高田義裕の人生論

今日の箴言

神エホバの言われる言葉を受け入れ難いと感じている者達に対して言える事は、神エホバの言われる言葉には必ず、最もな(正当な)理由があるという事である。

2.すべて人間の行う偉大な発見や発明は、神エホバの偉大な業を告げ知らせる事になるのである。

3.最も自由な主張とは、他の外的制限をすべてを取り除いて、後はその人自身の気持ち次第が、その人にとっての唯一の外的制限であるという状態にまでろ過する事である。この定義で言えば、我々の意見なり主張はすべて何らかの外的制限を受けている上で発する言葉であり、その意味においては、我々は少しも自由な主張などしていないのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

あなたは自己肯定感が低いか。それは素晴らしい事である。自己肯定感が非常に低い者は重度の鬱病であり、絶えず自殺願望があるので、それは良くないが、自己肯定感が強すぎる者も問題があるのである。なぜならその人は自分に自信があるから、ともすれば自信過剰になって自分は何でも出来る、という全能感に満たされ、根拠の無い自惚れを抱き、自ら逆境の中に身を投じ、自ら仕掛けられた罠にはまってしまうからである。その人は突然の災難と災いに必ず入り込み、それまで持っていた自己肯定感など吹き飛び、重度の鬱病になってしまうからである。しかし、日頃から自己肯定感が低い人は、慢性的な軽度の鬱病の様な状態を保っているので、決して無理をしないため、自らを逆境の中に陥れる事も決して無いからである。自己肯定感が低いという事は、悪く言えば、自分に自信が無いという事だが、よく言えば、決して慢心する事なく、自分の限度をわきまえている謙虚な人となれるのである。まさに中国の孔子の言葉にある様に[君子危うきには近寄らず、]なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

たとえ今は無くても、近い将来、人は必ず神エホバに従ってきたか、従って来なかったかの相違を再び見るのである。

2.人に語る時は必ず聖書を引用して通すこと。決して自分の意見を言うのでは無く、そうする者は、自分の知恵をひけらかしたいが為にするのである。

3.人が特に注意しなくてはいけない事は、最初の人間アダムが、神エホバから与えられた初めと終わりをきちんと定められた完全な素晴らしさを廉直に素直に受け入れず、まだ他に何か良いことが隠されている、すなわち、神は自分にまだ何か良い事を隠していると考え、よこしまな気持ちになって結局は反逆に陥った様に、はいは、はいを意味し、いいえは、いいえを意味する様にならなければならないのである。すなわち、複雑で難解な憶測を追い求めてやまないより多くの事を探り出そうという強欲に警戒しなければならないのである。なぜなら神エホバの真理とは、常に廉直で単純明解なものであるからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間の人生には誰でも等しく、苦しい部分と楽しい部分の2つの領域に分かれる。その比率は苦しい部分50%であり、楽しい部分50%であり、共に等しい。よって今まで人生を過ごしてきた時点で、格段苦しい経験も無く、比較的順調に生きてきた人間は要注意である。その人はいずれ突然、大きな災難と不幸に見舞われるだろう。なぜならその人は既に全人生に与えられている楽しい部分50%を使い果たしてしまったからである。残りは実に苦しい部分50%がまるまる残っているからである。逆に、今まで人生を過ごしてきた時点で、なぜ自分はこんなにも苦しい経験をしなければならないのだろう、と毎日苦しい日々で暮らしている者はいずれ突然、大きな幸運と幸福に見舞われるだろう。なぜならその人は既に全人生に与えられている苦しい部分50%を消化してしまったからである。残りは実に楽しい部分50%がまるまる残っているからである。すなわち、毎日苦しい日々を過ごしている者とは、少しずつ借金を返済している様なものであり、毎日が苦しい分、まるまる借金全額を一度に返す必要が無いため、突然大きな災難と不幸に見舞われる事は決して無いのである。しかし、人生をそれまで楽しく過ごしてきた者とは、ずっと最後まで自分が抱えている借金をそのまま返さずに利息だけ増え続けている状態であり、ある時点で利息で膨れ上がった膨大な借金を一度に全部返さなければならない事になるからである。そのため、物事が非常に順調にうまく進んでいたのに、突然、原因不明の病にかかったり、交通事故にあったりして大きな損失を被るのである。ならば、それを回避する術は無いものであろうか。それは1つだけある。すなわち、今人生を楽できている人は、その楽しさに身を任せてそれに流されるのでは決して無く、あえて自分をむち打ち、その楽な状態を捨てて、ハードルの高い目標を掲げて、あえて厳しい世界に飛び込むのである。その様に自分の方から苦労を求めて苦しい思いをする事により、自分が知らず知らずのうちに抱えてきた苦しい部分50%を消化していく事になるからである。その様にすれば、その人も少しずつ借金を返済している状態と同じ様になり、本来は突然、大きな災難と不幸に見舞われるはずの運命であったものがその災難を回避出来る事になるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は誰でも若いうちは自分の人生をいかに生きるか、などという重くて硬い哲学的な考え方を持って生きてはいない。ただ、漠然とその日の雑務に追われ、なんとなく生きているという感じが強いであろう。20代まではその様な感覚でも、[若さ]という取り柄があるから、それなりに生きていける。しかし30代を過ぎると、もはや世間からは若者とは思われなくなり、その日その日を深く考えず、無為に過ごしていると、まず、仕事の面で問題が生じる。それは職場の人間関係であったり、仕事の内容に対する不満であったり、仕事に対する自分の評価であったりが原因で、誰もがそこで大きな壁にぶつかるのである。大半の者はそこで、その仕事を苦しくても続ける事を止め、退職してしまう。なぜなら、まだ自分は30代だから、探せばいくらでも就職先はあると安易に考えてしまうからである。そして、あっと言う間に40代が来てしまう。そこで人は初めて気付く。自分は今まで何をしてきたのだろう。自分には何もスキルが無いし、これと言って他の人にアピール出来る専門的知識も無い。そこで人は慌てて仕事先を真剣に考える様になる。しかし、自分はもう若く無いから、自分の就きたい仕事がなかなか見つからない。それで仕方なくどこでも自分を雇ってくれる所に就職せざるを得なくなる。しかし、その職場では20代とは違い、年齢的に言って、上司は一人前の仕事が出来て当然だ、という態度で仕事の量と質を求めてくるから、本人にとってはそれはものすごく苦痛になる。もともと好きで入った職場では無いから、またここで壁にぶち当たり、仕事を辞めるか続けるかの選択を迫られる事になるのである。もしそうしなくても、職場の方から早期退職を求められる場合もある。ここで自分に屈して辞めてしまうと、ここから先はもう地獄である。その時には自分は既に貧困層の仲間入りをしており、仕事先も無く、あっても収入が不安定で、きつくて危険な誰もしたがらない仕事しか残っていない。ここで人はパートタイマーの仕事を幾つも掛け持ちして、なんとか生活を維持していかざるを得なくなる。しかし、給料は安く、仕事も激務のため、いずれは体調を崩し、仕事を続けられなくなり、また辞めてしまう。後は何も無く、路上で寝泊まりする浮浪者となってしまうのだ。この人の人生はどこから間違っていたのだろうか。それは20代からである。人は20代のうちから、自分の人生をいかに生きるべきかを深く考え、自分の就職先を真剣に探し、まだ若いうちから、自分に投資する、すなわち、自分を磨くために何かのスキルを身につけたり、自分のやりたい事をとことんやって、経験値と専門的知識をつけて自分という商品価値を高めて、将来の備えのために武装して来なければならなかったのである。そうしなければ、この世間という荒波の巨大な潮流にただ流されてしまい、最終的には自分の人生を自分では無く、全く第三者の他人が土足で入り込み、自分の人生の結末を、他人に決定されてしまう事になってしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

誰もが苦しさから逃げたい。できれば、一生楽して生きたい。しかし、苦しみから産まれたものしか真の価値は無い。例えば私達自身も私達の母親が生みの苦しみを経て私達を産んでくれたのである。仕事も辛い。しかし、その辛さから良いアイデアや発想やデザイン、優れた製品が初めて産み出されてくるのである。よって誰であっても、楽をしようと思うな。むしろ苦しみを追い求めてゆけ。苦しみを味わった者だけが立派な人間になれるのである。いじめを受けて苦しんだ者はその苦しみを通して、いじめられる側の心の内を理解出来る優しい人間になれるのであり、貧しさのゆえに明日の食物も無いほど苦しい経験をした者は、その苦しみを通して、食べていける事の有り難さを実感出来るたくましい人間になれるのであり、病気で苦しんでいる者はその苦しみを通して、健康というものがいかに素晴らしい事かを身に沁みて理解出来る思いやり深い人間になれるのである。その点、苦しい思いをせず、楽に生きてきた者は、他の人に対する同情心のカケラも無く、すぐに弱音を吐いて人々に対して暴力を振るい、感謝せず、いつも不平不満ばかり言って、全く幸福感が無いのである。すなわち、人は人生の途上において、苦しみを経験する事により、何気無い普通の生活がいかに有り難い事かを知り、何も無くても自ら足りてそれで満足する事により、初めて幸福感を味わう事が出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべてその人の真の価値とは、既に持っている素晴らしい特質で決まるのでは決して無く、むしろ、自分に欠落していた要素を心掛ける事によって訓練された事により、初めて得られたもので決まるのである。よって悔い改める必要性の無い善人よりも、自分の悪い所を悔い改めて自らを訓練し、自分にある悪い部分と毎日戦っている悪人の方が、神から見てより価値があるのである。

2.聖書の創世記2章16節と17節にある、[園のすべての木から、あなたは満ち足りるまで食べてよい。しかし、善悪の知識の木については、あなたはそれから食べてはならない。]と言われた神の言葉の意味は、[あなたはあなたの好きにしてよいのである。しかし、あなた自身がそれを放棄してはならない。]という意味だったのである。すなわち、神は人に何かを禁じたのでは無く、神は人に懇願しておられたのである。しかし、人は自分自身で善悪の知識の木の実を食べる事により、自分が自分の好きにしてもよい、という権利を放棄したのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

神によって確かに素晴らしさの全体は私達に与えられたが、その代わりに私達もそれに対して1つだけ与えるものがある。それは神に対して[従順]である事である。

2.真理が肉の体となって私達にも見える形で具現化して現れた存在が御子イエスキリストなのである。

3.神エホバ以外に1つですべての事を表す事の出来る様な、万能なものなど決して存在しない。よって私達は常に謙遜になって次の事柄を考慮に入れなければならない。すなわち、使う用途によって、方法も別に用意すべきなのであって、明確さを重視するなら、物事は顕微鏡のように部分的にしか見れないし、普遍性を重視するなら、物事は全体的に切り換えしなければならず、その時は明確さは犠牲にされるのである。すなわち全宇宙を見渡せる人は、小さな星1つ1つを正確に観察出来ないし、逆に非常に部分的に細かく正確に観察する為には、全宇宙という普遍性を放棄しなければならないのである。これは世界地図を見る事と同じである。飛行機が飛ぶ為には地図に直線的で正確な距離を測るためにメルカトル図法を用いる。しかし、メルカトル図法では、大陸の全体的な正確な形は歪んで表現されてしまう。逆に大陸の全体的な正確な形や位置を知りたい時は地球儀を用いるが、地球儀は曲線で表されるため、正確で直線的な距離を測る事が出来なくなってしまうのである。要するに1つですべての事を表現する事は神には可能でも人間には決して出来ないという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

健康学

よく人間の体は冷えていると健康に良くないと言われる。かと言って冷たい物ばかり飲んだり食べたりしてはいけないという事にはならない。問題は、熱い物を食べた後に冷たい物を食べたりしてしまう事にある。普段冷めてしまった料理を毎日食べていてもそれは問題無い。何故なら人間の体は順応性があり、冷たい物ばかり食べていても、体が冷たい物を受け入れる事に慣れて順応してくれるからである。また普段熱い料理を毎日食べていてもそれは問題無い。それは、熱い物ばかり食べていると、体が熱い物を受け入れる事に慣れて順応してくれるからである。問題は、普段冷めた(熱い)物ばかり食べている人が突然、熱い物(冷たい物)を食べたりすると、体は冷めた物(熱い物)に順応していたのに予想外の熱い物(冷たい物)が体に入ってくる事で、冷たい物(熱い物)に免疫力があった体の状態がパニックを起こしてしまい、免疫不全を起こしてしまうのである。この時体は突然体の中に入ってきた物に対応する為に、物凄いエネルギーを消費してしまう。これでは体の調子が悪くなってもおかしくは無いのである。そのように体に余計な負担を毎日かける事によって、体の免疫力が弱まり、その弱った所に病原菌やウイルスがすかさず入り込み、癌やその他の病気を誘発する原因となるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

天の神は私達に御自身の独り子であるイエスキリストを贖いの犠牲としてその命を投げ打って下さったのである。例えば、あなたは自分の愛する子供を極悪人の犯罪者を牢から出す為にその命を犠牲に出来るか。決して出来ないし、したくもないはずである。なぜならそんな事をする義務など無いからである。しかし、神は極悪人の犯罪者である私達をこの世という牢獄から解放する為に御自身の子供を、そうする義務も無いのに差し出されたのである。これは出来る事の中で最大の事を神は私達の為にしてくれたのである。であるならば、日常の些細な事で思い患っているあなたの悩みなど神が聞いてくれないはずが無いでは無いか。心から神エホバに熱烈に祈り続けるなら、あなたのどんな不可能と思われる悩みをも神はあなたがそれを乗り越えられるように必ず助けてくださるのである。