高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界に絶対的なものなど1つも存在しないという意味とは、1つ例えて述べるなら、人間が人生の中でこんな素晴らしい事があるのか、と驚く様な素晴らしさも、また、こんな事があって良いのか、と驚く様な悲劇も、時が経つうちに、いずれは使い古され、人々から飽きられ、次第に廃れて行って、遂には全く忘れさられてしまうという事である。なぜなら、私達よりもずっと昔の時代にも信じられ無いくらい、途方も無い、素晴らしい事柄や悲惨な事実があったに違い無いからである。しかし、今はどうだろう、そんな昔の事を知っている者など1人もいないのである。

2.自分の言う事に、一貫性が無ければ、何も信用されないのである。よって、約束した事は、果たせ。しかし、自分には無理な事を約束するよりは、むしろ初めから約束しない方が良い。人間はともすれば、自分に実現不可能な事柄を約束してそれを果たせずに、人からの信用を失ってしまうからである。そんなくらいなら何も約束しない方がよほど信用される。

高田義裕の人生論

今日の箴言

世の中の常として、努力している者には、必ず助力者が出て来るという事である。すなわち、逆に言えば、努力をしていなければ、誰も助けてくれないという事である。

2.自分が自分の弱さと戦う努力をしなくて、すなわち、自分の弱さを社会のせいにしたり、それから逃避して、安易に宗教に逃げたりしないこと。

3.個人が不倫をしているか、していないかを詮索する事や、個人が淫行を犯しているか、いないか、を詮索することや、個人的にマスターベーションをしているか、していないか、を問いただしたりする事は、全くのプライベートの侵害であり、たとえ、家族や夫婦であっても、侵害してはならないものなのである。それらは、すべて、個人的に解決すべき問題であり、本人と神の2人だけの関係であり、問題なのである。

4.良い事を行う事に、無数の機会が与えられているわけでは無く、良い事を行うことさえ、期限が定められているという事である。よって、その間に行わなければ、期限を過ぎて良い事を行ったとしても、それ自体は何の意味も成さ無くなってしまうのである。よって、善は急いで行うべき事である。

5.分かりやすく、滑らかに、流暢に話しの出来る者達に対して言える事は、本来、上手に話すべきなのはすべて、相手の人間に容易に理解してもらうのがその目的なのであり、自分が上手に話す事が出来る事を誇る為にあるのでは決して無いという事である。よく、素人や一般人には全く難解で理解出来ない専門的知識をそれが難しいほどそれを自分が知っている事を誇っている者達がいるけれども、本来、学問とは、全域に行き渡らされる為の手段にしか過ぎ無いのであり、万人の為の目的で行われるべきものなのであり、その様な学問の為に学問をする様な血迷った事をしてはいけないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神がすべての人に与えた賜物とは、その人の要求をすべて叶える万能の力では無く、慣れる、という能力である。人間は、たとえどんなに過酷な状況に立たされても、その状況から逃げるという能力は与えられていないが、たとえどんなに過酷な状況に立たされても、それに慣れて順応する能力を持っているのである。これこそ最強の力であり、それは、どんな姿にでも形を変える水の様である。水ほど力強くて恐ろしいものは無い。水はどんな兵器よりも恐ろしい武器である。津波を思い出して見ると良い。津波はその巨大な力ですべてを飲み込み、洗い流す。どんなに入り組んだ所にも侵入して物を破壊する。しかし、普段は、おとなしくて、すべての生き物に水分としての潤いを与える。まさにこれこそ、万能の力なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある人にとって、それが悩みと感じる場合にのみ、それは、その人にとって悩みなのです。ただ、悩みを乗り越える努力と他の人に援助を求めないで、それをずっと悩みとしてとどめておく事が、初めてその本人にとって有害なものとして作用するのです。何故なら、悩みが解消されずに、それが蓄積されると、人は病気になるからです。

2.神に拠る裁きの日には、この世の中では、当然の事として受け入れられ、神の代わりをしていたあらゆる上位の者達、もしくは、人々がそれが消滅するとは夢にも思っていないほどの礎石の様に不動な権威がすべて、神御自身によって覆されてしまうという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

日頃、仕事などを通じて分かって来た事は、何事においても、それをしたり、しなかったりという中途半端な精神態度は自分自身にとっても、また、周りの人々にも非常に迷惑をもたらすという事である。むしろ、するか、しないのかのどちらかにはっきりした方が精神的、肉体的な健康には良いのである。

神とは、目に見え無いという事が他と違うだけで、後は人が人に対する振る舞いの仕方と、人の神に対する振る舞いの仕方は同様なものなのである。すなわち、神は人格神であり、同じ人格的存在である人間に対する様に話しかけたり、祈ったりして神とコミュニケーションを取れば良いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人生の処世訓として、必要不可欠な事は、とにかくどんな人間に対しても、相手の話を真剣によく聞いてあげる事に尽きる。人はともすれば、自分の事ばかり話しがちであるが、その衝動を是非とも抑えて、相手の人間に関心を払って、とにかく、相手の言いたい事を全部聞いてあげる事である。そうすれば、あなたが第一印象で判断していた相手の人が、自分が思っていた人物とは全く違う事に気付くであろう。思いがけない相手の尊敬出来る所や、自分には全く真似の出来ない程の苦労をして来た事にも気付かされるであろう。そればかりでは無く、相手の話や意見を聞く事によって、今まで自分が当然と思っていた常識的見解が覆されるであろう。それによって、自分自身の考え方の範囲が広がり、また別の視点で物事を見れる様になり、自分にとって有益な情報が得られるである。すなわち、大事な事は、じっくり相手と話もしていないのに、見た目の第一印象で他の人を判断しては決してならないという事である。第一印象ほど、身勝手で、すべての人間関係を破壊するものなど無いのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世界に果たして価値のある実物資産というモノは存在するのであろうか。それは金や銀であろうか。またダイヤモンドやルビー、宝石の類いのものであろうか。それとも、高価な美術品や芸術品であろうか。しかし、ここで現実を見て見よう。私達は毎日苦しい思いをして、額に汗しながら働かなければならない。この事実は何を物語っているか。そう、それは、およそ、この世界にこれが一番価値があるという実物資産など決して存在し無い事を意味する。それはなぜかと言うと、もし、この世界にたった1つだけ一番価値のある実物資産があるとしたら、全世界の人々はそれを手に入れようと躍起になるだろう。あちこちで、その争奪戦の争いが起きる事であろう。しかし、実際にはその様な戦争は起きてはいない。確かにこの世界には戦争があるが、その様な類いの戦争では無い。それは民族間の争いであったり、政治的利権の争いであったりするわけである。要するに、もし、人間が一番価値のある実物資産を手に入れてしまえば、もうそれ以上働く必要も無ければ他の人と争う必要も無いのである。ただ自分1人だけが独立して、幸福を満喫する事が出来るはずである。。しかし、この世界の頂点に立っている様な人物は存在していない。現実は分裂した国家間の争いがあるのみである。すなわち、この世界には価値があるものなど無いから、自分達で人為的に価値あるものと見なされる物事を生み出す努力をする以外に無いのである。この様な訳で支配者達は、奴隷をこき使い、その安い低賃金で作った製品なりを付加価値を付けて売って儲けを出すという価値を人為的に作り出しているのである。そして、それはここまですれば良いというものでは無く、延々と働き続けて行かなければならない無限地獄なのである。だから人類は、過去からずっと連綿と戦い続けて来たのである。これからも戦い続けなければならない。なぜなら、この世界には、価値のある実物資産というものが無いのだから。よって、金や銀も、ダイヤモンドや宝石、高価な美術品や芸術品も絶対的に価値のある実物資産では無い。それはあくまでも、相対的な価値観の一部に過ぎ無い。要するに、時代が変われば、価値観も全く変わるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

真理

[感想]

真理とは何か自分達からは程遠い、かけ離れた、高くて手の届か無いものであり、容易には知り得ない、全く難解で複雑なものと思われがちであるが、実際には、全く逆で、私達にとって、非常に単純でごく当然な簡単なものであったという事である。よって、顔をしかめてこの世界でたった1つしか無い貴重な宝石を追い求めるかの様にして、手間をかけ、日々奮闘し、力を尽くして来た者達の努力は、残念ながらまた、哀れにも、すべて徒労に終わる事は、否めない事実なのである。

[真理]

1.それが必要であるべき時にそれを備える事である。よって、それが必要で無い時にそれを備えてはならない。

2.その様にするべき時にその様にすべき事である。

3.その様にあるべき時にその様である事である。

4.それが必要な時にそれがある事である。

5.すべては順番と言う配列で成り立っているという事である。よって配列を間違えると、有害な事柄が生ずること。

6.決めるべきで無い時に決め無いこと。

7.決めるべき時に決めること。

8.すべてはバランスである事である。

9.楽しむべき時に楽しめば良い事である。

10.誇るべき時に誇れば良い事である。

11.捨てるべき時に捨てれば良い事である。

12.話すべき時に話せば良い事である。よって、話すべきで無い時に話してはならない。

13.見るべき時に見れば良い事である。よって、見るべきで無い時に見てはならない。

14.裁くべき時に裁けば良い事である。よって、裁くべきで無い時に裁いてはならない。

15.死ぬべき時に死ねば良い事である。よって、死ぬべきでは無い時に死んではならない。

16.同じものでも、ある人には無害でも、またある人には有害であること。

[私が信じている信条、もしくは万物の公理]

1.神はおられること。

2.神はただお一人であること。

3.神の名はエホバであること。

4.神は絶対者であること。

5.神は全能者であること。

6.神は万物の造り主であること。

7.偶像崇拝は最大の罪であること。

8.神は御自分の独り子を持たれること。

9.イエス・キリストは、神の子であること。

10.神とは、エホバの事を指すこと。

11.イエス・キリストは地上に肉体の衣を付けて来られたこと。

12.イエス・キリストは殺され、その三日後に神によって復活させられたこと。

13.イエス・キリストは永遠に王として支配しておられること。

14.神エホバの主権を認めること。

15.神は私達人間の父なる方であること。

16.神の民を迫害したり、悪く言ったりは決してしないこと。

17.神は愛であること。

18.私達人間は皆、生まれながらにして、死刑の宣告を受けた神に対しての罪人であること。

19.真のクリスチャンは、清貧を目指すが、ケチでは無いこと。むしろ人をよくもてなすこと。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神エホバに付き従う人々とは、この世のものでは無いという事である。つまり、今ある現実の状態を自分達の行動を決定付ける基本的尺度とは見なしてい無いという事である。よって、この世のもの達は、今ある現実がすべてであるから、自分達の行動の尺度を現実に求め、かつ、据える事から、彼らは良い意味においても、悪い意味においても、現実主義者であるという事である。彼らが終始、口にする自慢の根拠となる、この世において誤って真理と唱えられている常識、すなわち、世の中は甘く無い、しっかり気を引き締めておかねばならない、苦労する事は美徳である、などの処世訓はどれも皆、この世を規準とした、とりあえず、と言う緊急処置的な、決して永遠に亘って通用する様な真理と言うものとは程遠い、一時しのぎの方法論でしか無いものである。よって、神の観点から見て、この世の常識は、本来あるべき状態から全くかけ離れた異常なものなのである。また、神に服従する人々とは、その様な現実主義者であるこの世のものとは、一線を画する存在であり、彼らは神と共に生きている1人の独立した人なのである。よって、この世の人々が当然の事と思って行っている常識とは、本来は全くする必要の無かった無駄であり、余計な事なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人々の間で起こる誇り、自慢、見栄などは、まるで、いつも自らを新鮮に保つ、常に動いていて、二度と同じ場所にずっととどまらない、勢いある波しぶきの清さから、1つ外れた所に出来ている岩のくぼみに溜まっている腐敗した海水の表面に浮いているあぶくの様なものである。

2.敬虔な専心(信仰)は、すべての事に益があり、すべてに通じるものなのである。

3.神の事柄を行う事によって生じる作用は、すべて、何かを失う事では無く、すべて、今あるものの上にさらに得る事に関するものである。

4.神エホバからの知恵は、摑みどころの無いもの、尻尾の無いもの、すなわち、弱点の無いものである事である。

5.内面から来る綺麗さ、すなわち、心の清さから来る綺麗さの後に初めて、外面のまとまりの良さ、すなわち、容姿の良さが来るのである。

6.すべての何ものにも勝って神の事柄を追い求めよ。神の事柄とは、1つのものですべてをまかなう事の出来る様なものだからである。

7.若さは、若いというだけで財産なのである。