高田義裕の人生論
数学の常識における危機
1+1=2ではない。また、1ー1=0でもない。例えば、男と女の1人ずつが一緒になれば、彼らはもはや二人ではなく、一体である。すなわち、1+1=1である。なぜなら、お互いの不足分を二人で補い合い、二人の分を分け合い、互いの短所を交換し合い、2つのパズルのピースがちょうど合わさって1人の人となるからである。まさに聖書にこう書かれてある。創世記2章24節、それゆえに、男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き、二人は一体となるのである。また、ある人がある商品を欲しくて手に入れたい場合、その人とその商品が一緒になるためには、その間に必ず媒体となるバイヤーが必要だ。その商品を運ぶ運送屋も必要だし、この場合、1+1=3にも4にもなる。また、1つのビスケットが割れた場合、1ー1=0ではなく、そのビスケットの大きさにこだわらなければ、ビスケットが半分になって1ー1=2になったり、その欠片も1として見なすなら、1ー1=∞になったりする。また、化学式においても、水素と酸素が結合するためには、その構造式は、H―O―Hとなり、一個余分にHが必要となり、この場合、1+1=3となる。このように我々の住むこの自然界は数学の足し算や引き算の常識が通用しないことが数多くあるのである。すべての物質間においても、1つ1つが合わさると、そこには摩擦熱が生じて、わずかではあるが、物質の質量が摩擦エネルギーとして放出された分、質量は減るのである。すなわち、1+1=0,9999…となる。また、2つの物質が離れると、合わさっていた共有部分集合が分かれて、重複していた部分が1つ1つの別の集合になることで、わずかではあるが、質量は増えるのである。すなわち、この場合、1ー1=1、01となる。このように、自然界の物事をより、緻密に厳密に調べていくと、数学における足し算や引き算の前提、もしくは自明な事柄が成り立たないことが分かる。およそ、1+1=2や、1ー1=0などのように、綺麗にきっちりとした整数に分かれる世界などどこにも無いのである。よって、これからは数学はもはや古い学問として淘汰されていくであろう。これからはもっと自然界の物事がより正確に認識できるようになる新しい学問が必要となる。すなわち、数学の限界を超えた超数学が必要となるのである。