのようなよこしまな誇りをすべて捨てて、すべてのことを神エホバに栄光を帰せよ。そうすれば、必ず、あなたの苦しみはたちどころに消え去るからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

今から39年前にアメリカで制作された反核戦争映画、The day after [1983年制作、アメリカ]が現実になろうとしている。私がこの映画を見たのは、小学校6年の12歳の時だった。当時はアメリカとロシアの冷戦時代だった。私はこの映画を観て、核戦争の恐ろしさで身が震えたものだった。しかし、39年後の現在、西暦2022年3月未明において、その恐怖はまさに現実のものになろうとしている。アメリカ本土に核爆弾が投下されるこの映画は、まさに、現在の新たなアメリカとロシアと中国間の冷戦時代を予兆するものであったのだ。まさか、自分が51歳のおっさんになっている現時点で再び冷戦時代の始まりが来るとは思ってもみなかった。聖書にある終末がまさに現在の2022年の疫病である新型コロナウイルスの世界規模での蔓延を契機として始まったのである。これから世界は世の終わりに向かって、疫病、戦争、自然災害、地震、食糧不足などの災害が複合的に同時にやって来る大艱難に突入するのである。よって、我々クリスチャンは神に対する自分達の信仰を究極にまで試されることになるだろう。聖書のヨハネの黙示録に一回だけ出てくるハルマゲドンはまさに現在進行形で始まったばかりなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

第三次世界大戦の勃発

2022年3月6日現在、大国ロシアはウクライナに侵攻した。これは何を表すか?そう、第三次世界大戦の勃発の引きがねとなるのである。共産主義勢力である大国ロシアと中国は共にアメリカ資本主義勢力の西側諸国ヨーロッパや日本、台湾が再び冷戦時代に逆戻りする。ロシアはアメリカの制裁に対して武力を行使するであろう。アメリカもそれに対して同様に武力でロシアに応えるであろう。共産主義中国は台湾に武力でもって侵攻を開始するであろう。こうして世界規模にまで戦火は飛び火し、第三次世界大戦が勃発するのである。世界の諸国民よ、第三次世界大戦はまもなく起こる。あなたは不意を突かれることなく、有事に備えよ。遂にアメリカ本土に核爆弾が投下されるであろう。しかし、ロシアと中国などの独裁政権国家はアメリカ西側諸国勢力に打ち勝たないであろう。ハルマゲドンによる世界の終わりまで最終的にアメリカ、イギリス強国が優勢にとどまるであろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

勝ち組と負け組

あなたは自分が仕事もなく、頼れる相手もおらず、孤独であり、自分は負け組の1人だと思っていないか?決してそうではない。本当の負け組とは、何もすることがない人のことを言うのである。すなわち、多くの財産を所有し、何の苦労も悩みもなく、人生において、何もすることのない人、要するに考え続けることをやめた者こそが真の負け組なのである。よって、たとえ、何も所有しておらず、苦労を強いられ、悩み続けているということは、言い換えれば、あなたはまだ、自分の人生という戦いからドロップアウトしているのではなく、人生という敵に対して真正面から戦っているのであり、バリバリの現役軍人なのである。よって、あなたが苦しみから逃れたいと思い、自らの命を絶つなら、それが初めて負け組であるのであり、自らの命を絶たず、苦しみ続けている時点で既に勝ち組なのである。よって、何事も物事が順調に進み、難なく成功することが勝ち組なのではないのである。よって、結論として、現状に満足し、思考を停止した状態こそ、真の負け組なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

数学、及び、論理学による等式一般に対する懐疑論part2

人類は知的探求の長い歴史での苦闘の果てに、何もないことを表すゼロという概念を発見した。これにより、10進法が形作られ、計算の仕方が格段に進歩し、容易になり、我々人間の現代社会になくてはならない普遍的ツールとなった。がしかし、私は最近、ゼロの概念に非常に疑念を持つようになった。それは何もない状態を表すゼロの存在自体の実在性に疑いを持ったからだ。なぜなら、何もないことが、何もないことを成立させることはできないからである。例えば、何も入っていないコップはなぜ、何もないという状態を成立させるのか?それは多分にコップという入れ物、すなわち、容器が存在するからだ。もし、入れ物、すなわち、容器が存在しなければ、何もないという条件も成り立たないのである。ゼロも同じである。何もない空の状態ゼロは、それ自体でゼロを成り立たせているのではない。それは、ゼロを成立させるには、どうしてもゼロ以上の有限値である空っぽの瓶を想像せざるを得ないからである。要するに、ゼロはゼロ以上の有限値の存在で成り立っているのである。よって、ゼロ自身はゼロ自身を成立させることができない。すなわち、我々は普段、暗黙の了解の内に手軽にゼロの概念を使用しているが、実際にはゼロの概念そのものが自明な事柄ではなく、あくまでも証明を必要とするのである。よって、我々は、まだゼロが存在することの証明を知らないのだから、勝手にゼロを使う訳にはいかなくなったのである。これは、数学の計算全般における危機である。なぜなら、まだ証明されていない不確かなゼロという概念を我々は何の疑いもなく、計算に用いているからである。また、1=1も、我々は暗黙の了解の内に自明な事柄として受け入れているが、これもまた、証明を必要とする厄介な命題である。なぜなら、同じ1でも、1周目の1なのか、それとも、2周目の1なのか分からないからである。数学においては、推論する際、何周目の1であるかまでは区別したり、考慮せずに、すべての1は同じ1として扱うからである。これは例えれば、人間の人生を100メートルトラック競争に例えれば、ある時、二人の人が全く同じ位置であるA地点に並んで走っていたとしても、ある人は50周目のA地点であり、もう1人の人は、まだ2周目のA地点を走っているかもしれないからである。これは明らかに同じA地点でも意味が違うのである。であるから、同じ1であっても、中身までは同じではないということである。しかし、数学の推論において、すべての1は同じ1とみなすから、これも、思考における厳密性において、甚だ不完全であることが言えるのである。よって、数学は物事の真理に直接に関与しない。すなわち、あくまでも、仮定のもとに構成する、思考の相対的なツールの1つに過ぎないのであって、我々のこの現実世界を完全に模倣することはできないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

数学、及び、論理学による等式一般に対する懐疑論

1=1ではない。なぜなら、1から1を引くと0であるからである。それは言い換えれば、1から1を取り出すと0であるからである。例えば、全体から部分を取り出すことはできるが、全体から全体を取り出すことはできないのと同じである。例えば1000ccのコップから1000ccという同じ値の水を取り出せるのはなぜか?それは1000ccの大きさを超えた厚みのあるコップという入れ物があるからこそ、可能なことなのである。よって、1=1を成立させるには、1そのものよりも大きい最小公倍数2を用意し、2から1を引かなければならない。すなわち、2ー1=1である。よって、[1=1]=[2ー1=1]である。よって、1とは1のことではなく、1=[2ー1]なのである。よって、ユークリッド原論にある、公理1、同じものに等しいものは互いに等しい、は誤りなのである。すなわち、同じものに等しいものは互いに等しくない、のである。よって、同じものを同じである、と言うためには、同じものの2倍から同じものを引かなければならないのである。これこそ、より厳密で正確な公理となるのである。よってここで、数学、及び論理学の根底を支えている等式の原理に疑問が差し挟まれた。これにより、数学全体に渡る論理の無矛盾性の証明の仕方に誤りがあることが示された。

高田義裕の人生論

今日の格言

エホバの日

旧約聖書ゼパニヤ書1章14節、エホバの大いなる日は近い。それは近い。しかも非常に急いでやって来る。エホバの日の響きは悲痛である。そこでは、力ある者も叫び声を上げる。その日は憤怒の日、苦難と苦悶の日、嵐と荒廃の日、闇と陰鬱の日、雲と濃い暗闇の日、角笛と警報の日である。

[解説]なぜ聖書の預言にあるエホバの日は非常に急いでやって来ると言えるのか?それは、神エホバは天地創造を7日間で終わらせたのであるが、神にとっての1日は、人間にとって1000年間を意味する。今は終わりの日であり、ハルマゲドンの日なのである。悪魔サタンは神の人類に対する支配主権の正統性に異議を唱えた。それで、神は悪魔サタンであるルシファーに全人類を一時的に支配してみる権威を与えた。本来なら、神の人類に対する支配主権の正統性が立証されるまで、およそ6万年かけることもできた。しかし神は今人類の歴史6千年の終わりまでに悪魔サタンの人類に対する支配を短くされた。すなわち60000÷6000=10である。これは例えれば、一時間は60分であるが、その十分の1である6分で来られたことになる。救急車は呼べば、一時間もかからないのではないか?私達の経験では遅くとも、5、6分で来るはずである。そうである、エホバは救急車の様にすぐに来るのである。次の聖句に注目せよ。旧約聖書ハバクク書2章3節、この幻はなお定めの時のためであり、終わりに向かって、息をはずませてゆくからである。それは偽ることはない。たとえ遅れているように思えても、それを待ち続けよ。それは必ず起きるからである。遅くなるこれはない。それで、第一の災いである疫病が過ぎ去った後、その次に来るものは全世界規模での食糧不足であり、飢饉である。全人類よ、自らの救いのために天と地を創造された方、唯一、まことの神エホバを崇拝せよ。

高田義裕の人生論

今日の格言

どうあるべきかをわきまえ知っている事と、どんな事も不可能ではない事は互いに同値な事である。すなわち、我々人間がどんな事も可能にできないのは、我々自身が我々自身に対してどうあるべきかを知らないからである。