高田義裕の人生論

今日の箴言

本当に真っ直ぐなものは曲がって見え、本当に曲がっているものは、真っ直ぐに見えること。また、角ばっているものは丸く見え、丸いものは角ばって見えること。また、大きいものは、小さく見え、小さいものは大きく見えること。また、正しいものは間違って見え、悪いものが正しく見えること。また、強いものは弱く見え、弱いものは強く見えること。また、賢い事は愚かに見え、愚かな事が賢く見えること。すなわち、すべてに対して言える事は、何かを行ったり、見たり判断したりする為には、自分が見える事の逆をすれば良いという事である。これはなぜかと言うと、物事の本質、もしくは、真実、真理というものは、私達人間とは真逆の関係にあり、私達人間とは、それだけ、物事を浅くしか見えない存在だからである。よって、私達人間にとって、すべての事は、想像以外であり、思いもよらない所にあるのである。この真理を常に、わきまえていれば、あなたの人生は、順調に進むであろう。なぜ、人間の思い通りに物事はなっていないかと言うと、人間、何事も自分の思った通りになったら、誇りの気持ちが育って、傲慢になるからである。要するに、物事は常に、私達人間の思い通りにならないようにされている事によって、私達が傲慢にならずに、常に、控え目で、その態度が謙虚に保たれられるように意図してそうされているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、少しの喜びを得る為には、まず先に、必ず、少しの傷みを味合わなければならないこと。よって生まれ変わるほどの新しい喜びを得る為には、まず先に、必ず、死にたくなるほどの傷みを経験しなければならないのである。よって、人は、死ぬほど、刺激的な快楽を味わいたければ、必ず、死ぬほど苦しい傷みを覚悟しなければならない。すなわち、快楽だけを得て、苦しみは避けたいという虫のいい考えは通用しない。快楽と激痛は、それでワンセットのものである事を肝に銘じよう。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本当に勇気のあることで強いということは、ともすれば、状況が非常に切迫していて、十分な準備が整っていない下でも、それに対して冷静さをあくまでも保ち、全力を尽くす精神力の事、あるいは、どんなに自分の不利な立場や逆境に立たされても、それに立ち向かえる強い忍耐力や能力や資力を自らの手で培い、それに対処する自発的な行動力の事であると思われがちである。しかし、実際には、逆説的ではあるけれども、それらは本質的に言えば、自分の弱さ、臆病さの別の形への変化の表れであって、自分にある弱さを解決せずに、むしろそれを巧みに隠そうとする一種の過剰反応の事なのである。よって、真の強さ、もしくは、本当の勇気とは、自分にある弱さを無視する事では無く、むしろ、それを直視し、それをありのままに受け入れる事の出来る平常心の事を言うのであり、傷みを何とか紛らわそうとするのでは無く、むしろ、傷みと共に生きて行こうとする辛抱強さにこそあると言えるのである。またそれは、言い換えれば、自分の一番大事で肝要な部分を、相手の手中に委ねる、もしくは、自分の最も触れられたく無い、知られたく無い、見られたく無い、醜くて弱い部分を、あえて相手に晒すという事なのである。すなわち、要約するなら、誰もがしたく無い事をあえて自分がしようとする態度の事を言うのである。まさにこれこそ、真に勇気があり、最も強いという事の定義であり、これが唯一、自分の弱さを解決するやり方なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人にとって、人生において、与えられている時間と力の量は同じである。すなわち、可能性の条件は等しい。すなわち、全く無駄でくだらない、ダラダラとした時間を過ごしていたとしても、その後から楽した分だけのツケを必ず払わされる事になってしまう。すなわち、日々、苦しくても、勤勉に働き続ける者は、いざという逆境(冬)の時の為の蓄えが出来ているのであり、その後から苦しんだ分だけの良い報いを必ず受ける事になるのである。

2.物事の真実として、何事もそれに徹すれば、そんなに辛く無いと言う事である。例えば、恥ずかしい目に遭っても、それを真正面から素直に受け入れ、自分は恥ずかしい事をさらけ出してそれに徹すれば、それは端から見て、本人が思うほどには、恥ずかしく無いものなのである。むしろ、恥ずかしい事や、びっくりした事に対して、真剣にでは無く、中途半端に対応したりする時、それは本当に端から見ていられ無いほどに恥ずかしくて、みっともなく、シラけてしまうのである。

3.クリスチャンの歴史は、迫害の歴史であると言える。また、クリスチャンの信仰の試みの歴史は、あらゆる残酷な拷問の実験台の歴史でもあったのである。よって、クリスチャンと迫害は必ずそれでワンセットのものであり、人は厳しい迫害を受け入れるほどの覚悟が無くて、ただ甘くて軽い考えや、動機だけで真のクリスチャンになる事は、初めから無理な事であるのである。しかし、全く真実な事として、全く浅はかで自分の意志からでは無く、外部からマインドコントロールされた病的な思い込みは、(これを本人は真の信仰だと思っている)他の人を殺す事を平気で行い、必ず、そのエネルギーの方向は、破壊的、破滅的、非建設的なマイナス方向に向かうのである。そう、殺人を正当化するのである。よって殺人は、如何なる理由があっても正当化する事は出来ない。これが真理であり、間違った宗教は、自分達の宗教観念の為なら、人を殺す事も辞さないのである。これに対して、全く真実に、その動機付けが、外部から強制されたものでは無い、自発的、自然的なものであり、本当に健全な正しい思いは、たとえどんな反対を受けても、それを止めないと言う方向にだけ、エネルギーが行くと言う事なのである。すなわち、真の信仰は、どんな迫害にも耐えられると言う事である。しかし、真の信仰では無い、間違った思い込みは、むしろ迫害に耐えられるものでは決して無いのである。なぜなら、それは所詮、間違いだからである。こうして、私達は、真の信仰と偽りの信仰とを区別する事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

逆双方向性原理

ある任意の事柄Xにおいて、そのXを成り立たせる場合は、その逆の−Xをも成り立たせなければならない。よって、一般形X=X(−X)である。

事例1. あなたは車を実際に運転する時にはどうしているだろうか。いや、もっと簡潔に言えば、前に進むと言う事柄は何を意味しているか。そう、アクセルだけでは無く、ブレーキも踏んでいるのでは無いだろうか。すなわち、アクセルをXと置くと、ブレーキは、−Xである。現実に進む為には、進むだけでは駄目で、止める事も必要不可欠なのである。よって、一般形X=X(−X)にこれらを代入すると、進む(アクセル)=アクセル(ブレーキ)、もしくは、進む=進む(止める)なのである。よってすべての事象に対して、ある事柄を存在させる為には、その逆をも存在させねばならない。または、ある事柄が存在する時、その逆の事柄も同時に存在すると言う事である。これを逆双方向性原理と言う。そう、数学は、互いに矛盾する事を成り立たない事と考えるが、すべての物事は矛盾で成り立っているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

美しさとは何か。それは美女の様な綺麗さの事では無い。それは、自分の事を悪く言った人の事を快く許す心の事であり、苦しんでいる人々に、喜んで助けの手を差し伸べる行動力であり、人々から蔑まれている者を、自分は蔑まずにむしろ、喜んで愛する気持ちの事である。それが人にとっての真の美しさである。よって、ただ単に容姿が美しい者は、大勢いるが、真の美しさ、すなわち、心の美しさを持った者は遥かに少ないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

自分には何の値打ちも無い、と言うことが出来る間は、まだそう言うだけの余裕があり、恵まれていると言えるのである。また、自分はもう駄目だ、と言う事が出来る間は、まだそう言うだけの余裕があり、恵まれていると言えるのである。

2.良い人間に成ろうとする事は、確かに立派な事だが、むしろ、自分の悪い所を見せる事の方が、より偉大であること。すなわち、自分を良い人間に見せるより、自分のありのままを見せる者の方が、皮肉にも、人から信用され、好かれること。要は、立派になる事に努めるよりも、素直で正直である事が人間にとって一番大事な事であり、すべてであること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある恋人達がいた。彼らは相手がいないで、一人だけでいる人達をかわいそうに思っていた。それは、話し相手もいなければ、ただ一人で孤独でいるのは、さぞかし、寂しい事だろうと思って、自分達には相手がいる事を密かに自慢して優越感を抱いた。しかし、恋人のいない一人でいる男性がいた。彼は確かに孤独で、見た目にはかわいそうに思われていた。しかしその本人自身の心の中は全く違っていた。彼は、仲が良さそうに一緒に手を繋いで歩いているカップル達を見ては、あの人達は、一人では何も出来ないし、誰かがそばに居ないと寂しくて耐えられない人達なのだ。何とかわいそうな人達だろう。私は一人でいるのが気楽で楽だし、相手が居なくても寂しく無いし、むしろ相手がいる事で相手の気持ちも考えてやらなければならないので、非常に面倒で煩わしい。一人でいる事は、何と自由で楽しい事であろうか、と彼は自分には相手が居ない事を密かに自慢して優越感を抱いた。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは、他の人と自分を比べて、勝った、と思わなければ、あなたは、他の人と自分を比べて、負けたと思わなくても良いこと。しかし、逆に、あなたは、他の人と自分を比べて、勝ったと思うならば、あなたは、他の人と自分を比べて、負けたと思う事になること。そうである、人間は他の人と自分を比べる事も出来るし、かつ、人間は他の人と自分を比べる事が出来無いとも言えるのである。要は考え方次第なのである。

2.人間関係とは、一筋縄ではいかない程、複雑であり、多様性を持っていること。例えば、あなたはAさんが苦手だが、AさんはBさんが苦手である。しかしここでBさんはあなたの事が苦手であったりする。すなわち、Aさんはあなたより立場が上であるが、BさんはAさんより立場が上である。そして面白い事に、あなたはBさんより立場が上であったりするのである。よって結論として、論理的には、巡り巡って、あなたはAさんより上になってしまうのである。しかし、実際の人間関係は、そうでは無い。すなわち、論理的には説明出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人はまず、何が悪いとか、何が良いとかを話題にするけれども、実際には、そんな事を言える立場には居ない。良いとか悪いとかと言うレベルは、まず、自分のレベルが神の様な存在で無いと論じられ無い類いのものだからである。神とは、完全であり、賢くて、決して間違いを犯さない正しい存在である。それに対して私達人間はどうか。私達は不完全であり、愚かであり、同じ間違いを何度も犯す。その様なレベルの者が、何が正しくて、何が悪い事か等を問う事自体があり得ない事なのである。例えば、2次元の平面上でしか存在していない物が、3次元の立方体を想像出来るはずが無いのである。よって何が良くて何が悪いかを論じる事が出来るのは神だけであり、その為に、神は御自分の権利の象徴として、パラダイスのエデンの園に、善悪の知識の木を生えさせておられたのである。これは神の主権の象徴であり、神だけがその実を食べる事が出来る事を人間達に明確に示すものであった。しかし、最初の人間夫婦、アダムとエバは、その神の主権に真っ向から対抗し、自分達も神の様に何が良くて、何が悪いかを論じる事が出来ると傲慢にも主張したのである。それでその木の実を食べ、神からエデンの外に追い出されてしまったのであった。