高田義裕の人生論

今日の格言

進化論

進化論において、常に生き残るものは強者であり、弱者は切り捨てられるという考え方があるが、実は逆である。常に生き残るものは最も弱い者であり、最も強い者が切り捨てられるのである。すなわち、適者適存が正しいのであり、常に変化する環境に適応していく者こそ生き残れる者である。すなわち現体制において一番強い者は今の環境に対して最も適している者であり、それは言い換えれば、今の環境が激変した時、今の環境にどっぷりと浸かっていた分、新たな現実の台頭の際に全く対応出来ない事を意味する。逆に今の現体制で最も弱い者、すなわちこの現体制で煮え湯を飲まされている者、マイノリティーであり、邪魔者扱いされ、厳しい生活を強いられている者の事である。その者達はこの厳しい環境の中でどうしたら生き残れるかを必死に考え、模索する。そうしているうちにどんなに厳しい環境に置かれてもそれに対処するだけの知識や力を蓄える事になるのである。よって未曽有の環境の大変化が急に起きても、今の現体制で安楽に暮らしている現在の強者は不意を突かれ、慌てふためくが、いつも気を抜けずに厳しい環境を生き抜いてきた弱者にとっては環境の変化はむしろ自分がのし上がるチャンスなのである。この様にして、今栄えている者は、いずれ必ず訪れる世界の変化に対応出来ず、滅んでいくしか無いのであり、今不利な立場にいる者はいずれ必ず訪れる世界の変化に難なく順応して次の時代の新しい覇者となれるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中は悲惨な事で満ちている。叔父が姪を性的に虐待したり、父親が娘を性的に虐待したり、姑が嫁を陰湿にいじめたり、それを旦那は知っていても、マザコンの故に何も言わずに母親に甘えていたり、親が子供が言う事を聞かないのに腹を立て、虐待死させたり、奔放なセックスで望まない妊娠をし、便所で子供を産み落とす女性、望まない妊娠で生まれた子供を捨てていく親たち、セクハラばかりして女性を性の対象としか見ていない男たち、北朝鮮の様に政治犯を強制収容所に送り込み、激しい虐待や暴行を繰り返し、過酷な強制労働をさせて、それにより自分の懐を肥やす政治家たち、小さい頃から貧しくて奴隷として売られていく子供たち、職場では同僚のいじめがあり、上司からのパワハラを受けて、精神を崩壊させていく若者たち、学校では陰湿ないじめにより不登校になる人達ばかりが増えているが、肝心の教師が何もしてくれないという不条理、自然災害の多発により、それが元で貧困に陥り、徐々に衰弱し死んでいく老人たち、もう挙げたらキリが無いのである。しかし私達はこの世の中の光の当たらない人達の現実をよく知っている。これはすなわち、人間が人間を支配するとどうなるかという決定的証拠でもある。私達はこれを見て、神などいないと言うが、実は逆である。問題が悲惨でむごいものであればあるほど、人類は自分達が無能であり、如何に神が人間を支配するのにふさわしい方かを反面教師的に教えているのである。もし神が支配すればこれらの厄介な問題はすべて解消される事を、今あるこの悲惨な現実が我々に間接的に証明しているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

清さの不条理

クリスチャンは清くなければならぬ、神に従う者はあらゆる面で清くなければならない、と私はずっと思っていた。また人間の理想は個人主義であり、人間1人1人に意味があるし、価値があると思ってきた。しかし私はそれを実践するうち、それが如何に無意味で虚しい事かが悪魔サタンによって思い知らされた。人は淫行も姦淫もせず、あらゆる貪欲な欲望も捨て去り、全く清くなったとしても、それは他の人から賞賛されるかもしれないが、しかし本人にとって全く不健全で無理を強いているものでしか無いのである。なぜ他の人から感じの良い人と思われるために自分の欲望を抑えて自分を良く見せる必要があるだろうか。そんなものはくだらない事であり、他の人に良く思われたいために自分の見た目や心を良くするとすれば、それはもはや他の人の奴隷であり、自分をのけものに自らがしているのである。自分の主人はあくまでも自分自身であり、自分のために生きなくてどうするのか。すなわち人から良く思われる必要性は全く無いのであり、人は他の人に迷惑をかけない限りは、自分の欲望のままに生きればそれで良いのである。人から何を言われようと何を思われようとそんな事は気にする必要は全く無いのである。もしそれでも他の人から良く思われたいために自分の欲望を抑えているとすれば、それはその人は気が弱い人なのであり、孤独を非常に恐れる点で自分の人生を他の人に依存して生きている不完全な人なのである。本来の人間のあり方は孤独を恐れず、他の人に迷惑をかけない限りにおいては自分の主義主張を貫いて、気ままに自由に自分のためだけに生きるべきである。それが人間の自然体であり、自分にとっての真の健全な生き方なのである。人の目を気にしてどうするのか。人はあなたに悪くは言っても、いざという時は全く何もしてくれない赤の他人なのである。また、人はもし完璧に清くなっても、それは知らず知らずのうちに自分を高慢にならせ、自分は清い、という自覚が自分を誇るという不健全な方向へ人を導くのである。すなわち、清くなればなるほど、人は驕り高ぶり、自分が何か特別で何をするにも他の人から特別扱いされるべきだ、と考えるようになる。それが高じて遂には他の人のものを自分は奪っても良いと考え、最終的には強姦や盗みをするようになり、他の人に迷惑をかける人間になってしまうのである。そんなくらいなら、まだ人は他の人には言えない自分の罪を犯しながらも普段はその後ろめたさを感じながら平静を装うという二重人格的な生き方の方がもっと健全なのであり、罪の意識を保ちながら生きる方が、自分が鬱病にならない程度に自分を恥じている方が謙虚になれるし、人のものを自分は取っても良いなどとは微塵にも思わない点、人に迷惑をかける事も無いのである。すなわち、人間1人1人は巨大なパズルのワンピースでしか無いのであり、ワンピース1つでは何の意味も成さないのであり、あくまでも巨大なパズル全体が完成しない限り1人1人は意味を成さないのである。人間とはこの様に神格化された個人主義であってはならないのであり、個人主義の助長も結局は人を高慢にならせ、遂には他の人に迷惑をかける人間になってしまうのである。要するに人間1人1人の位置付けとはヒーローやヒロインになる事では無く、人間の集団の中の1人に過ぎないという地味な位置付けに過ぎないのである。これが健全な人間1人1人の定義であり、人間は自分の栄光を求めず、単なるたくさんいる人間の中の1人に過ぎないという謙虚で目立たない存在に過ぎない事が人間の存在の正しい定義なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

唯一まことの神である父エホバは、まるである孤児院にいる院長の様です。彼には実の息子がいましたが、彼はいつも他の孤児院の子供達と一緒に過ごし、いつもそばにいて彼らを大変可愛がっていました。いつもそれを見ていた実の息子は他の孤児院の子供達よりも自分が可愛いがられていないのに腹を立て、父に言いました。父よ、あなたは実の息子である私よりも他の孤児院の子供が可愛いのですか。あなたはいつも私のそばにいてくれませんし、彼らに与えるおもちゃの方がいつも私のより多いのですが。すると父は言った。息子よ、あなたには実の父親である私がいる。そして私の所有物はすべてあなたのものだ。しかし彼ら孤児院の子供達を見なさい。彼らは皆、実の親から死に別れしたり、捨てられた者達ばかりなのだ。一体誰があの子達を可愛いがる者がいるだろうか。私が可愛いがるしかないのだ。私が一番愛しているのはあなたであり、しかしそれ以上に孤児院の他の子供達が不憫でならないのだ。それであなた以上に彼らには愛情が必要なのであり、私は彼らをあなた以上に愛せざるを得なかったのだ。あなたは彼らよりはるかに恵まれているからだ。そうである。神は実の息子であるイエスキリストよりも私達の様な罪深い孤児を愛して下さるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

物事には一長一短がある。すなわち簡単で単純な問題ではなく、これこそが世の中を変える事を難しくしている。例えば、防犯カメラがあるが、ある人はそこら中に防犯カメラが取り付けてある事をプライベートの侵害であると考え、人間社会の超監視社会に警鐘を鳴らしている。しかしある別の人は自分がいない間に道路に止めてあった車を盗まれた。しかしそこら中に防犯カメラが取り付けてあったおかげで犯人の行方を追跡する事が出来、犯人は逮捕され、車は無事持ち主の元に戻った。こう考えてみると、単純に防犯カメラはプライベートの侵害であるとして撤去するべきだ、と言うことも出来ないのである。かと言って、防犯カメラは超監視社会の助長を促し、プライベートを侵害する事にはならない、とも言えないのである。ここが世の中を変える難しさであって、この様な問題は防犯カメラに限らず、至る所で見られるものである。この小競り合いが社会問題となって多くの争いや訴訟となって表面化しているのが、現代社会の難しい部分なのである。