高田義裕の人生論

悪も必要である。

悪とは何か?また善とは何か?普通の人ならこう思うだろう。悪とは殺人であり、盗むことであり、嘘をつくことであり、欺くことであり、騙すことであり、いじめることであると。善とは、親切を示すことであり、貞潔であり、道徳的であり、真面目であり、正直であることであると。では、もし世の中が全部、平和になり、みんな秩序正しく品行方正になり、あらゆる悪行が無くなったなら、それは正しいのであろうか?答えは否である。それは息苦しい世界であり、真面目に振る舞うことのフラストレーションが溜まり、人々の心のストレスは極限に達し、みんな病気になって死ぬか、あまりもの窮屈さと生きずらさに耐えきれず、自殺してしまうだろう。何故そうなるのか?それは人間は余りにも真面目になると、息抜きができなくなるからである。そう、互いに真面目に振る舞う分、互いに本音を言い合うことがはばかれる世の中になってしまうからである。仕事をしたら、必ず休憩しなければ、心身が壊れてしまう様に、真面目に振る舞ったなら、必ず互いに愚痴をこぼしたり、自分の感情を思いっきり出して、発散しなければ心身が壊れてしまうからである。気兼ね無く喋られる相手がいなかったら、人間は心を病み、病気になってしまうのである。すなわち、善とは、単に正しいことを行う事では無く、悪とは、単に悪事を行う事では無いという事である。すなわち、悪の定義とは、悪であるべき位置に悪が無く、悪があるべきでは無い位置に悪があるということなのである。すなわち、正しさの定義とは、悪があるべき位置にあるということなのである。言い換えれば、たとえ善行であっても、その善を行うべきで無い時に行ったならば、それは悪であるという事である。すなわち、善も正しくあるべき位置に留まっていてこそ、初めて正しいのである。これは、例えれば、ガン細胞は元々は体の一部にあったものが、そのあるべき位置、すなわち、そのあるべき役割からはみ出してしまい、そのあるべき位置から離脱した事により、初めて体に悪影響を及ぼす、ガン細胞に変質してしまった事に拠るのである。また、みんなから忌み嫌われるナルシストも、もし何らかのいきさつで、酷い修羅場を経験して、普通の人格なら、精神がまいってしまうのを、自分への愛着が人より大きい分、その極限状況を乗り超えてしまえる要素にもなり得るのである。例えば、聖書の原罪であるSinも、その語源には、的を外す、という意味があり、これも、的という本来あるべき位置からずれたという事であり、そこに本来あるべきものがそこに無いという事によって初めて罪となったという事である。よって、現在の世界は、神こそが人間の支配者であり、神がこの世界を支配するべきであるのに、いまだに、その主権が、神にでは無く、悪魔サタンや高位の立場にある少数の人達によって握られているのである。この事によって、この全世界は、本来あるべき状態から大きく外れている事によって、全世界は邪悪で罪の状態にあるということである。

高田義裕の人生論

数学的背理法の誤り

数学における問題の解決の仕方に背理法がある。しかし、私に言わせれば、数学的背理法はその根本から間違っている。例えば、背理法とは、ある命題を証明するときに、まず、Pで無いと仮定して推理していくと、矛盾に突き当たる。よって、矛盾はあり得ないから、答えはPである、と言うものである。しかし、それは、否である。世の中には、Pで無ければ、かつ、同時にPである、という状態など、無数にあるからである。すなわち、Pで無く、かつPである、という矛盾を包含する(同時に満たす)集合Qが存在するからである。例えば、我々、人間の人生とは、何が起こるかは、皆目見当も着かない。今、生きていても、明日は死ぬかもしれない。それで、人間の人生観に対する正しい姿勢は、世の中はもうすぐ終わるかもしれないが、また同時に、自分の人生は、まだこれからである、と思うことにあるのである。これは、立派な、Pで無ければ、かつPでもある、という矛盾を包含するQ集合の1つである。この様に、世の中には、矛盾を包含する要素はいくらでも転がっているから、単純にPで無いなら、Pである、また、逆に、Pであるならば、Pで無い、と一方通行的に結論するわけにはいかないのである。よって、この事により、数学的背理法はその根本から間違っているのである。