高田義裕の人生論

今日の箴言

すべての人は自分が優秀になる事を目指すが、すべての人が優秀な人ばかりであったら、それは素晴らしい事であろうか。何しろ優秀な人はその見返りも質の高いものを要求する。清潔で豪華な客室、贅沢で美味しい料理、高額な報酬などである。しかし、この自然界の生き物の生態系を見てみると、実に多様性に富んでいる。プランクトンを餌にしている魚も居れば、シマウマなどの大きな哺乳類を餌にしているライオンなども居る。これらは密接に関連し合って、全体として素晴らしい絶妙なバランスが保たれ、地球環境は維持されている。この様にライオンの様に大食いな動物も居れば、小さな虫のような粗末な食事で満足している鳥たち、もしくは腐って腐敗した死肉でも平気で食べてくれるカラスのような生き物が居てくれてこそ、自然界は成り立っているのであり、すべての生き物がシマウマの様な贅沢な食糧を必要としていたら、自然界は決して成り立って行かないのである。よってすべての人が優秀になろうとする事は、自然界に例えれば、すべての生き物がライオンになる事と似ている。すべての生き物がライオンばかりに成ってしまったらどうなるであろうか。ライオンは周りの生き物を全部食い尽くしてしまい、ライオンは餌が無くなって、遂にはライオンという種は絶滅してしまうであろう。同様にすべての人が優秀であったなら、彼らはお互いに殺し合い、共食いして、人類は滅亡してしまうであろう。すなわち、人間はライオンの様な優秀な人間も必要だが、粗末な食事で満足してくれる鳥の様な、優秀では無い人間も必要なのである。すなわち、要約すれば、大なる者も小なる者も必要であり、あらゆる性格を持った人間が居てくれるからこそ、全人類社会は成り立っているのである。よって結論として、(優秀さ)がすべての人間が追い求めていく絶対的価値では無く、(善)がすべての人間が到達すべき絶対的基準では無く、(正しさ)がすべての人間が目指すべき絶対的価値なのでは無いのである。すなわち、人間にとって、優秀さも愚かさも共に必要であり、善も悪も共に必要であり、正しさも間違いも共に必要であり、富んだ者も貧しい者も共に必要なのである。これらはすべて、全体から見れば、あくまでも相対的なものであり、絶対的な存在は神だけなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

あらゆる事柄、またあらゆる難題と思われるものは、すべて(謙遜さ)によって解決出来るであろう。なぜならこの万物にあるすべてのものは、有形であり、ある形を取っている。形を取っているという事は、存在しているという事であり、存在するとは、一種の傲慢さだからである。例えば、インフルエンザウイルスにしても、そのウイルスが存在する為には、ある条件が必要不可欠であり、例えば、このウイルスに関して言えば、圧倒的に冬の時期の乾燥した条件下において発生しやすいという点である。いわゆるすべての生物には、この様に存在する為の好む状況が整えられなければ、生存しにくいからである。この様に存在する為の条件が限られられているという事は、言い換えれば、(有)という世界でしか存在出来ない種類のものでしか無いという事であり、(無)という世界ではそれは存在出来ないという事を意味する。人間で例えると、(有)とはわがままの事であり、怠惰さの事であり、浪費する事を意味する。その(有)の世界を支えているのは、(無)の世界であり、人間で例えると、(無)とは自己犠牲の精神であり、いわゆる自分を無にして、相手のどんな要求にも進んで従う利他的愛の精神だからである。すなわち、無私の愛こそが(無)の世界であり、(有)の世界とは利己的精神、すなわち傲慢さの事なのである。よってあらゆる難題とは、その解決する手段が限られてくれば限られてくるほど解決する難易度が高くなっていく事を示すが、それは逆に言えば、それだけ難易度が高くなるほど(有)の世界に依存する濃度が高い事になり、それは例えれば、それが発生する原因が非常に稀である事を意味する。いわゆる治療法の無い難病と呼ばれるものである。難病はこの様に甚だ傲慢な存在であるから、それは、なおいっそうの利他的愛を必要としている事になる。すなわち、(無)の世界への依存度が高いのであり、その存在を消去する、すなわち、その難病を治す為には、無私の愛という愛の中でも最大のものである(謙遜さ)が治療薬として良く効くという事である。この万物の世界には大きく分けて3種類の世界があり、そのレベルの低い順から、(有)の世界、すなわち我々の生きている物質世界であり、その次にすべての存在を根底から支えている(無)の世界であり、最後は利他的愛の精神の究極の存在である(謙遜さ)という神の存在する世界、すなわち、(霊)の世界なのである。よってすべての難病を治す事が出来るのは、(有)の世界にある物質的な薬剤や有形の形を取った治療法では決して無く、あくまでも、(謙遜さ)という霊が治療薬として唯一必要不可欠のものであるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

はっきりと言っておく。御子イエスキリストに関する事柄をあくまでも聖書から調べようとせず、そこから独立して自分独自の解釈を提唱して、自分自身の身の潔白を維持しようとしている者達は、無知であるがゆえに不義を行っている者達よりも災いであると言える。なぜならその者達は正しい神の崇拝の仕方を知っているにもかかわらず、あえてそれに対抗して自分独自の義を追い求めているからである。人間にとっての義とは、あくまでも、神に対する従順にかかっており、神から独立した人間の義など存在し得ないからである。最初の人間アダムとエバも自分達にとっての正しさとは、自分達の創造主であるエホバ神に対して従順であるべき事を十分認識していたにもかかわらず、あえて、意図的にそれに対抗して、自分達独自の正しさを追い求めて自分が神の様になる事を望んだからである。それこそが、聖書の言う罪であり、罪の報いは死なのである。であるから、私達人間は皆いずれは死ぬのであり、御子イエスキリストと神に対する正確な知識、すなわち、聖書から聖書を紐解く真の正しい知識を取り入れる事が私達にとっての永遠の命を意味しているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

正当な事柄には、ちゃんとした責任もあるから、初めがあれば必ず終わりも規定しているものである。よって、終わりが無くて無秩序に広がりを示唆するものは既に不当な事柄である。例えば、これに投資すれば必ず儲かりますよ、という宣伝は、最終的にはどれくらい儲かるのか、もしその儲かる金額を下回ったら、投資したお金の何%をお戻ししますなどと言った規定が無いものであり、最後の規定が曖昧なものであったとしたら、それは既に詐欺である。決してそのような話には乗ってはいけないのである。すなわち、[投資すればするほど儲かります]、などという責任の所在が無い、終わりを規定していない話はすべて不当であり、それは嘘なのである。

2.万物はすべて継続する事でその価値を保っている。なぜなら、お金はすべて流し続けなければ意味が無いし、すべての機械は動き続けなければ価値が無いし、生き物はすべて生き続けなければ生きていないからである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間には異性にモテる人とモテない人がいる。その違いは何か。それは見た目の容姿の良さでもなければ、お金を持っているとか、持っていないとかの差でも無い。そう、それは心の美しさである。自分はモテないと思っている人は見た目の容姿の良さばかりを気にしており、自分の容姿の悪さを深刻に悩んでいる。しかし、たとえ、見た目の容姿が良い人でも何かの事で深刻に悩んでいるとしたら、やはりモテないのである。なぜなら、その欲求不満がその人の顔の表情全体を暗くし、そこからマイナスオーラが醸し出され、他の人に近づきにくい印象を与えるからである。欲求不満をどんどん肥大させていくと、いわゆる性格の悪い人になってしまうのである。よって、心の状態は容姿の良い人でも、そうでもない人でも等しく自分の努力次第で変える事が出来る。そう、努力して性格の良い人に成れば良いのである。モテるという事は外見に左右されるのでは決して無く、あくまでも心の良さで決まるのである。たとえ、どうひいき目に見ても美男美女では無い人でも、心が美しければ、その心の清潔さがその人の顔の表情全体を明るくし、そこから人を惹きつける魅力が醸し出され、他の人に近づきやすい、親しみやすい印象を与えるからである。そうである、モテる事の本質とは、いかに多くの人から親しみやすさを持たれるかに懸かっており、モテるとは好感度の高い人の事を言うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人はよく成功した人の話を聞いて自分にもそれを当てはめようとする。しかし実際はそれはほとんど役に立たない。なぜなら成功した本人がなぜ成功したか分からないからである。成功と言っても、彼らは自分のしたい事で成功した訳でも無ければ、自分の理想通りの成功をした訳でも無いからである。ほとんどの人は自分の予想外の分野で成功しているからである。例えば、俳優になる夢を目指して努力し、俳優になっても俳優としては成功せず、たまたまコメディの番組に出演したら、それが物凄く人から受けて、コメディアンとして成功したという場合があるからである。また、世界一のお金持ちになろうと夢見て、努力したが、それは叶わず、大統領に立候補したら、みごとそれに当選し、政治家として成功した場合があるからである。要するに、成功する理由は甚だ個人の特殊的事情の故に成功するのであって、成功するための、誰にでも適用できるマニュアル的な普遍性の事情は無いのである。それよりも、人は、何かの事を目指していて努力したが、それが叶わず失敗した人達の事例を参考として当てはめた方が良い。なぜなら成功する理由よりも、失敗した原因というものははっきり分かるからである。失敗した事情は誰にでも適用できるマニュアル的な普遍性を持っているからである。すなわち成功したければ、失敗した人の逆の事柄を行えば良いからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間は進歩していくという観点から見れば、今後ますます進歩していくだろう。そう遠くない将来には、我々は何もしなくてもすべて機械(AI)か、アンドロイドが全部代わりにやってくれる様な世界が到来するかもしれない。しかし人間は倫理という観点から見れば、何もしなくても全部代わりに誰かがしてくるという状況は非常に由々しき状況である。なぜなら倫理の法則には(等価交換)という価値観があって、それは何事も働いた分だけしか得る事は出来ないという原則が働いているからである。すなわち、そんな怠け者の世界が許されるほど世の中は甘く無いよ、というわけだ。これはどう考えれば良いだろう。しかしここで我々は(進歩する)ということ自体が倫理的な原則である事に気付く。すなわち、人間は同じ事をやっていても、そのうちマンネリ化し、衰退していくという、これも倫理的価値観の中の熱力学第3の法則である、(すべてのものは放っておくといずれは必ず朽ち果てる)という原則に基づいている。そう、最低限の現状維持を保つ為には、人間は常に新しいものを目指して努力していかなければならないのであり、その為に進歩する必要があるのである。こう考えると、どんなに世の中が進歩しても、倫理的観点から結論するならば、何もしなくても全部代わりに誰かがやってくれるなどという世界は到来しそうに無いのである。もし仮に人間がその様な理想郷を形づくったとしても、その代わりにまた自然は新たな問題を生じさせるであろうという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

どんなに素晴らしく思われる事でも、理想は理想で終結し、夢は夢で終結し、幻想は幻想で終わるのである。私達はいつでも、私達にとっての現実を現実によって捉えなければならないのである。

2.ある人々の成功している栄光ある姿を見て、これが現実だ、と思う者は、本質の核心部分では無い、表面的な外面だけのカゲロウの様な影だけを見て、これが実体だ、と勘違いしている者達なのである。すべて、他の人の事は良く見える部分だけを見て、本当の苦しい実体を見ていないのである。隣の芝生は自分の家の芝生より青く見えるものなのである。

3.ある事柄を曖昧さを避ける為に、はっきりと決定する事は正しい事柄であるけれども、決定した事によって正当な自由が侵害される場合、その決定は間違いであると言える。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰とて自分が甘えても甘やかしてくれる優しい異性と付き合いたいと思うだろう。そういう人当たりのいい人間には注意するとよい。彼(彼女)はお互いの関係が順調に行っている時は最高の相手かもしれない。しかし、ひとたび、あなたが何かのトラブルに巻き込まれたり、厄介な問題を抱えた時、彼(彼女)はそれまでの優しい態度をガラリと変え、それに全く関わり合いたく無い故に、急に冷たい態度になり、あなたを捨てるだろう。優しい人は優しいだけで、問題解決能力に乏しく、面倒な事には一切関わり合いたく無い、薄情なタイプの人間だからである。また、誰とて自分に対して厳しくて、気難しい異性と付き合いたくないと思うだろう。そういう見た目は悪そうな人間には注意するとよい。彼(彼女)はお互いの関係が順調に行っている時は最悪の相手かもしれない。しかし、ひとたび、あなたが何かのトラブルに巻き込まれたり、厄介な問題を抱えた時、彼(彼女)はそれまでの気難しい態度をガラリと変え、あなたの事を親身になって考え、助けてくれるだろう。気難しい人は普段は気難しい代わりに、問題解決能力があり、面倒な事でもあえて間に入ってくれて、人情味のある頼もしいタイプの人間なのである。要するに、すべてが揃っている万能な人間などこの世の中に1人もいないという事である。すなわち、すべてには一長一短があるのである。