高田義裕の人生論

数学、及び論理学の限界

数学の最大の価値は何であろう?それは極度の厳密性にある。しかし、厳密であることと、正確であることとは、実は全く別のものである。では数学は正確であるかと言うと、実はそうではない。なぜなら、数学は厳密性を重視するゆえにその正確さを犠牲にしているから。これはどういうことか?例えば、ある製品を作る場合、壊れにくくするためには、なるべく単純な作りにして、部品の数を極力減らすことである。なぜなら、複雑な作りにすればするほど、壊れ易くなるからである。これと同様に、物事を厳密にするためには、なるべく単純なものにしなければならない。例えば、あなたが卵焼きとサラダとオレンジジュースを食べるとする。それらを全部食べてしまえば、腹の中は卵焼きとサラダとオレンジジュースが混ざり合って、ごちゃ混ぜな状態となっている。それでは、あなたは卵焼きとサラダとオレンジジュースを食べる時、それらをすべて1つの皿に入れて、かき混ぜて食べるであろうか?いや、そんなことは普通はしない。あくまでも、卵焼きは卵焼きとして食べ、サラダはサラダとして食べ、オレンジジュースはオレンジジュースとして別々に食べるはずである。すなわち、食べている時の状態と、食べた後の腹の中の状態は、私達にとっては全く別の状態であるという事である。しかし、数学や論理学において、卵焼きとサラダとオレンジジュースを別々に食べることと、それが腹の中で混ざり合って、ごちゃ混ぜになっていようとも、内容は同じ卵焼きとサラダとオレンジジュースに違いないと見なされ、それらは同じ等式で表されてしまうという事である。もっと言えば、リンゴ2個とみかん2個は全く別の種類の2であるが、数学において2は同じ2と見なされ計算されてしまう。すなわち、厳密であるという事は、扱う部品を極力減らすこと、単純化すること、物事を簡略化することによって、初めて可能な事なのである。簡略化するという事は、曖昧な要素をあえて削除するという事であり、曖昧さとは、この現実世界に無数にある。例えば、味の微妙な違いや、色の濃度の微妙な違い、人間の心理状態の微妙な違いなど様々である。それは虚構ではない。それは現実であり、物事の確かさであり、正確さである。それらはあまりに複雑で、曖昧であるゆえに単純に数値化できない。数学においては、数値化できないものは厳密性に反するものとして排除し、削除してしまう。すなわち、数学はその厳密性ゆえに、より現実的な曖昧性という確かさ、もしくは正確さを犠牲にしているのである。では、正確であるためにはどうすれば良いか?それは2種類の方法しかない。すなわち、極度の具象性に絞るか、極度の抽象性に絞るかのどちらかである。例えば、彫刻像を彫る場合、最初は荒削りで十分であり、右方向に20センチ、左方向に10センチ彫り進めるなどと非常に分かりやすく、具体的である。しかし、彫り進めるうちに表面はだんだん滑らかになって行き、最初の荒削りの様に分かりやすく単純ではなく、非常に微妙で繊細で複雑な彫り方をしなければならない。すなわち、非常に抽象的であり、分かりにくくなる。つまり、荒削りという単純な引き算から、引き算でも足し算でもないようなミクロの世界へと変わる。すなわち、我々にとって分かりやすい、日常的に当たり前に使っている足し算とか、引き算、もしくは掛け算とか割り算はマクロな世界でしか使えない概念なのである。すなわち、非常に抽象的であるミクロの世界では、足し算とか引き算、もしくは掛け算とか割り算は常識として成立しなくなるのである。よって、この我々の現実世界を本当の意味でより正確で、微妙で繊細な点まで詳しく理解しようとしても、それは、我々がこの日常というマクロな視点でしか、物事を見ていない限り、我々の世界とは違うミクロの世界を我々は明確に、かつ正確には理解できないし、ミクロの世界の表現方法の術も我々は知ることはできないという事である。よって、数学とは、あくまでもマクロな世界でしか使用できないものであり、ミクロな世界では用いてはならないものなのである。もし、それでも敢えて数学を用いるなら、それは非常な危険性をはらむ事になる。その典型的な事例が、かのアインシュタインの有名で美しい公式である、E=mcの二乗である。この美しい方程式はミクロの世界の原子力の膨大なエネルギーを予見することは出来たものの、原子力のエネルギーを放出する際に出るその副産物である放射線という人体に極めて有害な物質の存在まで予見することはできなかったという事に表れているという事である。

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