高田義裕の人生論

今日の格言

神の存在の証明

否定背理法

まず、存在するかわからないものをオメガと置く。そしてそれ以外のものをアンチオメガと置く。そしてもし、アンチオメガが存在することを証明できたならば、間接的にオメガの存在も証明できたことになる。なぜならアンチオメガは書いた字のごとく、オメガの存在を前提として初めて成り立つ概念だからである。

否定背理法の具体的適用

[神が存在するか]はわからないので、[神が存在する]をオメガと置く。そして神は存在しないことをアンチオメガと置く。もし、神が存在しないことを証明できたならば、すなわち、アンチオメガが存在することを証明できたならば、間接的にオメガの存在も証明できたことになる。なぜなら、神は存在しないという主張自体がアンチオメガであり、神が存在すること[オメガ]を前提にしたものだからである。よって、神は存在しないことが確実ならば、間接的に神が存在することも確実なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人は何のために生きるのか?また、自分自身とは何か?また、人間とは何か?

人はなぜ生きるのか? 残念ながら、その答えは、私達が生きている限り、永久にわからない。また、自分とは何か? 残念ながら、それも自分が自分自身である限り、永久にわからない。古今東西、人類はこの答えを得るべく、多くの哲学者が知恵を絞り、あらゆる事を試し、あらゆる手段を講じて熟考し、思索し、探求し続けてきた。しかし、それは私達が人間である限り、永久にわからないのである。この意味は、我々にはその答えを知る能力がないとか、力量不足であるとか、努力不足であるとか、知恵がないという意味では決してない。すなわち、我々が何者であるのかは、原理的にわからないのである。その理由をこれから説明しよう。仮に一次元人がいたとしよう。一次元とは線のことだが、この一次元人には線は見えない。点にしか見えないはずだ。なぜなら、線が線として見えるのは、二次元以上の人だからだ。同様に、二次元人がいたとしよう。二次元とは面のことだが、二次元人には面は見えない。つまり、形が見えないのだ。面が面として見えるのは、三次元以上の人だからだ。このように、それ自身はそれ自身が見えないのである。すなわち、見る対象を見ることができるのは、常にその次元より1つ高い存在でなければならないのである。よって、我々は生きており、自分は自分自身であり、我々は人間そのものであるから、我々は生きるとは何か?、自分自身とは何か?、人間とは何か?、を知ることは、原理的に不可能なのである。言い換えれば、我々は生の奴隷であり、自分自身の奴隷であり、人間という奴隷なのである。よってもし、我々が生きるとは何か?、自分自身とは何か?、人間とは何か?、を知るためには、それらよりも一段高い次元から見なければならないということである。すなわち、生きるとは何かを知るためには、生きることを超越しなければならないし、自分自身とは何かを知るためには、自分自身を超越しなければならないし、人間とは何かを知るためには、人間を超越しなければならないのである。しかし、そんなことは我々には到底、不可能なことであるから、私達は永久に、生きるとは何か、自分自身とは何か、人間とは何か、を知ることはできないということである。それでは、それらの事を知ることができるのは、誰か?。それは神である。なぜなら、神は我々よりも高次元な存在であるから。よって、人はよくよく神を知ることに努めよう。なぜなら、神を知ることが、人にとっての知識の初めだからである。