高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)     人間性の大切さ

人は人生において非常なピンチに陥る事がある。その時に、まさに生死を分ける条件がある。それはその人の性格が悪いものであるか、性格の良い人であるかの差である。人間にとって敵とは常に人間なのである。要するに、どんなに鬼の様に恐ろしい敵であっても、彼らとて人間なのである。すなわち、赤い血が流れている以上、鬼の目にも涙なのであり、敵でも機嫌が良かったり、あなたの心が正直で信頼出来る人間性を持っているのであれば、敵である彼らも一目置いて、あなたの事を悪い扱いにしないのである。彼らはひょっとすると、あなたの欺瞞の無い純粋な心に惹かれて自分の本当の胸の内を明かしてくれるかもしれないし、本来なら厳しい罰を与えるところを容赦してくれる場合があるのである。また、誰にも教えてくれない貴重な情報をも教えてくれるであろう。よって人よ、ぜひ自分の心を精錬し、今あなたが人間性の悪い、性格の悪い、貪欲で、わがままで、短気で、感謝の念の無い、片意地で、傲慢で、親切心の無い人間であるのならば、それを人間性の良い、性格の良い、貪欲で無い、わがままで無い、温和で、感謝の念のある、協調性のある、謙遜で、親切心に満ちた人間になれるよう努力するように。それらの良い特質を普段から身に付けるよう努力する事を習慣づけるなら、もし、自分に非常に不利でピンチな状態に陥ろうとも、あなた自身の人間性があなた自身を救う事になるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名  )     偽りの宗教と真の宗教との違い

偽りの宗教はその教えを行う事によって、それを信じようとする者に対して良い事しか約束しないし、良い事しか起こらないとしか言わないものなのである。真の宗教とは何かと言うと、以外な事にその教えを行う事によって、良い事ばかりあるとは言わずにむしろ、それを行う事によって災いに遭う場合もある事を自らがはっきりと、正直に言っている事にあるのである。すなわち偽りの宗教は偽善的であるのに対し、真の宗教とはあえて綺麗事は言わずにむしろ信ずる者に対して苦役を共にする事を奨励するのである。だから、みんなは楽したいから、偽りの宗教の方を信じるのであり、みんなは苦しむのは嫌だから、真の宗教を嫌うのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

大都市ニューヨークに豪華で立派な建物のホテルがあった。そこは世界中から政治家やハリウッドスターや大富豪達が泊まる場所であった。そしてある時、1人の大富豪がそのホテルのぴかぴかに光った大理石のロビーを歩いていた。彼は今日、大事なビジネスの件でこのホテルのVIPルームで取引先と会合し、自分に非常に有利な商売の取引を成功させたばかりだった。彼は有頂天でロビーを歩いていたのだが、ロビーの隅にあるトイレにふと目をやると、そこには年老いた1人の清掃員がトイレを掃除していた。それを見て彼は、こんなお年寄りになってまで汚いトイレ掃除をして安い賃金で貧しく生活しなければならないのかと思い、彼を不愍に思い哀れんだ。そしてそれと比べて自分はいかに素晴らしい身分にいるのかと改めて感じ、心の中でひそかに清掃員に対して侮蔑感を感じながら自分に対しては優越感を感じた。どうであろう読者よ、このホテルの中で一番偉いのは誰であろうか。このホテルの支配人であろうか。それともここに泊まりに来る彼の様な大富豪達であろうか。いや決してそうでは無い。このホテルの事を隅々までよく知っているのは、あのお年寄りの清掃員であり、ロビーの大理石をぴかぴかに磨いたのも彼であった。彼は誰も目の届かない細かな部分まで毎日綺麗に掃除をしており、その部屋の使い方でその泊まった人間の人格的レベルを把握する事が出来たほどだ。彼の頭の中では、この世の中で有名で世界中から脚光を浴びているVIP中のVIPほど部屋の使い方が汚くて散らかしてある傾向を知っていた。それでも彼は文句1つ言わずに黙々と掃除を続けた。そうである、彼のお陰でこのホテルの綺麗さは保たれており、その綺麗な床を歩く者は彼のお陰で優越感を抱いているのも同然であった。実際、自分が掃除したソファーや椅子にVIP達が何も気にせずに座っておしゃべりしたり、安楽そうに寝転がっているのを見ると、彼らはまるで彼の手の中にある赤子の様であった。そう、その清掃員の目で見たら、お客のすべてが自分が掃除した所を自慢気に歩いているのが、彼にとっては自慢なのであった。こうして華々しい立場にある人達よりも、普段から全く目立たず、影で汚くて卑しい仕事をしている人間達こそ本当に偉大なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

豊かさの病理(代償)

精神的に富むためには、物質的に貧しくなる必要がある。また、物質的に富むためには精神的に貧しくならなければならなくなる。すなわち、精神的富と、物質的富とは互いに反発し合っており、反比例の関係にある。よって、人は決して精神的富と物質的富とを同時に手に入れる事は出来無い。人は物質的に富み、食うのに困らなければならないほど、精神を病み、自閉症、引きこもり、対人恐怖、パニック障害、鬱病などの症状が顕著に出てくる。これらはすべて、物質的豊かさが生んだ豊かさの病理(代償)である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

大金持ちは毎日の金持ち暮らしに飽きてきて嫌気がさしていた。もう金を見るのも嫌で、彼は思い切って、莫大な全財産を福祉団体に寄付した。その総額はなんと1000兆円であった。そして彼は月収が6万円の施設の清掃の仕事に就くことにした。毎日の生活は以前と比べてギリギリとなり、暮らしのレベルも一気に下がった。しかし彼はそれまで苦もなく買えた品物が全く手に届かなくなった事により、初めてその品物の価値の高さを認識する事が出来た。まず品物を大事に使うことを学んだ。そして何よりの楽しみは、100円の缶コーヒーを1日1杯飲むことであった。給料は僅かではあったが、数千円を貯金する喜びも生まれた。また、無駄な物を買うことを止める必要性も自覚出来たし、最低限の生活必需品で満足する喜びも知った。何よりも月6万円しか収入がないから、大金持ちだった頃の何も考えずにお金を湯水の様に使っていた頃と違い、どうやりくりすればひと月生活出来るかを考えなければならない事が、脳を刺激して頭のトレーニングになり、それを達成した時の満足感を味わう事が出来た。彼はひどい思いをしてお金を稼ぐ必要も無くなり、時間に余裕が出て、たっぷりのんびりと自分のプライベートな趣味や楽しみを自分のペースで楽しむ事が出来た。こうして彼は高価な品物は全く買えなくなったが、その代わり、金持ちの時には決して味わえなかった真の幸福感を得た。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は何かを得たと思うと、それを守ろうとして保守的になり、無活動になる。例えば、人が大金を手に入れたなら、その大金を失わないようにそれを守ろうとするし、人が幸せを得たなら、その幸福を守ろうと必死になる。すなわち、その得た状態を失いたくない故に、その立場なり、身分なり、権利なりにしがみついて離さない。すなわち、現体制の保守派となるのである。今の現代の社会情勢を見てみるがよい。すべての人間が今自分が得ている利権なり立場なりを固守して離さない。それ故に社会はイノベーション力を失い、新しい価値観を生み出すダイナミズムという変化を好まない、無活動で無気力な社会になって行くのである。その結果が今私達が経験している貧富の差の拡大、あらゆる弊害、不平等、不正、非民主的、暗黒政治、差別などの問題を助長し、保守派が大多数の社会はいずれ自己崩壊するのである。人間にとって本当に幸福である事とは、常に常識を疑い、既成観念を打破し、常識を覆すほどの向上心を持ち、常に新しいものを求めて、あえて危険を顧みず、まだ未知の世界へと挑戦してゆくアドベンチャー精神にこそあるのである。そこにはマンネリ化した安定感を望む怠惰な精神のかけらも無い。そこには常に現状に満足せず、常に飢えたオオカミのように、良い意味で貪欲なチャレンジ精神が宿っていなければならないのである。そうである、人間の人生とは、同じ場所に定住する市民では無く、荒野を旅する旅人の様でなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

悪の定義

ただ単に悪を行う事が悪なのでは決して無く、もはや私達は努力した分ほどに報いが返って来ない状態を悪と呼ぼう。それが真の悪である。なぜなら、人は働いても働いても一向に楽にならず、どれだけ努力しても報われない自分の状況に気付いた時、その人は絶望感に満たされ、それにより自暴自棄になり、犯罪を犯すようになるからである。

2.内容の素晴らしさや悪さに関係無く、縛られるものであるならば、それらをすべて悪と呼ぶ事にしよう。なぜなら、あなたが義のゆえに不自由な思いをしているなら、その義こそ、あなたにとって悪なのであり、義とはそれが素晴らしければ素晴らしいほど、その状態を保たなければならない必要に迫られ、人を縛り、がんじがらめにする。当然人は精神的に縛られると次第に精神を病み、その素晴らしさを守るために極度の圧迫を受け、遂には精神に異常をきたし、それから逃げるためにやはり犯罪に手を染める事になるからである。すなわち、義の追求こそ悪なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

今の現代、女性が独り身で名を挙げようとする能力ある女性のビジネスの進出が盛んだが、結局、女性の幸福とは、昔から変わる事の無い、自分にとっての良き夫を見つける事に尽きるのでは無いだろうか。私にはこの現代において良き夫という男性があまりにも理想的過ぎて、非現実である故に、昔からある、待っていればいつか必ず白馬の王子様が私を迎えに来るという女性の淡い願望、すなわち、シンデレラコンプレックスという幻想に女性自身がそれを叶えられない事に気付いてその幻滅の故にウーマンパワーの方向に向かい出した様に思えてならないのである。

2.映画とは、あくまで女優や俳優が主役なのでは決して無く、その作品を作る監督が主役なのである。よってその映画作品によって俳優や女優に人気が出て、有名になった場合、それはその役者の力に依ったのでは無く、あくまでも、その映画作品を作った監督の才能が良かったからなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)      人を救う事の難しさ(2)

ある重度の精神的疾患にある人はあまりの凶暴さゆえに、精神病院の中の檻で鎖につながれていた。しかし、その病人の家族や友人達は諦めず、常に彼に対して彼に寄り添い、彼を精神的に支え、彼に対するケアを続けた。幾度も幾度も失敗し、病状が良くなったと思ったら、途端に元の悪い状態に戻ったりの繰り返しで、絶望感を感じる事も何度も経験した。しかし、1人が倒れそうになると、別のもう1人がその人を支え、こうしてチームワークで互いに助け合いながら、皆気持ちを1つにしてその病人に対し、全力で治療を続けた。その甲斐あって、少しずつではあるが、彼の強暴性は次第に収まり、遂には実際の現実社会に出て、仕事を見つけ自立出来るまでになった。家族や友人達は皆、奇蹟が起きたと涙を流して互いに抱き合って喜んだ。気付いて見ると、そうなるまでに20年の月日が経っていたのであった。どうであろう。たった1人の人を救うのに家族や友人、医師、看護師、地域の人達を含めて何十人の人がそれに携わってようやく1人の人を救う事が出来たのである。この全世界には精神的肉体的な病気で苦しみ、その結果、心を病んでいる人が大勢いる。人類の人間の数をざっと見積もって70億人いるとしよう。この70億人の中で自分はなんの問題も悩みも無く、精神的肉体的に全く健康であると言える人は1人としていない。皆何らかの事が原因で問題と悩みを抱えている。それではその全人類を救うためにどれほどの時間を要するであろうか。単純に先ほどの例を基にして計算してみると、70億人×20年=140000000000年(1千400億年)もかかるのである。これは宇宙誕生から今までの年数よりも遥かに長い途方も無い数字である。また1人の人を救うのに少なく見積もって100人の人々の協力が必要であると仮定して、これも単純に計算してみると、70億人×100人=700000000000人(7千億人)もの人数が必要となるのである。この数は人類誕生から現在までの生まれてきた人すべての数よりも遥かに多いのである。これほど人の苦しみを癒すためには、途方も無い人数と時間とエネルギーとすべての人々の協力しようとする強い心の一致が必要不可欠なのである。果たして現時点で全人類が心を1つにして1つの目標に向かって全力で一致する事が出来るであろうか。いや、残念ながら全人類は一致するどころか全く分裂しており、争いや紛争は絶えず、そんな事は全く不可能で絶望的である。これにより人を救う事がいかに難しい事かが理解出来るのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

(題名)       人を救う事の難しさ

人を救う事は難しい。最近では、孤独死という言葉が日本では定着しつつある。誰にも自分の存在すら知られずに、貧困の末、アパートの一室で腐乱死体で発見される。遺体の後始末も誰も引き取り手が無く、アパートの所有者とその死人の親族の間で言い争いになる事はしょっ中である。なぜ彼らは社会的に最低限の生活を保護する国の機関や福祉の受け皿があるのにそれを利用しないのか。それはひとえにプライドである。いい歳になって、自分はそれまでの人生を自分なりに必死に生きて来たというプライドが社会福祉に頼るのを拒むのである。すなわち、心が素直で謙遜でなければ、見ず知らずの他人に、助けてください、というその一言が言えないのである。彼らは助けを必要としていることを十分認識しておきながらも、頭を下げて助けてくださいという事を恥だと思っている。そんな自分がみっともない恥を掻くくらいなら、死んだ方がマシだと思うのである。すなわち人の善意を素直に受け入れられる心の状態になっていないのである。これこそ問題であり、本当に助けを必要としている本人自身が助けを拒んでいるという自己矛盾の問題があるのである。よって、人を助けたいと思っても、本人が助けて欲しいにもかかわらず、あくまでも自分の自尊心が邪魔をして、助けに来てくれた人に悪態をついたり、逆に暴力まで振るってしまうのである。当然助ける側も人間だから、そんな事をされては助けてやろうとする気持ちも冷めてしまう。ここが人を救う事の難しさなのである。もし、その様なプライドがある人達が奇蹟的に相手の言う事を素直に聞いて、援助を受け入れたとしても、そこからがまた大変である。彼らの孤立した理由は悲惨なものであり、人間としての扱いを受けず、奴隷の様に扱われて来たから、物凄い鬱憤とストレスと不満を体中に溜め込んでいる。当然その人は援助する側の人に今まで溜まり溜まった不満を暴言や暴力という形で吐き出す。暴言や暴力を受ける側の忍耐もそこで尽き果て、しまいには見捨てざるを得無くなるのである。まさに助ける側も命懸けであり、まるで完璧で神の様な忍耐強さを求められてしまい、助ける側も心身を病んでしまうのである。よって人が行える援助も物質的な面では事足りても、精神的な面ではどうしても無理があるのである。よって、私達罪深い人間は、助ける側であろうと、助けられる側であろうと、唯一真の神であるエホバに依り頼み、その方の前で常日頃から謙遜で素直な心を培う訓練をし、いざという困った時には、恥を物ともせず、率直に助けて下さい、と正直に他の人に言える様な精神状態を保っておかなければならないのである。それは誰のためでも無い、自分のためなのである。